プロローグ
「腹が、減った……」
パソコンのモニターを睨み付けたまま、相坂恭二はぼそりと呟いた。
恭二は今、通っている大学の論文の提出期限を明日に控え、まさに時間と戦っている身の上だった。
ようやく完成させた論文を印刷して、右上の端をダブルクリップで止める。
ずっと椅子に座りっぱなしで凝った肩を揉み解す。眼精疲労で痛む目を何度も瞬かせる。
傍らにおいたスマートフォンを手に取る。現在時刻は午後十一時三十分。
今夜中に一気に終わらせようと考えていたため夕食は抜いていた。今ひどい空腹に苛まれているのはそのせいだ。
仕方なく部屋を出てキッチンに向かう。食器棚の上にある段ボール箱をごそごそと漁ったあと、深い溜息を吐く。
「カップ麺が、ないとか……何という……何ということだ……」
恭二は絶望的な気分になった。彼はカップ麺をこよなく愛するごく平凡な男子学生だった。
すべては買い置きを切らしていることに気がつかなかった、恭二自身の失態だ。
(どうするか……面倒だけど買ってくるか?)
それとも今日のところは諦めて明日にするか?
ぐるるるっ――とそのとき、ひときわ大きく腹の虫が鳴った。
「……行くか」
いったん部屋に戻り財布をとってきて、眠っている家族を起こさないよう静かに玄関から外に足を踏み出した。
この決断がわずか二十五分後の自分の運命を左右するなど、このときの恭二が知るはずもなかった。
(そういえば、あの事件からもう四年も経ったのか……)
近所のコンビニまでの道中、恭二はふとそんなことを思い出す。
あの事件――五人の犠牲者を出した連続通り魔殺人がおきたのは、恭二が高校二年のときだ。
警察の捜査は進展するどころか後手に回るばかりで、マスコミの警察へのバッシングは苛烈さを増し、犯行現場近くの住人はまだ見ぬ犯人への恐怖といまだ逮捕に至らない警察への怒りを抱えながら日々を過ごしていた。
そして今に至るまで、事件は未解決のままだ。
連続通り魔殺人、最初の犠牲者である十七歳の女子高校生――笠井聖美は、恭二が一年のときのクラスメイトでもあった。
美人で頭も性格も良いと入学時から何かと注目され、玉砕覚悟で告白する生徒も後を絶たないほどだ。
かくいう恭二も男であるため、聖美に心惹かれるものがなかったといえば嘘になる。だが彼としては同じクラスになれただけで充分に満足してしまっていた。それ以上を求めるほど恭二は自分というものにあまり自信を持てなかった。
それがまさか、あんな理不尽なかたちでいなくなるとは思いもしなかったが――。
(いつになったら捕まるんだろうな……犯人)
あくまで一般市民でしかない恭二には、それを知るすべはない。
コンビニでカゴに入り切れる分のカップ麺を放り込んでいく。あるだけあって困ることはない――それがカップ麺だ。
会計を済ませコンビニを出て、元来た道とぼとぼと戻る。
(これを食べたら今夜はもう寝るか……)
翌日になって体調を崩してしまっては目も当てられない。
ドンッ――。
と、そのときちょうど路地の角を曲がってきた男性とぶつかった。
「あ、すみませっ――」
反射的に頭を下げ――恭二は固まった。
「……え?」
自分の腹から、何かが生えているのが見えた。
「何だ……何だこれ?」
男性の手がおもむろに伸びて、恭二の腹から生えているそれをつかんだ。
「あぐっ!」
激痛が走る。構わず男は抜き取った。
「ぎっ……」
男の手に握られてるのは――毒々しいほどの赤色に染められたナイフだった。
(刺さ……れた? 僕は……刺された?)
腹の傷から止めどなく溢れ出す鮮血が服を濡らす。両手で傷口を強く圧迫しても効果はない。足から力が抜けて恭二はその場に膝をついた。
(お、おい……嘘、だろ? 止まらない……血が止まらないぞ?)
霞む視界で男を見上げる。黒のニット帽に白いマスクをつけているため人相が分からない。
男の持つナイフが、ゆっくりと動く。
(……マジ、か? シャレにならな……)
言葉を発そうにも気が遠くなるような腹の痛みで漏れてくるのは呻き声ばかりだ。
逆手に持ち替えたナイフを、男は振りかざす。
(ち……ちょっと、待っ――)
ナイフの切っ先が迫り――恭二の意識は、唐突に断たれた。