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第1章ー10

 日本が露に正式に国交関係の断絶を宣言したのは、1904年の2月6日のことだった。

 露の日本への態度は強硬に更に冷たくなる一方のように日本には思われた。

 日露間の交渉が困難であると日本の政治家の多くが判断して日露戦争止む無しという判断に至ったのがいつなのかは、歴史家の意見は錯綜しているが、多くの歴史家が支持するのは、1903年8月の露極東総督府の設置である。


 露の行政改革の一環として、極東総督府が設置され、その初代総督として、アレクセーエフ提督が任命された。

 更に日本や朝鮮との外交交渉は極東太守府の専権事項となり、露外務省には一切、権限が無いという露の行政改革が行われたのである。

 日本はこれに厳重に抗議した。


 日本との外交交渉は露外務省には権限が無く、極東総督府にあるとすることは、日本は対等の国家ではない、と露が宣言したに等しかった。

 更に、日本は露の満州権益に干渉しない代わりに、日本の朝鮮における優越的地位を露が認める、いわゆる満韓交換論をこの頃には主張していたのだが、アレクセーエフは露の極東における全権を握った者として、日本に次のような要求を出した。


 満州権益は清国と露との問題であり、日本に口をはさむ権限はないこと、日清戦争後に日本が朝鮮の金弘集政権と締結していた日朝安全保障条約(この条約によって、日本は朝鮮の独立を保障する代わりに、有事の際には朝鮮に日本の陸海軍を駐屯させる権利を確保していた。なお、1903年当時には日本の陸海軍は朝鮮に駐屯していなかった。)は、極東の平和を乱すものであり、速やかに日朝安全保障条約を破棄して、朝鮮の北緯39度線以北は完全非武装地帯にすることを要求した。


 日本は唖然とせざるを得なかった。

 満州の清国と露の問題に日本は口を挟むな、と言いながら、朝鮮の日本と朝鮮の問題には平然と口を挟んでいるのである。

 二重基準も甚だしいと日本の政治家の多くが判断した。


 アレクセーエフに言わせれば、我が国の背後には仏もいる。

 露仏2国と日本が戦えるはずもない以上、手に入る物は全て手に入れて当然だった。

 日朝安全保障条約は破棄され、朝鮮は露の保護国になるのが歴史の必然だった。


 小国の日本が何をほざこうが、日本軍が露と戦えるのは百年以上先である以上、英国も最後は露の要求を黙認するだろう。

 アレクセーエフはそう判断していて、クロパトキンら、露の対日宥和論者を、彼らは臆病者で、祖国の利益を考えない非国民で愛国者ではないとしょっちゅう誹謗していた。


 日本の政治家の多くは、ニコライ2世がこのような人物を極東総督に任命したことから、露は日本を挑発して戦争に追い込むことを決断したと判断したのだった。

 半年近く、日本は桂首相以下、それでも何とか避戦を策したが、アレクセーエフ総督が対日交渉の最終判断について全権を握り、日朝安全保障条約破棄要求を崩さない以上、日本は対露断交を決断した。


 これはアレクセーエフ総督には意外なことだった。

 日本の対露断交の一報を受けたアレクセーエフ総督は次のように言ったという。

「日露戦争になったら、露の国旗が1年以内に東京に翻り、日本という国が消え去るのに、何であれだけの寛大な条件をすぐに日本は受諾しないのか。私には理解できない」

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