エピローグー5
1912年8月、残暑が厳しい中を土方勇志大佐は林忠崇大将の供をして、乃木希典大将の自宅を訪問していた。
学習院の院長になって以来、乃木大将は自宅に稀にしか帰らなくなっているらしい。
それだけ学習院の院長職に専念しているのだろう。
そういえば、と土方大佐は思った。
林大将は、数年前の北白川宮殿下の薨去を機に、海兵本部長を辞任し、軍事参議官になっている。
海兵本部に一室を与えられているが、実際にはその部屋にはほとんど出勤しておらず、軍令部第3局(通称、海兵局)にしょっちゅう顔を出して、今、辛亥革命の渦中にある清国、いや中華民国に万が一海兵隊が出兵しなければならない場合に備える計画の立案に助言を与えているとか。
いざと言う際は、自ら総司令官になるつもりらしい。
60代半ばにも関わらず、林大将は相変わらず元気そのものだ、土方大佐はつくづくそう思った。
乃木大将の自宅を訪れると、幸いなことに乃木大将は在宅していた。
乃木大将と林大将は久闊を叙して、日露戦争等の思い出話に耽った。
お互いの記憶が怪しい所は、土方大佐が確認する羽目になった。
2人の話しはしばらく続いた。
「そういえば、水師営の会談の際にステッセル将軍から送られた馬は、今、どうしていますか」
林大将は乃木大将に尋ねた。
「あの馬でしたら、鳥取の大山の麓の牧場で種牡馬になっています。よい仔馬が産まれているとか。きっと日本の軍馬の改良の礎になるでしょう」
「そうですか」
林大将は、それきり黙った。
乃木大将も沈黙している。
林大将には娘はいるが、実の息子はいない。
一方、乃木大将は2人の息子を共に日露戦争の中で失っている。
あの馬は子孫をつないでいるのか。
それ以上はお互いに思いが溢れすぎて言葉にできないのだろう。
横で2人の会話を聞いている土方大佐は2人の内心をそう憶測した。
しばらく沈黙が続いた後、気持ちを切り替えるためだろう、林大将は奉天戦の時の話を始めた。
乃木大将もそれに対する話をした。
その後も2人の会話は戊辰戦争から西南戦争、日清戦争と尽きることが無かった。
土方大佐は横で2人の会話をひたすら聞き続けた。
「いや、すっかり長居してしまいました。それでは失礼します」
林大将は乃木大将に挨拶をして、乃木大将の自宅を辞去した。
土方大佐も林大将と共に乃木大将の自宅を辞去した。
乃木大将の自宅が見えなくなると、林大将は土方大佐に話しかけた。
「すまんな。老人の世間話に付き合わせて。だが、今聞いておかないと、もう乃木大将の話を聞く機会が無いとムシが知らせたのでな。お前にも付き合ってもらったのだ」
「どういうことです」
「何となくだが、乃木大将が明治天皇に殉死されるのではと予感がしてな」
「えっ」
土方大佐は思わず声を上げてしまった。
「あくまでもわしの勘だ。それに乃木大将に聞いても否定されるのがオチだ。だが」
林大将は天を仰いだ後で話を続けた。
「今日、乃木大将と長話をして確信したよ。乃木大将は殉死されるつもりだ」
「何かされるのですか」
土方大佐は林大将に尋ねた。
「友の1人として黙って見送ろうと思う。それが友としての態度だろう」
林大将はぽつんとそう言って、海兵本部へと向かって歩みだした。
土方大佐は林大将の後を追いながら、まさか、と思いたかった。
だが、林大将の背中はそう言ってはくれなかった。
9月半ば、乃木大将が殉死したとの連絡が土方大佐の下に届いた。
土方大佐は号泣しながら、何故か頭の中でよぎる思いが止められなかった。
本当に明治は終わったのだ。
これで第2部は完結です。
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