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こちら側に来る時は、光っている魔方陣に触れれば来ることができた。思えば、もしかすると光っている時は魔力が流れている時なのかもしれない。そうだとすると、陽奈では帰ることができないのではないだろうか。
少し不安に思いながらも、ヒナは魔方陣にそっと触れてみた。反応は、ない。帰ることができない。
「うそ……」
事情を知っている家族が本を閉じたとは思えないので、あちら側では間違いなく開かれているはずだ。やはり、魔力のない陽奈では自主的に帰ることができないのだろうか。少しだけ焦りを覚えてしまう。今回はいつでも帰ることができると楽観視していたことは否定できない。
ゼストは、ヒナが帰ることを許可してくれるだろうか。
はっきり言うが、陽奈はゼストのことが怖い。側にいることを許されてはいるが、もし何かしら不興を買ってしまえば、すぐに自分は殺されてしまうだろう。ゼストの人柄を見るにその可能性は低そうだが、万一がないとは言い切れない。
陽奈は床に広げた魔方陣に触れながら、呆然として、
「へ?」
唐突に魔方陣が光ったかと思うと、目の前の景色は一変して、自室に戻っていた。
「あれ?」
振り返る。黒い本が陽奈の机の上に置かれている。先ほどまで見ていた魔方陣が描かれたページを開いており、今も仄かに光っていた。
「なんで?」
魔方陣の起動には何が必要なのか。結局分からないままだ。陽奈はしばらく魔方陣を見つめていたが、やがて、まあいいかと踵を返した。無事に帰ることができたのだから、良しとする。考えたところで、陽奈に分かるはずもない。
陽奈は早速部屋から出ると、隣の姉の部屋の前に立った。少しだけ緊張しつつも、ドアをノックしてみる。すぐに返事があり、ドアが開けられた。
「え? 陽奈?」
目を丸くして驚く姉に、陽奈は笑顔で抱きついた。
「ただいま!」
「あ、うん。お帰り。早くて驚いたよ」
姉はまだ戸惑っていたようだったが、しかしすぐに顔を綻ばせた。陽奈の頭を優しく撫でてくれる。それがとても心地良い。しばらく姉の温もりを堪能してから、ようやく体を離した。
「新しい友達はできたの?」
姉の問いに、陽奈は頷いて、
「魔王様と友達になったよ!」
「へえ……。え? 何って?」
「魔王様」
姉が間抜けに口を開き、立ち尽くす。陽奈は首を傾げながらも、姉の反応を待った。たっぷり一分ほど時間をかけて、ようやく姉が引きつった笑顔を見せた。
「それはまた……。すごい友達ができたね……」
「うん。でもちょっと怖い人だけど」
「はは……」
姉が乾いた笑い声を上げる。確かに魔王と友達になったと聞けば、その反応も分かるというものだ。姉はため息をつくと、改めて笑顔を浮かべた。
「それじゃあ、今回の冒険はもう終わり?」
「ううん、まだだよ。飴を持って行ったんだけど、すごく気に入ってもらえたから、他に何かないかなって」
「飴を気に入る魔王って……」
姉が遠い物を見るかのように目を細めた。姉が魔王をどのような姿で想像しているのか分からないが、陽奈も昨日の姿を思い浮かべ、思わず笑いそうになってしまった。確かに似合わない。小さな子供が喜ぶならまだしも、魔王となると少しだけ気持ち悪い。本人が聞けばまた落ち込むかもしれないが。
「えっと……。お菓子を持って行くってことだよね?」
「うん」
陽奈が頷くと、姉は顎に指を当てて考え始めた。姉の言葉を静かに待つ。姉の方が陽奈よりも多くの菓子を知っているはずだ。任せた方がいいだろう。
「魔王様は男の人?」
「うん。お父さんぐらいかな?」
「へえ……」
姉の瞳が興味に彩られる。前回の時もそうだったが、姉は異世界にとても興味があるらしい。もしアイリの元へと繋がることがあれば、一緒に行くのもいいかもしれない。その時にもできればお菓子を持って行きたいものだ。
「よし」
明後日の方へと思考がそれていた陽奈は、姉の声に我に返った。姉が言う。
「ここで待ってて。買ってくるから」
「うん。じゃあお母さんたちにも……」
「それはだめ」
姉の即答に、陽奈は目を丸くした。両親に会おうと思ったのだが、まさか止められるとは思わなかった。怪訝そうに眉をひそめる陽奈に、姉が言った。
「まだすぐに行くでしょ?」
「うん……。昼までには」
「だったら、ここにいなさい。特にお母さんに会えば、もう行くなって言われちゃうかも」
なるほど、と陽奈は納得した。母なら間違いなく止められるだろう。そうなれば、昼までに戻ることはできなくなるかもしれない。それは、困る。
「待ってる」
陽奈が言うと、姉も頷いた。
「じゃあ、行ってくるから」
姉は陽奈を部屋に入れると、駆け足で出かけていった。
姉の部屋には陽奈の部屋とは違い、様々な物がある。特に最近陽奈が気に入っているものはぬいぐるみで、ベッドの枕元にある熊のぬいぐるがとてもかわいい。陽奈は姉のベッドに座り、そのぬいぐるみを膝の上に置いた。
そうしてぬいぐるみの触り心地を堪能していると、姉が戻ってきた。手にはコンビニのビニール袋がある。姉は陽奈を確認すると、安心したように微笑んだ。
「はい、陽奈。とりあえず三種類ほど選んできたよ」
渡された袋の中身を見てみる。大福とカステラ、それに煎餅だ。ちなみに煎餅は醤油味。確か、祖父が気に入っていたものだったと聞いている。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして」
陽奈は立ち上がると、もう一度姉に抱きついた。姉も快くそれを受け入れてくれる。
「陽奈。気をつけてね。魔王様がどんな人か私は分からないけど、無事に帰ってくるように」
「うん。約束する」
抱擁を終え、陽奈は姉に手を振って自室へと戻った。再び黒い本の前に立ち、魔方陣を見る。今も仄かに光っていることに安心しつつ、そっと手を触れた。




