第4章ー2
1905年4月の状況の説明です。
奉天会戦の大勝利を受けて、桂太郎首相は小村寿太郎外相に早速、ルーズベルト米大統領に日露戦争の講和の斡旋を依頼するように命じた。
小村外相は、高平小五郎駐米大使にその意向を伝え、高平駐米大使は早速、米国務省を介してルーズベルト米大統領に講和の斡旋を依頼した。
ルーズベルト米大統領はこの依頼を大歓迎した。
米国にとって、日露戦争はそろそろ手打ちがなされるべき時が来ていた。
米国は基本的に中国の門戸開放と言った米国の国益の観点から、満州が露の独占になることに反対していた。
かといって、日本が勝ち過ぎて、今度は満州が日本の独占になることは大問題だった。
日露が共倒れし、露の報復戦争を阻止するために、日本が米国の支援が必要な現在の状況が一番、ルーズベルト米大統領にとって日露戦争の講和の斡旋をするのに絶好の時期だったのである。
桂首相は小村外相に日露戦争の講和を進めるように指示する一方、陸軍の山県有朋参謀総長らの主張を受け入れて、陸海軍の間を調整して、4月1日に樺太攻略作戦も発動している。
海軍軍令部は、バルチック艦隊回航に備えて、水雷艇1隻すら惜しい状況にあると大反対したが、桂首相には陸海軍が対立した場合に調整する裁断権が与えられている。
そして、奉天会戦の大敗北を受けて、樺太に駐屯していた露軍は治安維持に最低限必要と考えられた歩兵1個大隊まで削減され、砲兵大隊等の重装備の部隊は全て樺太からハルピンに3月中に向かってしまっていた。
樺太を一時失っても、満州を守るという露陸軍の大方針がある以上は、露軍の樺太守備隊が質量共に削減されるのは止むを得なかった。
こうした状況は、樺太在住の日本人によって逐一、日本本国に伝えられていた。
そのために、陸軍は樺太攻略は後備旅団1個で充分であると判断することが出来たのである。
そして、露領土を日本が占領することは、露国内外に衝撃を与え、日露戦争の講和を促進すると陸軍は主張し、桂首相もその主張に同意した。
海軍としては、せめてもの意趣返しとして海兵隊による樺太攻略を主張したが、奉天会戦により海兵隊が半数近い大損害を被っていては如何ともし難い。
結果的に陸軍後備兵1個旅団による樺太攻略作戦が行われることになり、4月1日を期して樺太攻略作戦は発動されていた。
圧倒的な兵力差、日本海軍による制海権の確保という悪条件があっては、露軍はどうにもならない。
4月中に樺太全土は日本の占領下におかれるものと露政府の高官ですら判断する有様だった。
日本軍による樺太攻略作戦の発動、米大統領による日露戦争の講和斡旋の声明発表といった状況を受けて、露政府は遂に日露戦争の停戦を提案すると共に、講和会議の開催を受け入れることを決断した。
実際問題として、露国内ではストライキや暴動が国内のどこかで連日のように起きるまでに国内の状況は悪化していた。
奉天会戦の余波はそこまで大きかったのである。
だが、露政府もただでは起きない。
起死回生の陰謀を巡らせ、少しでも有利な講和を結ぼうとしていた。
講和会議は銃弾の代わりに言葉が飛び交う戦場である。
日本政府の外交力の真価が問われようとしていた。
ルーズベルト米大統領は日露戦争の講和会議の場所としてポーツマスを提案し、日露政府は共に受け入れた。
露からはヴィッテ大臣委員会議長が派遣され、日本からは小村外相が派遣されることになった。
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