第3章ー7
ミシチェンコ騎兵軍の生き残りにとって、営口からの地獄の退却行が始まった。
彼らにとって、この退却行が地獄になった原因は4つ程ある。
まず第1に、ミシチェンコ騎兵軍は露軍の師団所属の騎兵中隊を抽出等することにより臨時編制されたものだったので、通常なら存在する旅団、連隊、大隊といったものが存在しなかった。
そのために、ミシチェンコ将軍とその幕僚が失われたために、ミシチェンコ騎兵軍に所属する各中隊がバラバラに統制も無く退却することになった。
第2に負傷者を大量に抱えての退却となったために純騎兵としては低速の1日30キロ程の退却が精一杯になった。
第3に追撃する日本海兵隊は若者が大量に志願していたために練度こそ低かったが、体力は有り余っており、1日に40キロ以上の追撃さえ行った。
第4にミシチェンコ騎兵軍の生き残りの退却先と、いわゆる「沙河対陣」の前線に駆け付けようとする日本海兵隊の進撃先がほぼ重なっていたことである。
これらの相乗効果は、破滅的効果をミシチェンコ騎兵軍の生き残りに引き起こした。
「小隊長。私を楽にしてください。そして、残りの皆で逃げてください」
兵の1人が哀願する。
「分かった」
小隊長は顔を背けながら、重傷で馬をうまく操れない兵の頭に銃口を向け、銃を放った。
その銃声は遠くまで響き、送り狼と化した海兵隊を呼び寄せた。
「畜生」
絶望的な抵抗をミシチェンコ騎兵軍の生き残りの一部である小隊は試みるが、先回りされたことにより完全な海兵隊の重囲下にあっては、その抵抗も長くは続かない。
小隊の全員が死亡するか、海兵隊の捕虜となるのに半日もかからなかった。
更に退却するミシチェンコ騎兵軍の生き残りには夜さえ敵になった。
1905年1月21日が満月のために、ミシチェンコ騎兵軍の生き残りにとっては、退却行の際、夜の闇の大半が月光に照らしだされるという泣きたくなる現実が待ち構えていたのである。
当然、夜間でさえ、海兵隊の追撃は執拗に行われた。
そして、天候は非情にも晴れが続き、明け方の寒さは言語を絶するものとなった。
幾ら寒さに慣れ親しんだ露軍の将兵と言えど限度がある。
血を流している負傷兵から凍結した地面は容赦なく体温を奪い、凍死者をミシチェンコ騎兵軍の生き残りに続出させた。
日本海兵隊の公刊戦史ですら、次のようにこの惨状を書く。
「我々はミシチェンコ騎兵軍の凍死体を頼りに追撃を行った」
後に、凍死者街道と謳われる悲劇がミシチェンコ騎兵軍の退却の際に引き起こされた。
1905年1月25日、ミシチェンコ騎兵軍の数少ない生き残りのほとんどが露軍の前線にたどり着いた。
この時点で日本海兵隊の追撃は事実上終了した。
1905年2月1日、クロパトキン露満州軍総司令官は、ミシチェンコ騎兵軍の生き残りを慰労しようと考えて、ミシチェンコ騎兵軍の生き残りの全員が集められた牛居を訪問した。
ミシチェンコ騎兵軍の生き残りの全員がクロパトキン将軍を出迎えたが、彼らの姿を見た将軍は当惑した。
「これが全員なのか」
将軍は生き残りの最先任指揮官となった大尉に当惑して尋ねた。
「これが全員です。後、負傷して数百名が入院中です」
大尉は何とも言えない表情をして涙を浮かべて答えた。
将軍の目の前にいる兵の数はどう見ても、1000人もいなかった。
1万人以上いたはずのミシチェンコ騎兵軍の生き残りは2000名を切っていた。
なお、ミシチェンコ騎兵軍の全ての火砲は海兵隊に奪われていた。
一方、海兵隊の死傷者は100名もいなかった。
露軍騎兵の完全な敗北、悲劇の結末だった。
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