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その日は母が朝早く職場に出勤しなくてはならず、急ぐ母は起き出した恭二を見るなり早口でまくしたてた後、弁当の代わりに昼食代の千円札を押し付けるように渡してきた。
「わぁ時間がっ――じゃあ行ってくるわねっ!」
「いってらっしゃい、お母さん」
バッグをわしづかみにした母は小走りで玄関に向かい、バタンッと大きな音を立ててドアを閉めた。
「あぁっ――財布を忘れたっ!」
と思ったらすぐに戻ってきて、また出て行った。
「あぁっ――携帯も忘れたっ!」
と思ったら再度引き返してきて、また出て行った。
「あぁっ――今度は車の鍵っ!」
と思ったら三度、家に駆け込んできた。
「はい、これ」
なぜかリビングのソファにあった車の鍵を母に手渡す。
「お母さん、焦るのは分かるけどそれで忘れ物をしたら意味ないよ?」
「うん、ごめんね聖美っ――ありがとうっ!」
言いつつもまた慌ただしく外に飛び出していった。
「事故、起こさないといいけど……」
恭二は少し心配になってきた。
「――聖美」
「?」
教室に向かう途中で声をかけられ振り返ると、そこに知らない顔の男子生徒がいた。
「よぉ、聖美」
言って、男子生徒は笑う。運動部にでも所属しているのか日に焼けた肌に筋肉質な体格をしている。
(下の名前で呼び捨てってことは……それなりに親しい関係ってことか?)
だが事件前の聖美の交遊関係をすべて把握しているわけではない恭二がいくら考えようと思い出すはずもない。
「……すみません、誰ですか?」
「ん? 俺だよほら、俺」
(分からないから聞いてるんだけど……)
オレオレ詐欺ではあるまいし、ちゃんと名乗って欲しいと恭二は少し苛立つ。
「だから塚原慧太だって。俺ら付き合ってんじゃん」
「は……?」
さも当たり前のことのような発言に、恭二の思考は停止する。
「んだよ忘れたのかよ。告ったらオッケーくれたろ?」
「え……本当に?」
「マジマジ。つーわけで今日の帰りどっか寄って行かねぇ? 行こうぜ? なぁ」
(苦手なタイプだ……)
ぐいぐい強引に押してくる慧太に恭二は辟易してきた。それににやにやと嫌らしい笑みを浮かべ下心まるだしなのも不愉快だった。
(男とそういう関係になるって考えられないけど……仮にそういうことがあっても、彼はちょっとな)
同じく精神が男性である恭二ですらそう思うのだから、女性ともなれば尚更だろう。
「……いい加減にしたらどうですか? 彼女、困っていますよ?」
そこで聞き覚えのある、第三者の声がかかった。顔を向けると案の定、河北柚葉だった。
「――っ!」
だが彼女の顔を見て、恭二は自分の目を疑った。
河北柚葉はゆっくりとした動作でこちらに近付いてきた――満面の笑みを浮かべて。
恭二が現世で柚葉と知り合って以来、彼女はずっとポーカーフェイスを貫いていた。そんな柚葉が初めて見せた表情だった。
だが笑顔であるはずなのに、恭二は柚葉の全身から妖気らしきものが揺らめいているのを幻視して、冷や汗をかいた。
「先程から聞いてましたけど、随分と面白いことを言ってましたね? あなたは」
その背筋が凍るような笑みを、柚葉は慧太に向けた。
直接自分が向けられたわけでもない恭二すら怖気立つ、柚葉の怒りだ。慧太はすでに顔面蒼白になっている。
「笠井さんとあなたが交際しているとのことでしたよね? 確か半月程前にあなたは彼女に想いを伝えて断られたはずですが……私の記憶違いでしたか? 塚原さん」
「えっ、なんっ……何で俺の名前、をっ……?」
「今は関係のないことです。それよりどうなんですか、事実は?」
「そっ……そりゃあ、な……」
「まさかとは思いますが、笠井さんに以前の記憶がないのをいいことに彼女を騙そうとしたわけではないですよね? で、質問に答えてもらってもいいですか?」
凄まじい威圧感が慧太から抗う気力を根こそぎ奪い去る。
「わ、悪かった……」
震える声で慧太は謝罪の言葉を口にする。
「もう二度と、彼女に接触しないでください。約束できますか?」
「わ、分かった……」
それから慧太は覚束ない足取りでその場からいなくなった。
「朝から災難でしたね、笠井さ――」
「…………」
「笠井さん? どうしました?」
「…………」
「しっかりしてください、笠井さん」
「……はっ! あ、あれ? か……河北さん?」
柚葉に肩を揺すられ、恭二はようやく気がつく。
「大丈夫ですか笠井さん? 今、白目を剥いて固まっていましたけど」
どうやら恭二は恐ろしさのあまり、立ったまま気絶していたようだ。
「だ、大丈夫……ありがとう河北さん。助かった」
「いいえ。また何かあったら気兼ねなく声をかけてください。私にできる範囲のことでしたら力になります」
そう言うと柚葉はいつもの無表情で廊下を歩いていった。
(頼もしいな……まさに委員長の鑑だ)
自分も見習わないとと思いつつ、恭二も教室に向かった。
「あれ? どこ行くの聖美」
四時間目の授業が終わったとたん腰をあげた恭二を見て、クラスの女子が訊ねる。
「うん、今日は学食なんだ。ごめん」
「そっかぁ……」
残念そうに言う女子生徒。同じ教室にいる男子生徒も数人が落胆していたが、恭二は気が付かない。
「当然あたしは聖美に付き合うよっ! お弁当だけどねっ!」
持参した弁当をぶらさげて里奈が駆け寄ってくる。相変わらずテンションが高い。
(悩みとか、あるんだろうか……?)
里奈相手だとつい失礼なことを考えてしまう。心は男である恭二だったが正直、里奈のことを異性としてあまり意識したことがない――それもすべて里奈の普段の奇行のせいだったが。
(たまには一人で食べようと思ってたんだけど……)
だがやんわり断っても里奈には効果がないと、恭二はすでに理解していた。別に一緒が嫌だというわけでもないので潔く諦めることにする。年頃の女子らしからぬ言動も相まって緊張もしないので、気楽といえば気楽だった。
そういう意味では確かに、今の二人は友人関係だと言えるのかも知れない。
「んじゃ行こう聖美っ」
言って里奈はさりげなく手を繋いでくる――それも恋人繋ぎで。
「いや里奈……さすがにこれは、ちょっと」
「照れてる聖美も可愛いですなぁ。そそられますなぁ」
(駄目だ。会話が通じない)
だが周囲を見るとドン引きするどころか、なぜか羨ましげな視線を向けてくる者の方が圧倒的に多い。
(解せないな……)
結局は里奈にされるがままになってしまうのも、またいつも通りだった。
幸い学食はそれほど混みあってはいなかった。恭二は券売機で焼肉定食を選び、カウンターに行く。
「里奈は前に座って」
テーブルにトレーを置くと、恭二はすぐにそう言った。
「ちっ、バレたか」
言われた里奈は渋々と言った風に向かいに腰を下ろす。黙っていたら当たり前のように隣に座ったことだろう。そして何かと互いに密着しようとしてくるのだ。正直言って食べ難い。
恭二の記憶によると昨年までの聖美と比べ、今年は男子に言い寄られる機会が格段に減少しているようだ。
日頃から里奈がくっついていることが多ため、おそらく彼女の存在が人除けになっているのだろう。
(そのせいで変な噂も立ってる気がするけど……)
笠井聖美は男ではなく女に興味があるだの、二人は親友というより恋人同士みたいだの――本人に聞こえないように言っているつもりが筒抜けだった。
(『男より女が』っていうのは、どうにも否定し切れないな……)
それでも恭二は不本意だった。自分にだって選ぶ権利ぐらいある――とまたしても里奈に失礼なことを考えていると、ふいに里奈が口を開いた。
「そういえば聖美ってさ、退院してから何だか男っぽくなったよね?」
「えっ?」
恭二は思わず箸を落としかけた。
「よく分かんないけど雰囲気? がさ」
(お、男……男っぽいって……)
前世では男らしく見えないのを気にし、現世では女性らしさを心がけていたつもりの恭二にとって、里奈の発言はそれなりにショックだった。
(……ままならないのものだな)
内心で落ち込みながら食事を進めていると、対面にいる里奈の斜め後方によく見知った背中を見つけた。
(僕、だ)
顔を見なくてもそれが自分自身の姿だと、恭二はすぐに分かった。向かいに座って一緒に食べている垂れ目の男は、高校時代に一番仲の良かった本條充だ。
充とは一年から同じクラスだった。マイペースな性格で、授業中に居眠りをして教師に注意されることもしばしばだった。
「んもう、聖美ってばっ! 話聞いてる?」
目を戻すと里奈が拗ねた顔をしている。
「あ、ごめん」
「さっきからどこを気にしてるのさ」
言って、止める間もなく後ろを見る。
「? あの男子がどうかした?」
「ううんっ……何でもないよ」
怪訝な顔をする里奈に首を横に振るも、
「ああいった感じの男子がいいの?」
「いや本当に、そんなんじゃないからっ!」
「ふうん……それならそれでいいんだけど」
里奈は明らかに怪しんでいる様子だったが、それ以上は追求する気もないようだった。
「ま、そう簡単にうちの聖美は渡さないけどさっ!」
すぐいつもの調子に戻って、そんなことを言い出す始末だった。
昼休みを終えた五時間目――。
「………………」
恭二は授業内容がまるで耳に入ってこなかった。授業に集中できるほどの精神的な余裕がない。
「ね、ねえ……笠井さん、顔色がすごく悪いよ?」
隣の女子生徒が心配そうに声をかけてくれるが、恭二はこくこくと頷くだけで精一杯だった。
顔は俯きがちで額には脂汗が滲み、片手は腹部を抑えている。
(か、体の違いを……甘く見てたっ……)
昼食時、前世と同じ調子で焼肉定食、親子丼、カレーライス等と食べていった結果――恭二は食べ過ぎで腹痛に苛まれるという自業自得な当然の結果を迎えた。
(早く授業よ終わってくれっ……)
恭二が念じようと念じまいと、時間はいつものペースで進み続けるだけだった。