九話 弱音
翌日あたしは支度をはじめようとして手を止めた。
今日も化粧をするべきだろうか。
でも、あの人は二日も続けてあたしがあんな格好でお店に行ったらどう思うのだろうか。
やっぱり今まで通りの地味なあたしの方が良かったんじゃ・・・。
「でもそんなんじゃあの人の隣に並べない!」
鏡の前で独り言をつぶやきながら化粧ポーチを見つめては一人百面相をする。
「って、もうこんな時間!」
気づけばいつの間にか家を出る時間になっていて、結局あたしはポーチを鞄の中に詰めてすっぴんのまま出て行った。
「美花ってばー、今日も化粧しないで来てー」
大学に着くなり三波が駆け寄ってくるなりあたしの両頬を手で押さえた。
「だって」
あたしが表情を暗くすると三波は呆れたような顔をして入って行った。
残念なことに一限目は三波とは別の講義、だけどそれからお互い二時間空き時間があるのだ。
あたしは集中できない講義を聞きながら昨日のことをぼんやり考えていた。
「美花、美花ってばー、おーい、蓮嬢美花さん」
「えっ、あっ」
いつの間にか講義は終わっていたらしく、周りにはほとんど人がいなかった。
その代わりに三波が隣にいると言うことは講義が終わってそれなりの時間が経っているらしい。
「ぼーっとしてないで、話聞いてあげるからカフェでも行きましょう」
三波はわざとらしくカフェという言葉を強調させた。
「で、何かあったの?」
大学前のカフェに入るなり三波はテーブル越しに身を乗り出してきた。
「何かっていうか、今度はちゃんと送ってもらったんだけど」
三波ははっきりとしないあたしを怪訝そうに見つめている。
「だけど、なんていうか、あたしこれでいいのかなって。
いや、そうじゃなくて、今のあたしと前のあたしと、あの人はどっちがいいのかなって」
あたしがぼそぼそと話すと、三波は顔を顰めてから少し声を荒げて言いはじめた。
「何言ってるのよ。いい? その男がどんな奴かは知らないけどね。
可愛い女の子の方が好きに決まってるじゃないの。それとも何か言われたの?
似合ってないとか最低なこと言われたの?」
三波はどちらに怒っているのか、かなり憤った様子でいる。
「そうじゃないの。ただ本当の自分じゃないような気がして、それにあの人の前だと自分が自分じゃなくなって、
すごく恥ずかしくて、だから元に戻そうかなって」
彼について怒っているのなら弁解しようと必死で声を荒げたが、最後には呟くような声になってしまった。
「馬鹿じゃないの」
そんなあたしを三波はとても冷やかに言い捨てた。
あたしが驚いて三波の顔を見つめれば、三波は呆れたように溜息をついた。
「恋したら自分じゃいられなくなるのは当たり前でしょう。
普段の自分よりよく見せようとか、着飾りたくなるのは当たり前じゃない。
それに送ってもらったんでしょう? ちゃんと話したんでしょう?
これからが押しどころなのに、今弱気になってどうすんの!」
三波の気迫に押されて思わず「はい!」と返事をしてしまった。
「でも、わかんないんだもん。すごく恥ずかしいし、どうすればいいのか、どうしたいのかわかんなくて」
それでも弱々しく呟くあたしに三波はもう一度溜息をついた。
だけどその目は先程よりも優しくて、これだからあたしは三波に甘えてしまう。
「美花がこんなにもその人のために変わりたいって思えるようになったんだよ?
それはどうして?」
「それは・・・。それはあんなに素敵な人の隣に並ぶには、こんな地味なあたしじゃダメだと思ったから」
三波に促されるがまま小さく自分の思いを告げてみた。
「それで、その恰好でその人の隣に並べてどう思った?」
「嬉しかった。でも、言葉が出て来なくて自分の性格を恨んだ。
彼はいっぱい話してくれるのにいい答えが返せなくて、色々聞きたいことはあるのに何も聞けなくて、
嬉しいのに伝えられなくて、彼に変な誤解ばっかり与えて、余計に自信がなくなったの」
言葉にしてみれば惨めさが蘇ってきて、涙が溢れてきた。
三波はそんなあたしに気づいたのか、乗り出したままの姿勢であたしの頭を撫でてくれた。
「立派な成長でしょう。
だって一回目は隣にも並べなかったのに一緒に帰ったんじゃん。
次は話せるようにすればいい。
美花は誰よりも優しいだけ、誰よりも慎重なだけ、だから美花は美花のペースでゆっくりその人に歩みよればいいじゃん」
三波はあたしの頭を撫でながら優しくそう言った。
「まあ、化粧は正直どっちでもいいわ。美花がいいってなら別にいわよ。だからこれだけはやりなさいよ。
毎日その人の店に通いなさい」
三波はあたしの頭から手を離すと、その手でびしっとあたしを指さした。
「そ、そんなのしたら迷惑じゃ」
「何言ってるのよ。嬉しいに決まってるでしょう。
ずうずうしいくらいがちょうどいいのよ。
だから今日も行ってきなさい。美花のためでもあるのよ。毎日行けば話せるようになるでしょう?」
「うん」
三波に言い負かされる形であたしは彼の店に毎日通うことになってしまった。