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陽奈はそれを、グレイの背の上で見守っていた。
次々と押し寄せる狼たち。アイリはそれを、苦も無く淡々と斬り伏せていく。最初に危ないと叫びそうになった口は、音を発することなくただ開かれたままになってしまった。
危険だと思っていた。グレイがいるからといって、それでも二人だ。群れを相手にするには危険すぎると。だが今の光景を見ていると、そんな考えは杞憂だったと分かる。時折見えるアイリの表情には余裕がある。陽奈が心配するだけ無駄というものだ。
「ヒナ。こちらにも来た。迎え撃つから、しっかり掴まっていろ」
グレイの指示に従い、陽奈は体を伏せてグレイにしがみついた。その直後に、グレイが動く。両横から襲いかかってきた狼を跳んで避け、その頭を思い切り踏みつぶした。
――うわあ、すぷらった……。
見なければ良かった。陽奈はきつく目を閉じた。血の臭いだけはどうすることもできず、喉の奥から何かがこみ上げてくるが、ひたすらに耐えた。
・・・・・
気づけば、アイリの周囲は血の海になっていた。いくつもの狼の死体が散乱している。我ながらよく斬ったものだ。
「アイリさん」
ヒナの声に振り返ると、グレイの背に揺られながらこちらへと来るところだった。ヒナの表情は青ざめている。どう見ても体調が悪いのが分かってしまう。
「ヒナ、どうしたの? 大丈夫?」
聞くと、ヒナは弱々しい笑顔を浮かべた。
「ちょっと、血の臭いが……」
「ああ……。そうね。移動しましょう」
アイリも最初は血の臭いに気分を悪くしたものだ。今となっては何も思わなくなってしまったので忘れていたが、確かにヒナには辛いものだろう。
「グレイ。残りは?」
「北東。数は五。一匹が群れのボスだな」
頷き、グレイに指示された方へと向かう。グレイもすぐにそれに続いた。
血の臭いが届かなくなった頃、小さな群れを見つけることができた。グレイの言っていた通り、狼が五匹。魔狼は先ほどの集団も含め全てが深い茶色の毛を持つのだが、五匹のうち一匹だけは黒い毛皮だった。どうやらあれが群れのボスらしい。
黒い狼が小さく鳴く。すぐに四匹がアイリへと向かってきて、
「邪魔」
それら全てを瞬時に斬り伏せた。黒い狼が驚愕に目を見開く。だがすぐに唸り声を上げ始めた。
黒い狼がゆっくりとアイリへと向かってくる。そしてすぐに走り始め、アイリの周囲を回り始める。無駄なことを、とアイリは小さくため息をついた。
黒い狼がアイリへと飛びかかる。アイリは無表情に、斬った。
「うえぇ……」
「よしよし。しっかりと吐いてしまいなさい。楽になるから」
「うう……。はい……。うえぇ……」
血の臭いが立ちこめる場所から離れ、アイリたちは見つけた川の側で休んでいた。小さな穴を掘り、ヒナはそこに先ほどから吐き続けている。アイリは苦笑しつつ、ヒナの背中を優しく撫でていた。
「私も昔はこうだったわね……」
「は? お前が? 冗談はよせ」
「グレイ、ちょっと来なさい、何もしないから」
「悪かった、だから剣を抜くな!」
アイリは笑顔、ただし目は笑っていない。対するグレイは大慌てで距離を取った。失礼なやつだ。ふとヒナを見ると、こちらを見てわずかに微笑んでいた。グレイの言い方は不愉快だが、ヒナが面白く思ってくれたのなら、まあいいだろう。
「ヒナ」
アイリが呼ぶと、ヒナはまだ少し青いままの顔をアイリへと向けた。それを見ると、これから言うことは酷かもしれないが、かといって流してしまうこともできない。
「少しずつでいいから、慣れなさい。あまり言いたくはないけど、いつ帰れるか分からないのよ。この世界にいる限り、こうしたことは今後も必ずあることだから」
「はい……。がんばってみます」
神妙な面持ちでヒナが頷く。アイリはヒナの頭を優しく撫でると、さて、と努めて明るい声を出した。
「街まではあと二日ほどあればたどり着くわ。さっさと行きましょう。美味しいものもたくさんあるから」
それを聞いたヒナは笑顔になり、しかしすぐに首を傾げ、そしてアイリを睨んできた。何故睨まれるのか分からないアイリは、思わず頬を引きつらせて後じさってしまう。
「ど、どうしたの?」
アイリが問うと、ヒナは不機嫌そうな表情のまま言う。
「アイリさん。食べ物を与えていれば私は満足するとか思ってません?」
「え? そうでしょう? 食い意地が張ってるなって思ったけど……」
「張ってません! 私、食べ物については何も言ってません!」
「そう、だっけ?」
よくよく思い出してみる。そう言えば、確かにヒナは食べ物について何も言っていない。アイリが一方的に、少しでも良いものをとちょっとした工夫をしていただけだ。スープの時は味が薄いと言われたが、それも感想を言われただけであり、文句を言われたわけではない。
「じゃあ、次からお腹に入れば何でもいいわね」
それなら楽だ。そう思って機嫌良く笑ったのだが、どうやらヒナはその笑顔を脅しか何かだと感じたらしい。頬が引きつり、すぐに頭を下げた。
「ごめんなさい。食い意地張ってます。少しでも美味しいものが食べたいです」
「ん? そう? じゃあ、少しぐらいの工夫なら続けてみるけど」
今日の夕食はどうしようか、と北へと歩き始める。ヒナは小さくため息をつき、グレイに促されてその背に乗った。
「私って、贅沢だったんですね……」
ヒナが肩を落として言って、グレイは苦笑して首を振った。
「お前が求めているのは最低限だ。単純にあいつの料理が最低限に届いていないだけだ」
だが、とグレイが続ける。
「新鮮な食材を道中で食べられることそのものは贅沢だがな」
その言葉に、ヒナは複雑な表情で頷いた。アイリが、ここに来る直前に黒い穴に入れたものを思い出したのだろう。
「早くしなさい」
アイリが声をかけると、グレイはすぐにアイリを追った。
その日の夜は新鮮な狼の焼き肉だった。
「なんだか、複雑……。でも美味しい……」
ヒナは骨付き肉を頬張りながら、遠い目をしていた。少しずつでもたくましくなってほしいものだ。
「帰った後のことが心配だな……」
グレイの呟きは誰にも聞き取られることはなかった。