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祖父の幽霊らしきもの。渡された黒い本。魔方陣。異世界。勇者アイリ。あの日、陽奈が消えた日からのことを、覚えている限りで全て話した。普通ではとうてい信じられるはずのない話。だが陽奈の家族は、陽奈の話を遮るようなことはせず、最後まで黙って聞いてくれた。
「それで、気づいたらあの部屋にいたんだよ」
そう締めくくり、話を終える。聞いていた三人は揃って神妙な面持ちで黙り込んでいた。
重い沈黙が場を支配する。しかし陽奈はそれ以上何も言わず、誰かの口が開かれるのを待った。
やがて、最初に沈黙を破ったのは姉だった。
「ねえ、陽奈。その勇者のお姉さんはかっこよかった? 魔法ってどんなのだった?」
姉を見る。瞳が輝いていた。
「えっと……。信じてくれるの?」
「もちろん。陽奈の言うことを疑うわけないでしょう。私は陽奈のお姉ちゃんだよ?」
何の根拠もない信頼だ。だがその信頼の言葉が、陽奈にとってはとても嬉しい。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
自然と笑顔になって姉へと言う。すると姉は一瞬固まったかと思うと、勢いよく立ち上がった。どうしたのかと戸惑う一同を置き去りに、姉が陽奈へと駆け寄ってきて、抱きついてきた。
「ああ、もう! 私の妹はかわいいなあ! うりうりしちゃう!」
「わわわ! や、やめて!」
姉の指が陽奈の頬を突いてくる。逃げようとするが、すでにしっかりと捕まってしまっているため逃げることはできない。だが不意に、姉の力が緩んだ。
「お姉ちゃん?」
あまりに突然力が緩んだために、不安になって姉を見る。姉は陽奈に抱きついたまま、泣いていた。声を押し殺し、しかし嗚咽が漏れる。
「はじめて……さわれた……」
姉が漏らしたその声に、陽奈ははっとした。
陽奈は物心がついた時からあの病室で生活していた。陽奈にとってはあの狭い部屋が世界の全てだった。例外は、外からやってくる見舞いや医者だけであり、そしてその人たちも全員が全身を覆う服を着ていた。
つまり、陽奈が直接人の肌に触れたことは、アイリと出会うまではなかった。
「おねえ、ちゃん……」
姉の頬に触れる。温かい。人の肌の、温もりだ。
陽奈は異世界でアイリにも触れている。だがあの時、陽奈にはそういったものに意識を向ける余裕など一切なかった。なにせ、寝ている時ですら時折血の臭いが漂ってくるのだ。余裕などあるはずもない。
改めて、思う。人の肌とは、こんなに温かいものなのか。
そう思った時、気づけば陽奈も泣いていた。
姉と抱き合い、泣き続ける。ずっと、ずっと。今までの時間を取り戻すかのように。
二人して目を赤く腫らして、ようやくお互いを放した。お互いの目を見て、恥ずかしそうに笑う。忍び笑いに振り返ると、母と父が呆れたように、しかし優しく微笑んでいた。
「そうだな。まずは、陽奈が元気になったことを素直に喜ぶべきだったな」
そう言いながら、父が陽奈の前に座り、頬に触れてくる。やはり、温かい。気づけば母もまた、陽奈を抱きしめていた。そうして今度は両親が泣き始めて。すでに泣き疲れたはずの陽奈も、もらい泣きのようにまた泣き始め、さらには姉もまた抱きついてきて泣き始めて。
今度は家のインターホンが鳴るまで、ずっとそうして泣き続けていた。
玄関に立つのは息を切らした白衣の男。陽奈を見て目を見開き、そして優しく微笑んでいる。もう一人はスーツを着た男。こちらは嬉しそうな、満面の笑顔だ。
「ちゃんと無事に帰ってきたようで安心しましたよ」
スーツの男がそう言って、父は深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます」
「いやいや。色々と聞きたいことはありますが、私も再会を邪魔するほど野暮な人間ではないと思っているんでね。今日一日は親子水入らずで過ごしてください。他の連絡はこちらでしておきますし、マスコミも抑えておきましょう」
「何から何まで、本当に申し訳ありません。ありがとうございます」
今度は母が頭を下げ、スーツの男は笑いながら手を振って出て行ってしまった。残された白衣の男は、先ほどまでの笑顔は消え失せ、陽奈を見て目を丸くしていた。自分の見ているものが信じられない、といった様子だ。
その男の視線に陽奈がわずかに身を硬くすると、男はすぐに我に返り頭を下げた。だがちらちらと陽奈の様子を窺っている。その様子に、父は苦笑した。気持ちは分かります、と。
「信じられないかもしれませんが、あの病気は治っているようです。陽奈が言うには、誰かに治してもらったとのことですが……」
「誰かじゃなくてアイリさんだよ」
陽奈が父を軽く睨むと、父は苦笑を濃くして肩をすくめた。白衣の男は陽奈のことをまだ見つめていたが、やがて力無く微笑んだ。
「そうですか。連絡を頂いて駆けつけたのですが、必要なかったようですね」
そう言いながら、男は自嘲気味に笑う。すぐに、優しげな瞳で陽奈を見つめてきた。
「陽奈ちゃん。何か違和感があればすぐにご両親に言うんだよ」
本当に、陽奈のことを案じているというのがよく分かる。陽奈は真剣な表情で、一度だけ頷いた。
「明日、陽奈を病院に連れて行きます」
母がそう言えば、男は満足そうに頷いた。お待ちしています、と頭を下げて、出て行った。
その後は先の男二人が手を尽くしてくれたのか、特に来客はなかった。陽奈は、初めての我が家で、久しぶりに会う家族に心ゆくまで甘えることができた。
翌日から家族、というよりも主に父が忙しそうにしていた。父は一週間の休みを取ったが、決して家でゆっくり過ごしていたわけではない。電話をひっきりなしにかけていたかと思えば、慌てたように出かけていく。
陽奈には何をしているのか分からなかったが、どうやらマスコミへの対応などに追われているらしい。陽奈に関しても名前や写真など新聞などに出ていたそうだが、戻ってきたばかりで話せる状態ではない、と押し通しているそうだ。
姉も学校を休み、陽奈と一緒にいてくれている。姉は陽奈の異世界の話がお気に入りのようで、何度も繰り返し話している。ただ、もしかすると話ではなく、楽しそうに話す陽奈を見ていたかったのかもしれない。
自宅の周りには話を聞きつけたマスコミの関係者が集まっているのだが、警察の協力のもと、陽奈は母と姉と共に、密かに病院へと移動した。精密検査をするとのことで、しばらくは自宅とはお別れだ。たった一日しか過ごしていないというのに、とても寂しく思えてしまう。
病院での一週間も、他の患者とは完全に隔離されていた。病室も個室だったので、家とあまり変わらない過ごし方だった。個室といっても以前とは違い、家族は妙な服を着ているわけではない。故に家族といつでも触れ合うことができ、陽奈にとってはとても嬉しいことだった。
検査の結果は、異常なし。だが未だに騒ぎは収束しておらず、マスコミもずっと押しかけている。結局陽奈が退院できたのは、一ヶ月も後だった。