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第2章ー44

 それから数日後、連合艦隊は旅順港封鎖任務を取り止めて、佐世保へ呉へと帰港していた。

 連合艦隊司令部の内部の雰囲気は良くなかったと秋山真之中佐(当時)は回想録に書いている。

 林忠崇提督自らも確認した旅順艦隊は全て自沈している旨の報告があったことから、帰港することになったのだったが、連合艦隊司令部にしてみれば、もっと早く203高地を海兵隊が陥落させていれば、このことを早く確認できたのにという想いが先だったというのだ。


 9月の第一次総攻撃で海兵隊は203高地への突入に成功していたのだから、その時点で203高地は占領できたはずというのが、東郷大将らの主張だった。

(これに対しては、日露戦争後に海兵隊はこの当時の露軍の兵力(第一次総攻撃終了時点で約5万1000人が残存していた)や28サンチ榴弾砲等の重砲による火力支援が当時は無かったことを理由に203高地は奪還されて終わりだった、と主張した。

 実際、第1次総攻撃で疲弊した海兵隊は1万2000人以下に兵力を消耗させており、火力支援なくして203高地を保持できたとは考え難い)


 東郷大将は旅順艦隊が自沈していることを聞いて、連合艦隊司令部の面々に次のように発言したと秋山中佐は述べている。

「海軍の誇りを失い、陸上で海軍軍人が戦うようではしまいだ。例え、自殺的な状況であろうと海軍軍人なら艦隊と共に出撃して、海軍の誇りを守るために戦死すべきだ。それが祖国のためだ。艦隊を自沈させた露海軍の軍人は、海軍軍人として尊敬できない」


 同じ頃、旅順要塞内ではウフトムスキー提督以下203高地攻防戦で戦死した兵士たちの簡素な葬儀が行われていた。

 11月6日、24時間の停戦協定が臨時に結ばれ、提督の遺体は、他の露軍の兵士の遺体と共に丁重に海兵隊から露軍に送られていた。

 海軍歩兵旅団の生き残りの多くが参列した。


 参列した兵士の1人は次のように回想している。

「ステッセル将軍が兵士たちに対する弔辞を述べた。将軍は提督以下の海軍歩兵の将兵の死を心から悼んでいることが分かった。我々も落涙した。祖国を守るためならば、艦隊を降りて陸上で戦うことも厭うものではない。我々の多くはあらためてそう誓った。だが、我々は余りにも多くの命を失い過ぎていた。葬儀の後で、ステッセル将軍は海軍歩兵旅団を解散し、独立海軍歩兵中隊複数に改編してはどうか、と生き残った海軍の幹部に打診した。実際、我々に無傷の者はほとんどおらず、軽傷で前線勤務に耐えられる者をかき集めても3000人も満たない有様だった。生き残った海軍の幹部は、ステッセル将軍の提案を受け入れた。海軍歩兵旅団の終焉だった。私も再編された独立海軍歩兵中隊の1つにあらためて配属されて陸軍の指揮下に入った。提督以下の多くの幹部を失い、海軍歩兵としてまとまって行動することは実際問題として不可能になっていた。独立海軍歩兵中隊は12個編制されたと私は覚えている。そして、我々は旅順要塞守備隊司令部が降伏を決断するその日まで祖国のために戦い抜いた」

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