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半年後。桜が舞う季節。陽奈は、今まで縁が無いと思っていた服に袖を通していた。
姉と同じ高校の黒のセーラー服。高校の制服にしてはあまりにもシンプルなものだが、中学校をまともに通っていない陽奈にとってはこれも新鮮だった。
ちなみに入試はしっかりと受けている。もっとも、念のためにと陽奈は一人だけの個室だった。だが試験は他の子と変わらないもので、陽奈は実力で合格している。勉強が暇つぶしという生活だったので余裕すらあった。
「陽奈、準備できた?」
姉が顔を覗かせる。制服姿の陽奈を見て、嬉しそうに微笑んだ。もう何度も見ているだろうに、飽きないのだろうか。といっても、陽奈自身、何度も着替えてははしゃいでいるので口には出せないのだが。
「うん。大丈夫だよ」
「じゃあ行こうか」
「うん」
姉に手を引かれ、陽奈は自分の部屋を後にする。ドアを閉める前に、もう一度部屋を確認。半年経ったというのに変わらず物の少ない部屋だが、机の上には黒い本が今もある。いつかまた、アイリに会いに行きたいと思う。
「陽奈? どうしたの?」
姉に呼ばれて、陽奈は何でも無い、とドアを閉めた。
高校に通い始めて一ヶ月。部活にこそ入らなかったが、友人にも恵まれて、学校生活を満喫している。ただし相変わらず体力はないため、体育の時間だけは陽奈は個別の指導となっている。陽奈の希望のもと、ひたすらに体力作りだ。
その努力の成果か、少しずつ体力はついている。あくまで、今までに比べれば、だが。
帰宅後の夕食や勉強の後は、陽奈は家族には秘密でいつも黒い本を開いていた。家族に言えば、きっと心配されること、反対されることは分かっている。裏切りだとも思うが、それでも陽奈は、もう一度アイリに会いたかった。会って、礼を言いたかった。
だが、毎日のように見ているのだが、あの魔方陣が光ることはない。かつてグレイは戻れない理由として、この本が開かれていないからだと言っていた。それを考えると、あちらに行けない理由も同じもので、あの紙が開かれていないためなのだろう。あの黒い穴にずっと入れっぱなしなのかもしれない。アイリはなかなか過保護な面があったので、陽奈が来ないようにとしているのかもしれない。
だがそれは推測にすぎない。例えそれが正解だとしても、もしかしたら気まぐれに紙を開いてくれるかもしれない。それを期待して、陽奈はずっと、何度も本を開いて待っていた。だが、さすがに半年以上も同じことを続ければ、すでに諦めの方が強くなってもいた。
だから。
「え……?」
魔方陣がぼんやりと淡い光を放っているのを見て、陽奈の思考は止まってしまった。
魔方陣が光っている。おそらくは、これに触れればあちら側へと転移ができる。だが問題は、
「別の魔方陣だ……」
いつも開いているものとは違うページの魔方陣が光っていた。どこに繋がるか、誰と会うかも分からない。今度こそ、本当に危険かもしれない。今すぐこの本を閉じて忘れてしまうのが正解だろう。そう思うのと同時に、陽奈は祖父の言葉も思い出していた。
たくさんの友達を作りなさい、という言葉を。
カレンダーを見る。今日は四月三十日。陽奈の学校は明日から一週間の休みとなっている。一週間、いなくなっても、大丈夫だ。
陽奈は意を決すると、すぐさま準備を始めた。休みの間に遊びに誘ってくれるはずだった友人に用事ができてしまったとメールを送り、次に部屋のベッドの下に隠されている大きめの布製の袋を取り出した。これの中身はアイリが買ってくれたものや入れてくれたものが入っている。陽奈は少し考えて、もう一つ、今日のおやつとして買ったものも放り込んだ。
それらの準備を終えて、陽奈は隣の部屋へと向かう。扉をノックすると、姉が顔を出した。
「陽奈? どうしたの?」
姉が優しげな微笑みを浮かべる。申し訳ない気持ちになりながらも、陽奈は笑顔で言った。
「ちょっとだけ、行ってきます」
どこに、とは言わない。だが姉はそれだけで全てを察したらしく、大きく目を見開いた。すぐに、困ったような苦笑いになる。姉は陽奈の頭を優しく撫でて、
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
慈愛に満ちた声。陽奈を心の底から心配しつつも、陽奈の意志を尊重してくれる優しい姉。陽奈はしっかりと頷くと、自室へと戻った。
この間に魔方陣の光が消えているかもしれない。それを危惧したが、魔方陣は変わらず同じ光を放っていた。
小さく安堵しつつ、袋を持って陽奈は黒い本の前に立つ。念のために窓がしっかりと閉まっていることも確認。風で閉じる心配はこれでない。ついでに、付箋を光っている魔方陣のページに貼っておく。これで何かの理由で本が閉じてしまっても、家族が開いておいてくれるだろう。
そこまで終えてから、陽奈はよしと頷いた。
「陽奈、行ってらっしゃい」
振り返ると、姉がひらひらと手を振っていた。わざわざ見送りに来てくれたらしい。
「行ってきます!」
笑顔で手を振り返し、陽奈は魔方陣に手を触れた。
・・・・・
誰もいなくなり、静かになった部屋。陽奈の姉、紗智は少しだけ寂しさに泣きそうになりつつも、部屋の電気を消す。だが陽奈の部屋が闇に閉ざされることはない。未だ魔方陣が光り続けているためだ。
陽奈を送ったことが正解だったのか、それは分からない。だが紗智は、陽奈が毎晩あの黒い本を開いていたことを知っている。黒い本を見て、いつも物思いに耽っていたことを知っている。それを知っているからこそ、陽奈を止めることなどできなかった。
あの魔方陣に触れれば、紗智も異世界に行けるのかもしれない。陽奈を一人で行かせずに、共に行くことができたのかもしれない。そう思いはしても、しかし阿智は首を振ってその考えを振り払った。紗智が行けば、両親は子供を失うことになる。本当に死ぬわけではないと分かってはいても、いつ帰ってくるのかも分からないまま待ち続けるのは本当に辛いものだろう。
故に、紗智が陽奈と共に行くことはできない。紗智にできることは、陽奈が元気に戻ってくることを信じて待つことだけだ。あとは、両親への説明。そう思って振り返ると、
心配そうに顔を歪めた両親がいた。
「…………。心臓に悪いんだけど」
「あ、ああ。すまん」
父が慌てたように謝り、しかし視線はすぐに部屋の奥へと注がれる。魔方陣の光へと。
「あれに触れれば、異世界とやらに行けるのか?」
父の問いを聞いて、母が部屋へと入ろうとする。紗智は慌ててそれを止めた。
「だめだよ、お母さん!」
「で、でも……!」
母が何かを言おうとするが、それよりも先に、魔方陣から光が消えた。今度こそ、部屋が真っ暗になる。母が絶望に顔を染めて、
「奈央。今回は、陽奈は自分の意志で行ったんだ。信じて待とう。なに、じきに戻ってくるさ」
父が努めて明るい声を出す。母は睨むように黒い本を見つめていたが、やがて小さくため息をついて頷いた。両親が一階へと下りていくのを見送ってから、紗智はもう一度、陽奈の部屋を、黒い本へと振り返った。
「陽奈、お土産話、楽しみにしてるからね」
いたずらっぽく笑いながらそう言って、そっと部屋の扉を閉じた。
『幕間 陽奈 ~一度目の帰還~』終了。
次は『二人目 魔王ゼスト』です。
が。
明日からしばらくの間、お休みします。
『取り憑かれた~』の作業を行うためです。
落ち着いたらまた再開しますので、その時はまたよろしくお願いいたします。
ではでは。