第2章ー13
ウィトゲフト提督の意識は暗転したまま、永遠に戻らなかった。
提督の魂は黄泉路へと旅立ったのだ。
この時、ウィトゲフト提督の意識を暗転させたのは、後に海戦史で「運命の一弾」、または「天弾」と謳われることになった弾だった。
だが、より正確にいうと、この弾は2発あった。
旅順艦隊の旗艦を務める「ツェザレウィチ」の艦橋に続けざまに(どの日本の軍艦が撃った弾かは謎だが)、2発の弾が命中した。
そのために、ウィトゲフト提督以下の旅順艦隊司令部は全滅し、更に艦長以下の艦の首脳部も失われて、「ツェザレウィチ」は操舵不能になったのである。
「ツェザレウィチ」はいきなり左旋回を始めた。
「いかん」
旅順艦隊のほぼ全員の艦長は旗艦の惨状を見た瞬間に腹をくくらざるを得なかった。
今こそ事前に渡された封緘命令に従う時だった。
各艦の艦長は封緘命令を開いた。
すると、次のような命令が書かれていた。
「旅順艦隊各艦の艦長が信ずる最善の手段を採って、旅順港へ帰港せよ。旅順艦隊の解散を命ずる。これ以降、旅順要塞死守の任務に精励し、祖国の勝利のために貢献すべし。そのために各艦の武装を存分に活用せよ。真の海軍軍人として、海軍の名誉よりも祖国の勝利を重んずべし」
「提督」
それを読んだ艦長の多くの目に涙が浮かんだ。
海軍の軍人として、海軍の名誉に殉ずる覚悟はしてきたつもりだった。
だが、海軍よりも祖国のことを第一に想えと提督は命じている。
どちらがより正しい判断なのか、艦長の多くが一瞬の決断を迫られ、そして、ウィトゲフト提督の遺命に従うことを選んだ。
「我が艦は、提督の遺命に従い、旅順港へ全力で帰港する。各員はそのために全力を尽くせ」
ある戦艦の艦長は艦の各員に対して命令を下した。
他の多くの艦でも同様だった。
「何だ。旅順艦隊の動きが急に統制が取れなくなったぞ。やはり、旗艦の艦橋に続けざまに砲弾が命中したことから統制が取れなくなったのか?」
連合艦隊司令長官、東郷大将はある意味で常識的な判断を下してしまった。
だが、ウィトゲフト提督の遺命は、常識を逆手に取るものだった。
統制を執らないまま、旅順港に帰港する、そんなことを日本艦隊は思うまい。
だからこそ、却って、旅順艦隊各艦が旅順港に無事に帰港できる可能性が高まるのだ。
ウィトゲフト提督の魂が存在するのならば、あの世で高笑いする事態が起きてしまった。
「旅順艦隊を捕捉できませんでした」
海戦後に旅順艦隊の追撃に当たった連合艦隊の指揮下にある水雷艇や駆逐艦の艦長は口々に報告した。
東郷大将は激怒した。
「敢闘精神のかけらもない艇長や艦長どもだ」
東郷大将は、水雷艇や駆逐艦の艦長を軒並み馘首するように海軍省に要求し、山本権兵衛海相は免職処分を下した。
山本海相も東郷大将と同意見だった。
なぜ、旅順艦隊の艦艇への夜襲を試みた水雷艇や駆逐艦の艦長は失敗したのだ。
真実を述べるならば、旅順艦隊の各艦は無灯火で散開しての旅順港帰港を試みた。
そのために単独航行で旅順艦隊の各艦は旅順港を目指すことになり、却って水雷艇や駆逐艦による索敵は失敗し、夜襲は行われなかったのだ。
黄海海戦はこうして終わった。
表面上は日本海軍の勝利だが、日本海軍上層部と旅順艦隊の生き残りは真実が違うことが分かっていた。
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