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普通ならあり得ない。魔力を持たない生命など存在しない。それこそ、草木ですら微弱ながら魔力を帯びているほどだ。この世界で生きる者にとって、魔力はあって当たり前のものだ。
そこまで考えて、ヒナの話を思い出した。ヒナの世界では、魔法は存在しない。この世界とは逆に、誰も持っていなかったとしても不思議ではないだろう。そういうものだ、と思うしかない。
「残念です……」
ヒナが肩を落とし、グレイは少しだけ迷うような仕草を見せた後、そっとヒナへと近寄った。前足でヒナを優しく叩く。
「気にするな。得手不得手がある、とでも思えばいい。ほら、行くぞ」
「はい……」
グレイに促されて、ヒナは外へと向かう。いつの間にか、ずいぶんと打ち解けたものだ。少しだけ嬉しく思いながら、アイリも外に出ようとして、
ふと、疑問に思った。
魔方陣は魔力を流して発動する。それならば、魔力を持たないヒナはどうやって魔方陣を発動させてここに来たのだろうか。
足を止めて、少し考える。だがアイリが分かるはずもなく、おそらくヒナに聞いても無駄だろう。魔力の存在そのものを知らなかったのだから。
街についたらそれも調べよう。それだけ決めて、アイリも小屋を後にした。
廃屋を出て、森の中を歩く。先頭はグレイ、最後尾はアイリ、ヒナはその間だ。何が来てもヒナを守れるように、との考えからこうなっている。だが、襲撃そのものはあまり警戒していない。野生の獣や魔獣が襲ってくることはあるが、そんなものは一日に一度あるかないかだ。多くの場合、アイリとグレイを警戒して襲ってくることはない。
ただ、それでも、その一度だけでも油断していれば命に関わることになる。故に警戒は怠らない。それに今回は戦えないヒナがいるのだからなおさらだ。
警戒を怠らず、ヒナを守りながら街へと向かう。油断をしなければ問題ないだろう。
そう思っていたのだが、アイリが想定していたものとは違う問題が発生した。
「ヒナ、大丈夫?」
アイリの目の前で、ヒナは荒い息をついている。心配になって聞いてみると、ヒナは眉尻を下げながらも笑顔を浮かべた。
「はい、大丈夫です。すみません、私、体が弱くて……」
「その原因は取り除いたはずなんだけど……。治りきってないのかしら?」
もう一度回復魔法をかけてやるべきか。そう考え始めたところで、先を歩いていたグレイが戻ってきた。辛そうにしているヒナを一瞥して、グレイは言った。
「治っていないというわけではないな。ヒナ、お前は普段、どのような生活をしている?」
「え? えっと……。ほとんど病室で過ごしています」
「体は動かす方か?」
「いえ、全然……」
そこまで言ったところで、アイリは理解した。なんてことはない、ただの疲労だ。心配して損した、とため息をつくと、ヒナが申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないわよ。私が気づくべきだったから。でも、どうしたものかしらね……」
街までは一日でたどり着くような距離ではない。途中で村はあるはずだが、それでも一日は歩かなければならない。休みながら行くとなると、何日かかることだろうか。
アイリが思考を巡らせている間に、グレイがヒナの側に座った。どうしたのかと首を傾げる二人の前で、グレイが言った。
「ヒナ、俺の背に乗れ。その方が早い」
アイリは驚きで目を丸くした。グレイの種族、魔狼族は誇り高いことで有名だ。その背に別の生き物を乗せることなどまずあり得ない。アイリですら経験がない。その魔狼族であるグレイが、自ら背に乗れと言ったことに、心底驚いてしまった。
「早くしろ」
グレイに促されて、ヒナはその背に乗る。それをゆっくりと待ってから、グレイは立ち上がった。ヒナの目はしばらく戸惑いに揺れていたが、やがてきらきらと音が鳴りそうなほど瞳を輝かせた。
「走るつもりはないが、落ちないようにしっかりと掴まっていろ」
「はい。あの……。痛くないですか?」
「問題ない」
グレイがアイリの方を見る。早く行け、ということだろうか。アイリは肩をすくめると、先ほどとは違い先頭を歩き始めた。すぐ後にグレイが続く。
「毛皮、ふさふさですね。気持ちいい」
道中のヒナの言葉に、グレイは返事こそしなかったが、気配から喜んでいるのがアイリには手に取るように分かった。誇り高い魔狼族が情けない、と思わないでもないが、二人の関係が悪いわけではないので、黙っている方がいいだろう。
「あの、アイリさん」
太陽が天頂へと昇った頃、ヒナがアイリを呼んだ。なに? と振り返らずに声だけ返すと、ヒナは少し考えるような間を取った後、言った。
「私の病気、治してくれたんですか?」
「そうね。グレイに教わって、だけどね」
「じゃあ、私の病気って何だったのか、分かるんですか?」
その問いが予想外のものであったために、アイリは思わず振り返っていた。驚いたように目を丸くしているヒナをしばらく見つめる。まさか、本当に知らなかったのだろうか。
だが、確かに知っていたのなら、少し無茶をやり過ぎだろうとは思う。この世界に来たのが偶然だとはいえ、見知らぬ場所で動き回っていたのだから。そう思うと、この少女は警戒心がなさすぎだろう。
「先が思いやられるわね……」
「え?」
「何でも無いわ」
今までどのような生活をしていたのか、知る必要がある。夜にまた詳しく聞くことにして、アイリはヒナの質問に答える。
「グレイの方が詳しいのだけど……。免疫力を食べるウィルスらしいわよ。実際は何を食べているのかは分からないけれどね」
「はあ……。それで、隔離されていたのかな……」
隔離とは、どうにも不穏な言葉だ。アイリは眉をひそめながらも、反応していてはきりがないと判断して再び歩き始めた。すぐにヒナが、というよりもヒナを載せたグレイが追ってくる。
「あの、アイリさん、グレイさん。ありがとうございます」
ヒナがそう言って頭を下げたのが分かった。妙に照れくさくなり、無視して先を急ぐ。
「体はちゃんと鍛えなさい」
思いついたことを言っておくと、ヒナははい、と嬉しそうに返事をした。
夜。休む場所を決めて、小さな光球を魔法で作り出して宙に浮かせる。ぼんやりと周囲が照らし出される。今まで歩いてきた森と変わることのない風景だ。アイリは空間魔法の黒い穴から毛布を一枚取り出すと、ヒナに渡した。
黒い穴から小さな鍋を取り出し、水で満たして魔法の火にかける。また黒い穴から野菜をいくつか出して、それを全て鍋に投入。ついでに何かの肉も入れておく。何の肉かは忘れた。
「ご、豪快ですね……」
一連の作業を見ていたヒナが頬を引きつらせる。アイリはヒナを一瞥して、言う。
「お腹に入れば何だって同じよ」