第1章ー9
「直弟子と孫弟子を比較した場合、孫弟子が優秀だったら、師匠は喜ぶべきかな、悲しむべきかな」
馴染みの料亭で会食しながら、小倉処平は小村寿太郎に言った。
「裏の意味が分かりませんが」
小村は師匠の小倉に冷たく返した。
「そう言った時点で嘘を言っているのがばれているぞ。裏の意味も分かっているのだろう」
小倉は笑みを浮かべながら、小村に言った。
元老の井上馨が朝鮮政府の改革が順調に進むようになったとして駐朝公使を辞任した後で、小村は駐朝公使に任命された。
小村は、朝鮮政府の改革能力に疑問を覚えていた。
金弘集宰相が進める改革は急すぎるとして、小村はしばしば反対した。
有名な実例が、断髪令を巡る金宰相と小村公使の対立だった。
断髪令を庶民にまで適用しようとする金宰相に対し、小村は断髪令の施行自体に反対した。
紆余曲折の末に役人や軍人といった朝鮮政府関係者は全員が断髪し、それ以外は自由ということになった。
政府関係者を辞めれば断髪せずに済む。
朝鮮の政治勢力は大別して、保守派、開化派、民族派に分かれるが、金宰相の支持基盤は開化派だった。
そして、断髪令に抗議して朝鮮の保守派は続々と政府関係者から辞職したが、保守派と日本が結果的に連携したことで、民族派は保守派は実は日本と通じているのではと疑念を大幅に持つようになり、結果的に民族派と保守派は分断された。
保守派が主導する義兵運動がうまくいかなかった原因の一つが、この民族派との分断だった。
朝鮮民族自立を目指す民族派にしてみれば、保守派は裏で日本に通じているという疑念が拭えず、義兵運動は開化派打倒運動で反日ではないとして、義兵運動への非協力を貫いたのである。
保守派と民族派が手を組んで義兵運動を展開したら歴史は変わっていたろう。
小倉にしてみれば、今回の三国干渉に関する朝鮮政府の政治的能力は大したものだった。
結果的に朝鮮政府にとって最大限の利益が引きだせる結果を生み出したのである。
日本にとっても悪いモノではない。
朝鮮が後方支援を行う。
西南戦争で補給途絶に苦労した小倉にとって、後方支援の重要性は骨身にしみていることだった。
それを思えば、朝鮮政府は日本に協力してくれているのだった。
「私は朝鮮政府の外交手腕について指導した覚えはありません。だから、私の弟子ではありませんから、先生の孫弟子にも当たりません」
小村は小倉に言った。
小村は鮮やかすぎる朝鮮政府の手腕を素直に称賛する気にはなれなかった。
朝鮮の近代化は困難という自分の持論を崩されたという反感が底にはあった。
「素直になれ。陸海軍の首脳の多くが今回の朝鮮の行動について歓迎していると聞いているのだぞ。後方支援に協力してくれるのだから、朝鮮政府に文句を言う筋合いはあるまい。門前の小僧と言えども、弟子は弟子だ。お前にとって朝鮮政府は弟子だ」
小倉は言った。
「そこまで言われては仕方ないですな」
小村は肯いた。
「ところで、日露開戦の場合、陸軍は鎮南浦にまず上陸するのか」
小倉は小村に尋ねた。
「そんなことは先生と言えど知っていても明かせません」
「だろうな」
小村の答えに、小倉は微笑みながら思った。
はてさて、日露戦争はどういう経緯をたどることになるだろうか。