第2章ー15
こうして黄海海戦は終わった。
海軍軍人には軒並み旅順艦隊、特にウィトゲフト提督を強く非難する者が多い。
東郷平八郎元帥は戦争後に次のように言っている。
「ウィトゲフト提督は海軍軍人ではない。もし、旅順艦隊が見敵必戦の覚悟で徹底的に戦っていたら、我が連合艦隊も大損害を受けたろう。そうなったら、バルチック艦隊の阻止は不可能だったろう」
露海軍側もウィトゲフト提督や旅順艦隊に冷たかった。
クラド海軍大佐は「日露開戦敗軍の真相」の中で次のように辛辣に批評した。
クラド大佐の著作は個人として出版されてはいるが、露帝国の内部で公刊されているものであり、半分露海軍も認めていたということだろう。
「決戦的戦闘を行うべきであり、旅順艦隊は全滅するまで戦うべきだった。そうすれば日本艦隊は大損害を受けていたはずだ。我が艦隊には戦艦6隻があり、日本艦隊の基幹戦力は戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻に過ぎなかったのだから」
中立国の海軍軍人の多くも、旅順艦隊を非難した。
米海軍のマハン提督は、旅順艦隊の行動を要塞艦隊であったと論難している。
これに対して、陸軍や海兵隊関係者の多くは旅順艦隊は出航させるべきではなく、旅順要塞防衛作戦に転用すべきだったと述べているのは興味深い。
児玉源太郎陸軍大将は次のように述べている。
「もし、旅順艦隊が速やかに全てを旅順要塞防衛のために人員や武装を提供していたら、おそらく1904年中に旅順要塞は落ちなかったろう。そうなったら、奉天会戦に乃木将軍率いる第3軍は間に合うことはなく、第3軍到着前に行われただろうクロパトキン将軍による露陸軍の春季攻勢により、日本陸軍は大損害を受けてしまったろう。史実でもわずか3日差で我々は攻勢を先んずることが出来たにすぎないのだから、第3軍のいない状態で露陸軍の春季攻勢が発動されていたらと思うと、私は背筋が凍る思いがする。旅順艦隊は要塞防衛に転用すべきだった」
林忠崇海兵隊提督は次のように述べている。
「海軍軍人としては、死ぬのなら海の上で死にたかったろうと思う。だが、祖国の勝利のためにと艦を下りて旅順要塞攻防戦のために奮戦した露海軍歩兵を非難することはできないし、彼らがいなければ、旅順要塞はもっと兵力不足から容易に落ちていただろう。仮に旅順要塞に30センチ砲16門等が備え付けられて、我々攻撃側の頭上にその砲弾が落ちていたら、我々が苦戦するどころでは済まず、バルチック艦隊来航まで旅順要塞は持ちこたえたこともありえると私は考える」
実際に旅順艦隊の戦艦の主砲全てまでを旅順要塞防衛のために備え付けられたか、というと疑問もあるが、露陸海軍が史実より協調して旅順艦隊の武装や人員を旅順要塞防衛に転用していたら、旅順要塞が持ちこたえられたのは間違いないようである。
露陸軍のスミルノフ将軍も戦後に次のように述べた。
「もし、旅順艦隊の武装と人員が最初から全て旅順要塞防衛に転用されていたら、後1月は容易に旅順要塞は持ちこたえられて、奉天会戦は露陸軍の大勝利に終わったものを。海軍の誇りのために祖国は敗北に至った」
黄海海戦の終わりです。
次から旅順要塞に対する第1次攻撃の開始になります。
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