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第2章ー48

「コンドラチェンコ少将、死んではいかんぞ」

 ステッセル中将もスミルノフ中将も繰り返し注意した。

 それに対し、コンドラチェンコ少将も決まって返答した。

「私は最期まで戦い抜きますよ」


 だが、その陰に秘められた想い、旅順要塞陥落までに死にたいというコンドラチェンコ少将の想いを2人の上官は共に哀感を持って感じた。

 実際、旅順要塞攻防戦において露軍にとって戦況は日増しに悪化する一方だった。


 11月8日、第9師団と第11師団は競うように望台方面からの攻撃を再開した。

 203高地攻防戦によって貴重な予備兵力を使い潰していた露軍は基本的に後方からの増援無しで、前線の兵力のみで対処するしかない惨状だった。

 それでも1日でも長く第3軍を旅順要塞に拘束しようと露軍は奮戦したが、どうにも限度があった。


 11月15日、東鶏冠山北堡塁は最期の時を迎えようとしていた。

「それでは行ってくるか」

 コンドラチェンコ少将は散歩に出かけるかのような口調で部下に言った。


 目の前にいる再編成された1個海軍歩兵中隊が今や少将が唯一の東鶏冠山北堡塁に送り込める部隊だった。

 日本軍は大量の爆薬で堡塁を爆破しており、堡塁の守備機能はほぼ失われ、堡塁の守備隊の過半数は死傷している。

 海軍の部隊を率いて陸軍の将軍が突撃を掛けるのも乙なものだ。


 コンドラチェンコ少将は皮肉な想いを抱きながら、海軍歩兵と共に東鶏冠山北堡塁へ向かって走った。

 それが生き残りの露軍の将兵が見た生きたコンドラチェンコ少将の最期の姿だった。

 翌日、東鶏冠山堡塁完全陥落。

 生き残った露軍の将兵の中にコンドラチェンコ少将はいなかった。


 11月30日、終に日本軍の攻撃の前に望台が陥落した。

 それ以前に二龍山堡塁、松樹山堡塁を露軍は失っており、ここに旅順要塞の防衛線は完全に崩壊した。

 同日夜に露軍の首脳陣は緊急会議を開いた。


「最後まで戦い抜くべきだ」

 スミルノフ中将は力説した。

 だが、支持者はほとんどいない。


「どこに兵力がある」

 ステッセル中将は肩を落とし、憔悴しきった表情で反論した。


 203高地攻防戦後に露軍は更に兵力を失っていた。

 今や1万6000人程しか旅順要塞守備隊はいない。

 しかも、その多くに壊血病の兆候が表れだしていた。

 兵の士気も地に落ちつつあった。


 203高地攻防戦後も日本軍に多大な損害を露軍は与えている。

 しかし、補充が届く日本軍に対し、露軍に補充はないという現実の前にはどうにもならない。

 スミルノフ中将が沈黙したのを見て、ステッセル中将は言った。

「わしが銃殺されることで、旅順要塞の生存者が救われるなら構わん。わしが独断で降伏の死者を送ったことにすれば、諸君に迷惑がかかることは無いだろう。明日の早朝に、わしから日本軍に降伏の使者を送ろう。この会議は開かなかったことにすればよい」


 会議の参加者は、皆、沈黙した。

 中には落涙する者もいる。

 その様子を見て、ステッセル中将は会議を終了した。


 12月1日早朝、露軍の兵の1人は白旗を持って日本軍の陣地に赴いた。

 旅順要塞守備隊の全面降伏を伝えるために。

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