六話 初めてみる顔
翌朝、髪にパーマがゆるく巻かれていること以外はいつもの自分がいた。まるで昨日の出来事が夢のようだ。しばらく鏡で自分の姿を見つめてから、美容師さんに教えてもらった通りに、パーマを綺麗に整える。
しかし、そこであたしの手は止まってしまった。
「化粧していく自信なんてないよ」
コンタクトレンズもつける勇気はない。あたしは眼鏡に手を伸ばし、パーマ以外はいつも通りの恰好で大学に向かった。
「ちょっと! 美花ったら何してるのよ」
送迎バスに乗ったところで三波に見つかってしまった。
「なんで眼鏡かけてるのよ! しかも化粧もしてないし」
窘めるように怒鳴る三波に、あたしは顔を沈ませるばかりだった。
「まあ、別に大学で可愛くする必要はないよ。でも、そんなんでいきなり好きな人の前出れないでしょう?」
仕方ないなー。と言いながら三波はバスが到着すると、大学近くのドラッグストアに向かった。
「化粧はあたしがしてあげるから、とりあえずワンデーのコンタクトだけ買うわよ」
三波に言われるがままに、あたしは小さくなりながら後を着いて行った。
「これでいいかなー」
その後授業が始まる前に、三波はトイレで化粧をしてくれた。化粧くらい食堂ですればいいのにと言った三波に対し、そこだけは譲れなかった。ただでさえ完成を見せながら歩くのも恥ずかしいのに、化粧中の姿を人に見せるなんて、頭がどうにかなってしまいそうだ。
「よし行くよー」
一限目は運の良いことに三波と同じ講義だ。三波の後ろに隠れるように恐る恐る部屋に入ると、真っ先に知り合いに会ってしまった。もっともあたしは大学で仲良く話すのは三波だけで、本当に顔と名前を知っている程度の子たちしかいないんだけど。
「えっ? 美花ちゃん? なになに、すごく可愛くなってるじゃん。そっかー、美花ちゃんにもとうとう春が来たのねー」
三人組の女子はきゃっきゃ言いながら、楽しそうな珍しそうな目で、あたしをなめ回すように見つめてくる
「美花が照れるからそれくらいね」
三波がそう言って席を取りに行ってくれたから良かったが、もう顔が熱くて仕方ない。
「早く帰りたい」
「早く帰って、今日は会いに行きなさいよ」
あたしの呟きに、三波はおどけているが真剣な調子で言ってきた。
今日は全ての講義が四時に終わる。カフェに向かうには丁度いい時間だが、こんな恰好であの人に会う勇気はない。それに、あたしはあの日何も言わず突然走り去ってしまったのだ。きっと気を悪くしているに違いない。あたしのそんな落ち込みに気づいたのか、三波はこんなことを言ってきた。
「謝りたくて、尚且つあんまり人に見せたくないって言うなら、閉店間近に行けばいいじゃん。謝りたくて来ました。なんて言ったら、ましてそんなに可愛い恰好で来たら相手もいちころよ」
そんな風に言ってみせた三波に、あたしは慌ててこう返した。
「そんな、図々しいことできないよ。閉店間近に行くなんて迷惑だし。それに、やっぱり無理」
三波は頭にゆるくチョップを入れてきた。
「何言ってるのよ。美花は消極的すぎるんだから、図々しいって思うくらいがちょうどいいのよ。そんなことで図々しいと思ってたら、世の中のほとんどの女が鬱陶しがられてるよ。ってまあ、女は図々しい生き物だけどね」
三波はそんな風に語ってみせた。
「とにかく今日行かなかったら、明日からもう話してあげないからね」
そう言われてしまった手前、このまま帰る選択肢は許されなかった。
長い長い一日を経て、ようやく全ての講義を終えた。三波はあいにくバイトがあると言うことで先に帰ってしまった。これから四時間どうしていようかな。ただでさえこんな姿でいるのは恥ずかしいのに、どこかのお店で時間を潰す勇気もない。あれから大学でもすごく見られるし、今も誰かに見られているような気になる。
あたしは仕方なく、一度家に帰ることにした。家からは歩いて十分ほどの距離、七時半にでも出ればいいのだろうか。それとももう少し遅く?でもあんまり遅くても・・・。
そんなことで悩んでいると、あっという間に時間は過ぎてしまい、気づけば七時半を過ぎていた。
「もう、こんな時間! 早く、行かなきゃ」
あたしは足早にお店へと向かった。店はこの前と同様、外の電気が消されていた。看板も中にしまわれているが、中を覗けばまだカウンターに一人お客さんが残っていた。
中にいたのはスーツを着た女の人、珈琲を飲む様がとても綺麗だ。あれが大人の女性という奴だろうか。あたしはついつい見とれて・・・。
「あっ」
店員さんと目が合ってしまった。すぐに逸らしたあたしは、店員さんの表情に気づけずどうすることもできずにその場で下を向いて立ち尽くしてしまった。
「いらっしゃいませ」
すると店員さんは、扉を開けてあたしに声をかけてくれた。あたしが見上げると、店員さんは一瞬驚いた顔をしてから、いつもの笑みを浮かべた。
「珈琲で良かった?」
いつもの席にあたしを座るように薦めると、店員さんはすぐに珈琲を淹れに行ってくれた。まだお客さんが残っているのに、しかもあんなに大人の綺麗な女性がいる前なのに、あたしは顔が熱くなるのを感じながらただただ俯いていた。
「どうぞ」
少しして店員さんが珈琲を持ってくると、あたしに顔をよせて「ちょっと待っててね」と言ってきた。
「えっ」
何を、どう、えっ、何?
混乱したあたしは、店員さんを凝視してしまった。すると、今度は女の人と目が合ってしまい、再び顔を下に向けることになった。
なんだか、すごく気まずい・・・。
「ごちそうさま」
そんな折、女性が立ち上がって、すぐに店を出て行った。あたしはその背中が見えなくなっても、なぜだかずっと女性の姿を見つめ続けていた。だから、店員さんが近づいていることにすぐには気づけなかった。
「驚いたよ」
「えっ」
近くで声がしたことに驚いたあたしは、勢いよく顔をそちらに向けた。
「それが普段の美花ちゃん? それとも、今日はデートの帰りだったとか?」
店員さんはいつもの笑顔を向けながら、茶化すように言ってくる。
「ち、違います」
あたしがそう言うと「そっか」と言って、またすぐに厨房に戻っていこうとする。早く切り出さなければ、そう思ったあたしは勢いよく立ち上がった。
「あ、あの」
驚いて振り向いた店員さんに、あたしは再び口を閉じた。
「あ、あの」
あたしが言葉を探していると、店員さんは微笑んで踵を返した。
「片づけするからちょっと待ってて」
店員さんはそう言って、厨房に戻ってしまった。やっぱり迷惑だよね。あたしはいたたまれなくなって立ち上がった。店員さんは作業をしていて、あたしのことには気づいていない。あたしは入口まで向かって、そこでおずおずと声をかけた。
「すみません、こんな時間にご迷惑でしたよね。やっぱりあたし帰ります」
そう言って、店員さんの返事も待たずに扉に手をかけると、その手を掴まれた。突然のことに驚いて体を震わせたあたしに、店員さんは「ごめん」と言ってすぐに手を引いてくれた。
「あー、えっと、ちょっと待ってって言っただろ。話したいことあるんじゃないの?」
店員さんは、今までの余裕のある笑みを湛えた姿ではなく、罰が悪そうに言った。初めて見る表情に、あたしは驚いて店員さんを見つめることしかできなかった。