紅い薔薇、横たわる鉄の塊
黄昏が降りる森で、夕映えが森を黄金色に染め上げている。その金色の輝きが届かない、茂みに囲まれた場所で、二人の人影が一つに重なっていた。
「――足りない……」
二人のうち、片方がおもむろに立ち上がる。目線を下ろすと、そこには首から二筋の血を零し、虚ろに目をむいている女性が。
「まだ……足りない…」
立ち上がった人物は、自らの口元についた血を乱暴に拭った。真珠のように仕立てられたシルクのシャツには、咲き誇る薔薇のように血が滲んでいる。唐突に、彼は鈍い銀色の髪を振り乱し、項垂れた。はあ、と溜息が漏れる。彼の望みが満たされることは永遠にない。
何故なら、彼は――「吸血鬼」だったのだから。
酷い渇きに喘ぎながら、彼はふらふらと歩き出した。人間の血は栄養価に富んではいるものの、取り込んだ後に襲われる虚無感は尋常なものではなかった。ただ、一層喉の渇きが深まるだけ。渇きが酷くなるくらいなら、花の生気を吸った方がまだましだ――彼はそう考えていた。
しかし、身体は正直である。彼のこだわりなど吸血衝動の前では無意味だった。現に、森の中で迷っていた娘を襲い、その血をいただいてしまったのだから。
「――……っ!!」
ふと、彼は一人の少女を目にした。身体に稲妻が突き抜けるような痺れを感じた。
ただでさえ女性の血をいただいたばかりだと言うのに、無防備な少女が一人で森をうろついているんじゃない――彼は小さく悪態をついた。
そんな彼の心配を他所に、今目線で追いかけていたはずの少女が、不意に姿を消した。
「……?」
少女が立っていたであろう場所まで足を運ぶ。どういうわけか、不思議と人間の気配や匂いを感じなかった。
「あの少女は――一体……」
***
自分の屋敷に戻り、彼は羽織っていた黒い外套を壁にかけた。ソファに身を投げ出すと急激に激しい眠気に襲われ、彼は抵抗することなく眠りに落ちた。
「つかれた……」
眠りの中で、彼は今日の出来事を思い返していた。
人里離れたこの森は吸血鬼や殺人鬼が闊歩する危険な場所として恐れられており、稀に迷った人間が来こそすれど、一日に二人もの人間が迷い込んだことはかつてなかった。
特に不思議だったのは、森の中で消えたあの少女の服装がやたらと綺麗だったこと。少女ともなれば真っ先に狼の餌食になってもおかしくないだろうに。沢山の疑問が頭の中を駆け巡り、意識は深い闇の底へと沈んでいく。
***
あくる昼下がりに彼が目を覚ますと、窓の外の青空が目についた。なんとなく外に出てみようかという気になって、黒い外套に手を伸ばす。
日光は吸血鬼の天敵だが、森の木陰がうまく遮ってくれるので、実際にはそれほど支障はない。大地を踏みしめ、一歩ずつ歩みを進める。土からも、木からも生気が溢れている。
今日の花は普段より一段と美味しいに違いないと思い立ち、気紛れに森の外れの花畑に向かうことにした。すると、彼の目の前に何者かが姿を現した。
「――お前は……」
透き通る、白磁のような肌。華やかに煌めく、金色の髪。空色の、憂いを帯びた瞳。華奢な身体を包む、森と同じ翠色をしたドレス。どれを取っても、まるで人間のものとは思えないくらい、酷く不気味に、絶望的に美しかった。
まさしくそれは、あの黄昏の夕暮れで目にした少女その人だった。
不思議と吸血衝動は湧いてこず、むしろ興味の方が勝った。が、そのまま待っていればまた不意に少女が消えてしまいそうで、怖くなった彼は少女を呼び止めた。
「おい」
「……?」
ほんの1mmほど瞳孔を見開いて、少女は吸血鬼に目をやった。焦点の定まらない、ぎこちない目線。
「……迷子、なのか?」
「……ちがい、ます」
辛うじて聞き取れるほどの掠れた小さな声で、否定された。が、そのあとに言葉は続かなかった。
「……帰る場所は?」
ゆっくりと、スローモーションで首を振る。
「主は、もういません」
「……」
帰る場所は無いのか、と聞いているのに何故か主の話を返されてしまった。眉間に皺を寄せつつ、彼は提案する。
「……暇なら、私の屋敷にでも来るか?」
またもスローモーションで、彼女はゆっくりと首を傾げた。
***
そこだけ切り取れば絵画のワンシーンにでもなりそうな、静寂の中に建つ中世風の荘厳な屋敷。外観はシックな茶色に彩られ、鬱蒼と茂る森の色とうまく調和していた。
彼は屋敷の中に少女を招き入れ、紅茶をもてなすことにした。女中の類は雇っていないため、ティーセットは全て吸血鬼一人で用意する。招き入れたからといって、あの夕暮れの出来事について特に尋ねようと考えたわけではなかった――単純に、少女の神秘さに惹かれていた。
「歩き疲れただろう?ハーブティーだ。ゆっくり飲むといい」
「要りま、せん」
「……なんだ、具合でも悪いのか?」
「いいえ、ちがい、ます。要り……ません」
頑なに拒む少女。無理に押し付けるものでもないと考え、先に折れたのは彼の方だった。
「不快にさせたのならすまない、……悪かった」
「――心配、しないで下さい」
やはりどこか噛み合わない会話だったが、それでも彼女の気遣いは感じ取れた。もしかしたらたまたまハーブティーが苦手だっただけかもしれないとポジティブに考え、深くは追求しなかった。
「せっかく招待したのに、何ももてなせなくてすまな――」
ふと見ると、以前と同じように少女は忽然と姿を消していた。
吸血鬼が慌てて玄関の外に出てみるも庭はおろか、屋敷の中にすら少女の痕跡は残されていなかった。せめて出ていく時くらい声をかけてほしかったと思いながらも、吸血鬼は静かに屋敷へと引き返した。
***
数日後、吸血鬼が森へ散歩に出かけようとすると、再び少女は現れた。なぜか指先が茶色くなっていることを除けば、数日前と全く同じ姿のままだ。
何故姿を消したのか問い質したい気持ちがこみあげてきたが、ひとまずぐっと堪える。
「この前は何ももてなせなくてすまなかった、気を悪くしてしまったのなら謝る」
「……」
無言の少女に対し、もしかして自分と会話すること自体が少女にとって不快なのかもしれないと不安を覚えたその時、彼女の身体がぐらりと傾いだ。
「!? お、おい……!」
バランスをなくした彼女の身体をすかさず受け止めると、予想に反しとても重く感じた。
触れた肌から熱は感じられなかったため、どうやら風邪で倒れたのではないらしい。
「触らないで……だいじょう、ぶ……だから……」
弱弱しい声が彼の耳に入ってくるが、今はそれどころではなかった。風邪でないとすればなぜ倒れたのか。なにか重い病気でも抱えているのだろうか。人間の病気は吸血鬼では治せない――一刻も早く医者に見せてやらないと……
そんなことをぐるぐると考えていると、いつしか彼女からの反応がなくなっていた。
「――おい?起きろ!こんなところで死んだら――」
刹那、いつかと同じように彼の身体を稲妻が走り抜けた。視線が彼女の首筋に引きつけられる。
――彼女は動けないんだ。一口くらい味見したって罰は当たらないだろう。助けた後に一言詫びればいいんだ――
彼の中で、どす黒い感情が膨らんでいた。
誘惑に抗えず、ほんの一口だけならと滑らかな陶器のような肌に牙を突き立て、噛んでみたが、
「――がっ!?」
その牙が彼女の肌を貫くことはなかった。むしろ、牙よりも肌の方が堅かった。彼女の肌は人間と同じそれではなく、本物の陶器のような……人間と遜色ない人肌をしていても、感触が明らかに異なっていた。
彼女は「人間ではなかった」のだ。
愕然とした吸血鬼が慌てふためいていると、彼女の背中を支えている手のあたりにごつごつとした感触を覚えた。さらさらとした髪をかき分けると、彼女の背中に突き刺さった薇が姿を現した。
長い髪に隠れて気付かなかったが、なんだこれは?
もし、本当に彼女が人間でないなにかだとしたら、これを巻くことで息を吹き返すかもしれない。一縷の望みに賭けて、吸血鬼は薇に手をかけた。
一巻き、二巻き、三巻き……数回ほど回したところで、彼女の身体がぶるると小刻みに震えた。ゆっくりと瞳が開くと、介抱していた吸血鬼の顔を捉える。と同時に、唐突に沈黙を破った。
「ごめん、なさい」
「人間じゃ、なかったんだな」
「……種明かしは、必要でしょうか」
「お前は自動自律型人形…オートロイドで、間違いないか」
「……間違い、ありません」
自動自律型人形、通称オートロイド。
人間の小間使いとして開発されたアンドロイドのことを指し、人工知能により人間並みの感情を持ち、人間に従いあらゆる雑務をこなす。
最新型は永久機関によって駆動しているものの、逆に人間に近づけようと造られた初期型は燃料を糧に駆動していたらしい。初期型は基盤に脆弱性が見つかったことから早々に製造中止となったそうだが、真偽のほどは定かではない。
薇で動くのを見る限り、目の前に居る彼女はおそらく初期型なのだろう。人間と見紛うくらいあまりにも精巧に造られていた。疑問は尽きないが、今は彼女が正体を教えてくれただけで心に充足感が広がっていた。しかし、相対する感情も存在していた。
もしも、彼女が本物の人間だったなら、と。
「私が該当するモデルは比較的最初期に造られたもので、永久機関を搭載している現行モデルと違い、一定時間ごとに燃料の補給が要求されます。かつては主の手によって燃料を補給してもらっていましたが、主亡き今は非常用電源の薇を巻くことで駆動しています」
そう説明され、彼は先程薇を巻いた時、妙に滑りが悪かったのを思い出した。
「なあ――経年劣化か知らないがその薇、もしかして錆びてきてるんじゃ……」
彼女は素直に首肯した。
「その通りです。私が博士に造られたのが十年前のことですから、寿命が近づいていることは否めません。そう遠くない未来に、私は完全に活動を停止するでしょう」
「食い止める方法はないのか?」
「……今はストックの燃料も底をついていますし、非常用電源の薇を回して、その場をしのぐことしか……」
「私の昔馴染みに技師が居る。そいつに頼めば……いや、まだ生きているかどうか分からないが……」
「――どうか、私のことはお気遣いなく」
「え?」
「私は……伯爵様に会えただけで、それで十分です。主が亡くなってから、もう誰とも関わることはできないのだと諦めていました。ですから、今こうしてあなたと話せているだけで、本当に幸せなのです。どうか、私の寿命については気になさらないでください。どの道、残りわずかの命ですから」
何も言い返せなかった。
諦めるな、とか月並みのことは簡単に口に出せる。しかしそれは彼女にとって何の慰めにも、気休めにもならない。彼女自身がいつか訪れる終わりを受け入れているのなら尚更だった。
「あの……」
「なんだ?」
もどかしげな素振りを見せる彼女を注視する。
「もし、伯爵様さえよろしければ、その――私を、伯爵様のお傍に置いてはいただけないでしょうか」
出会ってからなかなか意思表明をしてこなかった彼女からの要求。断る理由などあるはずがない。
「丁度良い、私からも頼みたかったんだ。こちらでも可能な限り、お前の寿命を延ばせるよう手を尽くそう。その代わり……いきなり姿を消すのだけは、極力よしてくれないか」
吸血鬼の言葉に、人形は一瞬目を逸らした。
「はい……たまに一人だけで過ごせる時間を下さるなら、それで構いません」
何も知らない吸血鬼は、その返答に満足げに頷いた。
***
「これからは『シロイ』とお呼び下さい。私の型番です」
一度倒れたあの日から、シロイ(製造番号である461をもじった名前らしい)とは意志疎通がスムーズに行えるようになった。これまでのぎこちなさが嘘のように、まるで人間の少女のようにいきいきと、彼女は一日中吸血鬼に話しかける。彼女が寿命の近いオートロイドだと、一体誰が信じられようか。
午後のうららかな日差しの中、吸血鬼とシロイは屋敷のリビングで歓談していた。
「実は昔、伯爵様にお会いしたことが一度だけあるんですよ」
数日前、女の血を吸った日のことが吸血鬼の脳裏を掠めた。しかし「昔」というのなら、そう最近のことではないだろう。
彼はわざと返事をはぐらかした。
「ん?覚えがないが……」
「私が伯爵様とこうして話すようになる以前のことでしたから。その前は私の妹達が何度か伯爵様にお世話になっていて」
吸血鬼は首をひねった。シロイの姉妹だと思われるようなオートロイドと接触したことも無ければ、そもそも彼が関わったのは森に迷いこんだ女性くらいしか居なかった。
見間違いではないだろうか?疑問に思いながらも聞き流した。
「その様子があんまり楽しそうでしたから、私も憧れていたんです。その――伯爵様に『血を吸われる』ことに」
ブフッ――と飲んでいた紅茶を吹き出しそうになりながら、なんとか留まった。シロイの話はまだ続く。
「でも、私はオートロイドですから――伯爵様の望む、人間ではないから。叶いっこありません、よね」
少しだけ俯いた彼女の表情に、胸が苦しくなる。今まで何度も思い描いてきたが、もし本当にシロイが人間だったなら。……しかし、仮に人間だったとして、今まで血を吸った女性のように手荒く扱ってしまわないか不安な部分もあった。
ない物ねだりをしてもろくなことは無いのかもしれない。
「……ごめんなさい、なんだかしんみりしてしまいましたね」
「謝ることはない。お前は何も悪くないんだから」
「――伯爵、さま」
恋をした少女のような瞳でシロイが見つめる。シロイが人間でもオートロイドでも、彼女に対する気持ちは変わらない。
初めは単なる好奇心だったのが、いつしか淡い想いに変わっていたことを、彼自身も自覚していた。
だからこそ、いつか消える命だとしても、最期の瞬間まで彼女の傍にいられるなら、血も生気も、何もいらなかった。
「気晴らしに散歩でも行くか?綺麗な花畑を見つけたんだ」
「良いですね、気になります。是非行きましょう」
***
伯爵が寝た後、彼女は時折、森の中にひっそり佇む小屋に足を運んでいた。
家具にはほこりがたまり、天井の隅には蜘蛛の巣が張り巡らされている。どこかつんと血生臭いような臭いが漂う、誰にも使われず薄気味悪い小屋の中で、彼女はかつての小屋の住人が遺した数々の品に思いを馳せていた。
小屋の壁にびっしりと貼られている、数式の羅列が並んだメモ。誰かが使っていた木製の机。その上に広げられた人体解剖図。小屋に不釣り合いなほど巨大な、カプセル型の装置。
その装置の中には既に駆動していない、物言わぬオートロイドが横たわっていた。そのオートロイドに忌々しげな視線を投げかけながら、彼女はその場を後にした。
***
伯爵とシロイの行きつけの花畑にはいつでも芳しい香りが立ち込めていた。この世の幸せを全て集めた宝石箱のような場所。少なくともそこで寛いでいる間はわずらわしいことはなんでも忘れることが出来た。
嗅覚を持たないシロイにこの花はこんな味がするんだと生気について教える。シロイは不思議がりながらも伯爵の話に耳を傾け、穏やかな時間が過ぎて行った。
だが、そんな穏やかな時間がいつまでも続くはずはなかった。安寧はある日突然、呆気なく崩れ去る。
「さて、そろそろ帰るか」
「――伯爵、さま」
ギシギシと音を立て、シロイがその場にうずくまる。
「薇が切れたのか。巻き直してやるから少し待て」
シロイの薇が止まることにも慣れ、彼女の薇を巻き直す作業もすっかり彼の仕事になっていたが、今日は様子がおかしかった。いくら回しても、彼女の動きが元に戻ることはなかった。
「お、おい――シロイ、シロイ!!まさか……」
「……寿命……、みたいですね」
「そんな、錆びないようにオイルも差して、ようやく燃料の供給元も見つかると思ったのに……シロイ、もう少し耐えるんだ、シロイ!!」
吸血鬼の叫びも空しく、その動きはますます緩慢になっていった。無駄だと頭では解っていながらも、叫ばずにいられなかった。
「伯爵、さま――ごめんなさい、もう、限界……みたい、です」
「シロイ、諦めるな、シロイ!!」
「伯爵さま、最期に…これを……」
彼が叫ぶのも気に留めず、彼女は服のポケットから白い紙を取り出した。
「これは……?」
「遺言、書です。私は伯爵さまに、血も涙も差し上げることは出来ませんが、せめて――」
言葉が途切れがちになり、いよいよ終わりの刻が近づいていた。
「シロイ、シロイ!!」
「私の身体は――暖炉で火に燃して下さい……それから、その遺言を読んで……あそこに、辿り着いて――」
「シロイ!!!」
「伯爵さま、最期に素敵な時間を、ありがとう…ござい……」
それ以上彼女の口から言葉が紡がれることはなかった。事切れて重みが増した彼女の身体を抱えながら、吸血鬼は絶叫した。
***
彼女の死後、望み通りに暖炉でボディを燃やすかどうか激しく苦悩したが、彼女が望むならと、思い切って暖炉にボディをくべた。
火をつけてから時間が経つと、陶器の下から鉄の塊のような物がどろどろと溶けて溢れ出してきた。そのまま炎の勢いが鎮まるまで、彼はボディを燃やしていく炎のゆらめきをただ呆然と見つめていた。
たっぷりと時間をかけてから、暖炉に水をかけた。遺骨などはないのでこの場合、代わりに陶器を土に埋めればいいのだろうか。
陶器を拾い集めていると、どろどろに溶けた鉄の中からどういうわけか溶けていないハート形の銀色の物体が出てきた。
すずの兵隊のようだと思いながらも、これは彼女の形見として持っておくことにした。
渡された遺言を読んでみると、二枚の便箋が入っていた。一枚は手紙、もう一枚は地図だった。手紙の内容はこうだった。
『伯爵様がこの手紙を読んでいる頃には、既に私はこの世に居ないのでしょう。人間でもない、ただのしがない機械人形をお傍に置いてくださったこと、とても嬉しかったです、どうもありがとうございました。率直に言いますと、私はあなたのことが好きでした』
ここまで読んで、涙がぽろぽろと零れてきた。
『私の妹達があなたと戯れるのを見て、何度羨ましいと思ったことか……けれど、私とあの子たちとは違うから、人間ではないから、貴方の期待に沿うことは出来なかった。たとえそういう運命だとしても、身に過ぎた願いだとわかっていても、この気持ちを止めることは出来なかった。だから、血も涙も捧げられない代わりに、用意したものがあります。地図を同封しましたので、探してみてください』
地図を見ると、彼女が用意した物は屋敷からそう遠くない場所にあるらしい。いつも通る道の近くになにか隠せるスペースでもあったのかと考えながら、とりあえずそこに出向くことにした。
彼女と二人で歩いた道を、生前の彼女に思いを馳せながら地図に従って進む。道の途中で生垣を突っ切る形になり、茂みをかき分けて進むと、突然目の前に石の台座が現れた。
台座の中央がハートの形にくり抜かれている。そのハート形に見覚えがあることを思い出し、彼はシロイの胸ポケットに入れていたあのハートの塊を取り出した。台座にはめると隙間なくはまった。
ごごごごという地響きを立てながら、一番高い茂みの壁が動き出す。
がこん、という音とともに地響きが静まると、彼の目の前には鮮やかな紅い薔薇園が広がっていた。伯爵は思わず息を飲んだ。
「これは……!!」
こんな豪華な薔薇園はかつて見たことが無かった。隅々まで手入れが行き渡り、血のようなかぐわしい香りがした。辺りを見渡すと、薔薇園の中央に置かれていたテーブルセットの上に、三枚目の遺言が。
『見つけてくださってありがとうございます。これが私からの最期のプレゼントです。どうかこの薔薇を私の血だと思って吸ってください。願わくば、伯爵様のお口に合いますよう』
彼女の言葉に甘えて、薔薇を一輪摘んだ。甘く切ない香りと共に、薔薇の生気を吸い込む。今まで吸ってきた他の花とは比べものにならないくらい、芳醇な味わいだった。
『最後に――死んでも、私は貴方を愛しています』
薔薇園の真ん中で、彼は一人立ち尽くしていた。
愛しい吸血鬼のために、たった一人の機械人形が育て上げた、世界で最も美しい、紅い薔薇。
薔薇園の主だった彼女に敬服しながら、彼女の横顔を思い浮かべ、また一輪、薔薇を味わった。
「シロイ――私もお前を、愛している」
***
それから程なくして、薔薇の生気のみで生きてきた彼は衰弱しながらもやすらかにその生を閉ざした。
死に際まで彼は一度も人間の血を口にすることはなく、彼の遺体には死後、一輪の薔薇とハート形の鉄の塊が置かれてあったという。