忘れていても変わらない
ここから一人称です。
「ん……」
俺は暗闇の中で目が覚めた。
いつものように横向きに手足を少し包ませながら熟睡していたようだ。左頬にスベスベで滑らかな肌触りの革に覆われたクッションの感触が気持ち良い。革に変な匂いは無く、むしろ薔薇のような香りが仄かにした。クッションは頭の所だけ少し盛り上がりふわふわで、まるで体全体を女神の両手で包まれているかのように優しい。
うちにこんなクッションあったか? などという疑問もどうでも良くなり、今はこの心地よい寝心地を満喫しようと、微かに開いた目も再び閉じられた。
睡眠欲の強い俺もすでに熟睡を終えていたためか、5分も経つと段々と頭が回るようになってきた。
「あれ、まだ夜なのか? かなり寝たと思うんだけどなぁ。……ん?」
感覚的には少なくとも10時間は寝たんじゃないか、というくらい睡眠欲は満たされていた。なのに瞼から太陽の明かりは感じず、それにいつもは外から聞こえてくるバイクや車の音も聞こえてこない。
目を開けて自分の周りを見てみるとワンルームの自分の部屋じゃないことがわかった。天井はすぐ目の前、鼻先30センチほどには堅そうな黒い壁、顔を少し足元の方に向ければ自分の足とその奥は自分がもう一人分の所で行き止まりになっていることがわかった。俺は四方八方、上下ぐるりと見渡し終わると自嘲気味な笑みを浮かべた。
「おいおい……これじゃワンルームじゃなくてワンボックスだぞ。エアコンとか座席とか、車輪が付いてるちょっと広い車のことじゃなく……ただの大きい箱、棺だ」
ハハ……。
どうやら俺が寝ていた場所は、下一面と横四面に高そうな黒い革で覆われたクッションが張り付けられ、上に黒い石を削り出して作ったような蓋が被された棺の中にいるようだった。蝶番のようなものは無い。それにしても俺の体にしてはかなり大きめだが。
おかしい、そうおかしいんだ。なぜ棺の中で寝むってしまっていたのか、それだけじゃない。暗闇にも関わらず視界はとても澄んでいて、それが不自然で違和感を感じた。棺の中だから暗い、だけど、あまりにも見え過ぎている。蓋の隙間から光が漏れているということはない。自分の指紋や足元の革の溝もよく見える。人間の夜目は果たしてここまで効くものであっただろうか。単純な視力も上がっているような気がする。
「色も鮮やかに見える……でも暗いこともはっきりわかるんだよなぁ。……そういえば、俺の手なんか小っちゃくね?」
ここでやっと、ある違いに気がついた。俺は腹筋と首の筋肉も使い、体を上から下に渡り視線を動かした。
「ファッ!? まじで小っちゃくなってるぅぅぅううう!?」
俺の体は子供のように小さくなっていたのだ。年齢でいえば5歳ほどだろうか。よく見れば肌も白くなっている。人間というのは手であってもみんなそれぞれ違う形をしているもので、中でも自分の手となれば大体の形は覚えているものである。俺の今の手は全く見覚えがない手だった。何とも言えない底知れぬ不安の沼に落ちていくような感覚が襲った。
「どうしてこんなことになってるんだ……確か、昨日俺は履歴書を書いていて」
俺は目を瞑り、昨日の出来事を冷静に思い出そうと記憶を引きずり出す。
一人暮らしの部屋で履歴書を書いていたのが夜の8時頃だったはずだ。二時間も悩んで自己PRの欄は埋まらないどころか何も書けなかった。それから程なくして起こった胸に大きな痛みを刻んだある出来事。
「そうだ、急に胸が握りしめられたみたいに痛くなって、俺は死んだんだ」
普通はそんなことが起こっても今、生きているならばあれは夢だったのだろうで済む。しかし、これまで気づいた体の変化や訳のわからない状況が『自らの死』を変に強調しているかのようで、意外と冷静に客観視することができた。
「とりあえず俺は生きているし、なんとかなったんだろう。小っちゃくなってるけど。おまけに棺に入れられてるけど。……埋められて土の中とかじゃないよね? 息できてるし。天国ではなさそうだし」
こんな棺が天国だったら神様は頭がおかしい。それはない、それはないと不安にも似た希望を心の中で繰り返した。
「んー、それでそのあと起きたんだっけ?……ハッ!そういえばそんな気がするぞ。大勢の人の目……尻尾……羽、そして超絶美少女。寝ぼけてたからなぁ、全てが夢だと思って二度寝したんだった」
俺が心臓麻痺で死んだこと、対人能力の低さから来る大勢の人の目の恐怖、この世の物とは思えない大きな尻尾や羽、自分を見つめる超絶美少女。
「いやぁー本当可愛かったよなぁあの娘。いや、今はそんなことを言ってる場合じゃない。あれは全部本当だったんだろうな、おそらく。思えばこんな棺から出たような気もする。あんな光景全く信じられないけどな。んー、そろそろ蓋開けてみるかー……いつかは開けなきゃいけないんだし。なんとかなるさ!信じてるぜ神よ……よし!」
外のことを予想しようとしたが、一度開けたことがあるなら話は別だ。怖がってこのままこの棺の中に居ればいずれお腹も空くし、お花も摘みに行かなければいけなくなる……棺の中で汚物と心中は絶対に嫌だ。
俺は外に出る理由を見つけて自分を説得する。
棺から出る他はない、ならばいざ行かん!
俺は少しの不安を勢いで掻き消し、意を決して誰かが外に居てもなるべく気づかれないようにそっと少し蓋を持ち上げ、まずは外の様子を伺った。
まずは人がいないかを確認し、発見した。数は二人。距離にして100メートルは離れている。二人とも腰に西洋風の剣を携え、兵士のような格好をしている。そして俺が何よりも注目していたのは二人の頭の上。
「犬耳だとぅぉ……!?」
二人の兵士の頭上には三角にピンとたった犬耳が付いていたのだ。俺は冴えきった頭で改めて突きつけられるファンタジーさに思わず少し声を出してしまった。その衝撃で兵士たちにバレる危険性も厭わずリアクションしてしまう。そこに止めを刺したのは二人とも『男』という事実。
ちっくしょぉぉぉぉ空気読めよおぉぉそこは可愛い犬耳少女だろうがぁああ……!! と悔しさで歯を食いしばり、右の拳がクッションに直下、激突した。ぽふん、とした反動が返ってきてそれだけで少し癒される。
「お、おいあれ……」
「っ、俺達には対処できない。俺がグレイア様を呼んでくるからお前はここであの方の様子を見ててくれ。ここから出ようとなされたら全力で止めろよ」
「えっ!? わ、わかった。でも早くしてくれよな? もし暴れられたら……」
「わかってる。それにジオノール陛下の血縁ってもっぱらの噂だろ? だからきっと優しいお方さ、大丈夫だって心配すんな。じゃ!任せたぞ」
「あ、ああ……」
二人の犬耳兵士の内、片方が扉を開けて走り去っていった。
馬鹿なことをやってるうちに兵士達に気づかれてしまった。衝撃と衝動は恐ろしい。
言葉は通じるみたいだ。よかったぁ……。
どうやら上司っぽい人を連れて来られるようで、まだ自分の身体の安全が保障されたわけではないが、話し合いはできそうで一先ず安心。しかし最後の、俺がジオノール陛下とやらの血縁という噂がされてるということは気がかりだ。ジオノール陛下とは一体何者だろうか。
俺と残った犬耳兵士がいるのは、寝ぼけていたときに見た大きな広間。どうやら場所は変えられていないようだ。やはり、あのとき見た光景は本物だったのだ。
俺は持てる厨二心を駆使して置かれた状況を推察した結果、ここはおそらく異世界と呼ばれるものなのではないか、という考えに至った。俺にこんなお金のかかりそうなドッキリを仕掛けてくれる暇で金持ちの友人はいない。
残っている犬耳兵士に話しかけてみようか、と俺はまず棺の蓋を完全に開け、縁を跨いで外に出た。小さい体は案外、違和感はなく動かせるようだ。
すると犬耳兵士は一瞬ビクッと肩を震わせたが、棺から出て露わになった俺の全身を見てまだ子供だとわかると、いくらか落ち着いたようだ。
外から見て、棺は本当に豪奢なものであることが判明し、愛着すら感じてきた俺は右手で愛でるように撫でた。黒くて立派で細工が美しく、厨二心が擽られるものだった。
これじゃあまるでヴァンパイアみたいじゃないか!実に素晴らしい。そういえば、服もなんだかそれっぽいちゃそれっぽい。黒の簡素で小奇麗な上下は銀色のボタンで装飾され、その中に白い襟付きのシャツ、それらの上にこれまた黒い大きなフード付きの無地のローブだ。どれも丈夫な素材で出来ていて引っ張っても伸びることは無さそうだ。
ふと視界の隅に金色の物が見えたと思い、そちらを向くと王様が座るような、いやそうなのだろう玉座が仰々(ぎょうぎょう)しく佇んでいた。とてつもなく広く、装飾が煌びやかな部屋だとは思っていたが、ここは王の間であったようだ。
はぁ、なぜこんなところに棺があるんでしょうね。
俺は数時間お世話になったであろう棺を後にし、100メートル先にいる犬耳兵士に向かって歩いて行った。左右の高くて大きな壁に嵌め込まれている大きなガラス窓からは綺麗な青空が澄み渡っていた。歩みを進めるにつれ犬耳兵士に汗が流れているが、俺はなるべく澄ました顔でそれは見なかったことにしようと決めた。半分ほど歩いたところで扉に動きがあった。
先ほど出ていった方の犬耳兵士が若い美しい女性を伴って広間、いや王の間に入ってきた。おそらく彼女が先程呼んでくると犬耳兵士が言っていたグレイアという人なのだろう。犬耳は無く、俺は少し残念に思えたが、美しい紅いロングの髪がとてもよく似合っている素敵な女性、年上の美人お姉さんといった感じだったので胸がホクホクする。まぁ、今の俺は見た目が5歳だから精神年齢的な話で彼女の方が『年上』だ。
彼女は紅いスカートの軍服の上に白衣を身に着けていた。俺の顔を見るや否やヒールが床の大理石に当たる音が速くなり、50メートル程を走って俺の前まで来ると片膝で跪き、俺に謝罪した。
「昨夜はとんだご無礼を働きましたことをお詫び申し上げます。大変、申し訳ございませんでした」
それを見た後ろにいる犬耳兵士達も慌てたように俺に跪いた。
いきなり走ってくるもんだから内心ちょっとヒヤッとしたことはまだバレていないはず、俺はポーカーフェイスをキメ込む。ここは無難に紳士的に振る舞うのだ、がんばれ俺。
「顔を上げてお立ちください。失礼かとは存じますが、私はあなたに見覚えがありませんので何かの間違いではありませんか?」
グレイアさんはなぜか立とうとしない。
「いえ、しかし……私はあなた様をジオノール陛下と間違えてしまい、あなた様が吸血鬼の新たな長とは知らなかったとはいえ、初めてお会いしたにもかかわらず、あのように声を荒げてしまい……どうかお許しを」
「私は何も知りませんから。あなたが恥じるようなことは一切起こってすら無いのだと思いますよ?」
最後にニコッと微笑んでおいた。っていうか俺が吸血鬼の長ってどういうことなの初耳です。
「っ、ありがとうございます。申し遅れました、私はヴァルレイ王国吸血鬼統括将兼魔道具研究所所長グレイア・ワルゾンと申します。以後、お見知り置きを。ジン・ヴァルレイ国王陛下」
「え……国王陛下とはどういうことでしょうか?」
「あちらの棺からジオノール・ヴァルレイ前国王陛下が魔法で刻印された文章を発見致しまして、そこにあなた様のことが書かれておりました」
さっぱりわからない。いきなりあなたは国王陛下ですって言われてもなぁ。
俺、吸血鬼に転生しちゃったってことか? なら暗視能力が異常によかったのもちょっと納得できるかもしれない。今は空が青いから昼間だけど、吸血鬼は太陽に弱いってことはないのか、全然平気だな。
一体どんなことを前国王が棺に書いていたのだろうか。さっき棺を撫でていたときは見えなかったから、書いてあるのは俺の見ていない裏側とか、もしくは魔法で刻印されたものは何か特殊な方法でしか見ることが出来ないのかもしれない。
「そう……ですか。よろしければ内容をお伺いしても?」
「はい、内容はこうでした。『私の息子、ジン・ヴァルレイ。其の力、祖国の頂きより天を受け入れ、民を導く翼となるであろう。 ジオノール・ヴァルレイ』とありました。私共はジン国王陛下の臣下、敬語はご不用です」
これはどうやら本格的に国王から俺の異世界物語は始まっていくようだ。私の息子とか言われましても……ジオノールなんて人と会ったことすらないんですがそれは。
俺は敬語に全く慣れていなかったから話さなくてもいいというのはありがたいけど、ずっと臣下達がこんな調子で話しかけられてきても俺にはなんだか素っ気なく感じて……端的に言うと寂しい。数人、心置きなく話せる人が欲しいな。
「そっか、わかったよ。じゃあ、グレイアさんもそんなに畏まらないでほしいな」
「敬称も要りません。私の方が年齢は上かもしれませんが、あなたは国王なのです。その身は堂々と、全ての民に威厳を持たれる存在でなくてはいけません。中でも私のような吸血鬼には特にそうです。ジン陛下は吸血鬼の“グロワール”をお持ちなのですから」
「グロワール?」
「え?えぇ。あの……もしかして、まだ能力の発現は起こっていらっしゃらないのですか?」
まずいことを言ってしまったんだろうか。ここで本当のことを言ったら怪しまれるだろうか。
異世界で死んで、目が覚めて気が付いたらなぜか5歳くらいの子供になって棺の中に居たんだよねぇアハハ! だから能力とかこの世界のこともなーにもわっかんない☆ うわぁー無理無理!! 少なくとも異世界から来たことはまだ言えないな。
ハァー、ついに来てしまったか、俺のスーパー演技力を異世界で披露する時が。俺は心の中で口角を釣り上げる。
元の世界に居た頃、俺は友人と寸劇の茶番を繰り広げ、その高い演技力から彼らの中では一目置かれていた。敬語は苦手だが普通に喋っていいのならいける!
「実は……わからないんだ。目が覚めたら周りは暗くて狭くて、不安になった。思い切って外に出てみると、俺はこの棺の中にいたんだってことがわかって……それまで自分が何をしていたのか、何者なのか、全く……覚えていないんだ」
変だよね、と吐き出すように呟やいて俺は徐に視線を落とし、右手の掌を5歳の少年の虚ろな目で覗く。
するとグレイアが立ち上がり至近距離まで近づいて、今度は両足で立ち膝になる。俺の目の前にはグレイアの紅くて長い髪が少しかかった美しい顔と、白衣の間から覗く主張の激しい胸に持ち上げられて膨らんだ紅い軍服がある。グレイアは優しく俺に微笑み、さらに近くなる、そして俺は……グレイアに抱き締められた。
「安心した。最初はとにかく嫌われる前に謝らないと、と思って話しかけたら、あんな大人びた話し方するんだもん……でもやっぱり子供なのね。ある意味ジオノール前国王陛下よりしっかりしているように見えたから、固い話し方になっちゃったの。……気づいてあげられなくて、ごめんね」
グレイアは自身の胸の中にある俺の頭に右手を置くと、上から下へゆっくりと大切な物を扱うように撫でてくれた。左手も俺を抱き寄せるのに使い、グレイアの暖かさが体全身を包み込み、俺は胸の中から何かが込み上げてくるのを感じた。
俺は演技をした、いや、したつもりだったんだ。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせてきた。でも、予想以上に俺は不安と孤独を感じてしまっていたようだ。人の温かみがこんなに心地良いと知るのは、随分久しぶりな気がする。
思えば、俺は小さい頃から泣いてばかりで、大きくなるにつれて涙を流すことは恥ずかしいことだという雰囲気に従っていき、泣くことをいつしか忘れていた。
寂しがり屋は泣き虫だ、いつまでも。
「……ヒッ……ク……」
「よしよし。お姉ちゃんが傍に居るから、もう大丈夫よ」
ぼぅ……という静かな音が王の間に広がり、セピア色の明かりが頭上からやんわりと注がれた。シャンデリアの蝋燭は揺れることなく俺達を照らし続ける。
グレイアの香りと体温はどことなく懐かしさを感じる。
『自分が何をしていたのか、何者なのか、全く……覚えていないんだ』
突然訪れた死、見ず知らずの異世界、二つは終わりと始まりであると同時にしっかりと繋がれている、俺はそんな気がした。