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「まおう?」
「魔王」
少女が愕然と目を見開く。何をそんなに驚いているのだろうか。魔王、魔族の脅威などずっと昔からあるものだ。聖剣に選ばれた勇者の出現、自分のことだが、それは百年ぶりのことだとは聞いている。
「もしかして、ここって……」
少女の小さな呟き。どうやら場所の心当たりがあるらしい。何がきっかけかは分からないが、少しでも手がかりが得られたのなら喜ぶべきだろう。
「わっ!」
そう思っていると、少女が短い悲鳴を上げた。反射的に剣を抜きながら振り返り、少女の側にいるものを見て納得した。すぐに剣を収め、少女の側にいるもの、相棒へと言う。
「どうしたの? グレイ」
少女の側にいたのは、純白の毛皮を持つ大きな狼、グレイだ。アイリの旅の相棒であり、数少ない仲間でもある。グレイはアイリを一瞥して、すぐに少女へと視線を戻した。
「あ、あの……」
怯えたような少女の声に、アイリがすぐに言う。
「怖がらなくてもいいわよ。この子はグレイ。私の旅の仲間で、相棒。魔狼族っていう魔獣の一種なんだけど、毛皮が白いせいで群れを追い出されて、私が拾ったのよ」
それを聞いたグレイは、不満そうにアイリを見た。アイリは苦笑しつつ、グレイの頭を撫でた。
「もちろん、頼れる相棒だと思っているわ。本当よ」
グレイはまだ疑わしげにアイリを見つめていたが、やがて視線を外し、少女へと目を向ける。少女はまだ少し怯えているようではあったが、グレイへと頭を下げた。
「初めまして、陽奈です」
グレイは少女をじっと見つめていた。威圧感すら覚えるその視線に耐えきれなくなったのか、少女が先に目を逸らした。無理もないと思う。グレイは魔狼族の中でも大型であり、人二人を乗せて走ることすらできるだろう。
そこまで考えて、そうだ、とグレイを見た。グレイはすぐに首を振った。
「まだ何も言っていないのだけど」
「言わなくとも分かる」
グレイが鼻を鳴らして、そう言う。残念そうにアイリが肩をすくめるのと、少女が叫ぶのは同時だった。
「しゃ、喋った!?」
「え? ああ、そうね。グレイは魔獣よりも魔族に近いから、言葉を話すわよ」
「へ、へえ……。そうなんだ……」
少女は目を丸くして、まじまじとグレイのことを見つめていた。
「なんだ?」
グレイのぶっきらぼうな言葉に、少女がわずかに体を竦める。やがて、おずおずといった様子で言った。
「あの……。撫ででも、いいですか?」
「…………」
グレイの目が不機嫌そうに細められる。少女が慌てて頭を下げようとして、
「まあ、いいだろう」
グレイがその場に座った。アイリは思わず、へえ、と声を漏らした。
「じゃ、じゃあ……。失礼します」
少女がグレイの頭に手を載せる。少し撫でて、顔を輝かせた。
「ふわふわだ! すごい!」
楽しげな声を上げながら、グレイを撫で続ける。グレイも悪い気はしていないようで、むしろ機嫌良さそうに口角を上げていた。その様子に、アイリは小さく噴き出してしまう。
「何か文句でもあるのか?」
「別に? ただ、グレイが私以外の人に触らせるなんて珍しいと思っただけよ」
グレイはアイリ以外の人間に触らせるようなことはしない。例え誰が相手であろうと、低く唸り、時には殺気を発して威嚇する。今回もそうなるだろうと思っていたのに、あっさりと触らせてしまったことに少しばかり驚いていた。
「そんなことより、お手洗いはいいの?」
アイリが思い出したように少女へと言うと、少女ははっとしたように我に返り、行ってきますと勢いよく立ち上がった。
「私はここにいるから、声の聞こえる場所でやりなさい」
「うう……。ちょっと恥ずかしいですけど……。分かりました」
少女は顔を真っ赤にしながらも頷いて、走って行った。
「遅いわね……」
少女が草むらの陰に隠れて、それなりの時間が流れている。隣に座っているグレイがうたた寝をしているほどだ。隠れた直後には、すぐに終わりますと一言あった。その時に、何かあれば呼ぶように言っておいたので、何かあったのだとしても呼んでくれると思うのだが。
さすがに少し気にあり、アイリは少女が隠れていった場所へと向かう。
そしてそこで見つけたものは、倒れて荒い息をしている少女だった。
「な……!? ちょっと、大丈夫!?」
慌てて体を抱き起こす。返事はなく、荒い呼吸も変わらない。額に手を当ててみると、とても熱かった。アイリはすぐに廃屋へととって返し、扉を蹴り開ける。その音でグレイが驚いて振り返っていたが、気にせずに少女を床に寝かせると、もう一度額に手を触れた。あの少しの間で、さらに熱くなったような気がする。
「グレイ!」
アイリがグレイを呼ぶと、グレイはすぐにアイリの横に立った。
「どう思う?」
「ふむ……」
グレイが少女の手に触れる。少女の顔に鼻を近づけ、においをかぐ。やがてグレイは、納得したように頷いた。
「俺も噂でしか聞いたことのないものだな」
それはつまり、噂程度でなら知っているということだ。アイリがグレイを睨むと、グレイは苦笑しつつも言う。
「昔、まだ回復魔法が発達していなかった時に、世界中で蔓延していたものだ。感染者の免疫力を食べる病気、だったな」
「免疫力を食べる? なにそれ?」
「実際は魔力か何かを食べているのでは、と言われていたが、昔の話だ。俺が知るわけがないだろう」
それもそうだろう、とは思う。それに、今知りたいのは原因ではなく治療法だ。まだ知り合って一日も経っていないが、それでもこの子を見捨てるようなことはできない。グレイを見つめると、すぐに頷いて言った。
「回復魔法をかけてやれ。それで治る」
「え? それだけ?」
「言っただろう、回復魔法が発達していなかった頃に蔓延したと。今のお前の回復魔法なら何ら問題はないはずだ」
アイリは頷くと、手をそっとひなの胸の上に置いた。目を閉じ、意識を集中させる。イメージは、自分の魔力を相手へと送るもの。するとアイリの手が青く、淡く光り、その光は少女の体を包み込んでいく。
「もういいぞ」
グレイの声に、アイリはほっと息を吐き出した。少女の顔色を見てみると、先ほどよりも血色が良くなっていた。一先ずは危険を脱したらしい。
「まったく……言っておいてほしかったわね……」
アイリは少女の頭をそっと撫でると、柔らかく微笑んだ。
「グレイ。私も休むわ。見張りはよろしく」
「了解した。ゆっくり休むといい」
そう言って、グレイが部屋を出て行く。アイリは空間魔法で黒い穴を作って毛布を取り出すと、それを少女に掛けてやる。アイリはその隣で、毛布にくるまって目を閉じた。