ただ貴女に捧ぐ
――東雲舞が死んだという知らせが届いたのは、彼女が息を引き取ってから、二時間後のことだった。
寒い冬空の下、彼女は独り寂しく雪の中で、右手に星のストラップのついた携帯を大切そうに握りしめて、亡くなっていたらしい。
彼女とこうしてまた会ったのは、確か彼女からのメールで待ち合わせして、最後のデートの約束をした時以来だ。あの時と違うところは、もう彼女が笑ってくれないこと。優しい温もりを持っていた肌は、氷のように冷たくなっていた。
慣れない制服に身を包んだ俺の側に、舞はいなかった。いつだって、それが当たり前だと思う程に、俺と舞は長い間、互いの側にいた。
彼女が隣にいないことに、僅かな寂しさを感じつつも、そのまま時間は過ぎていった。
だが、数日経ったその日に、舞はやって来た。
「陸久君」
俺の名前を呼んだのは舞ではなく、同じクラスの水城カナ。何故か水城は俺を気にかけてくる。弁当を俺の分まで作ってきたり、悩み事はないかと聞いてきたり……
そう、この時からだ。何故か水城が気になって仕方がない。水城が俺を気にかけて笑顔を見せる度に、次第に水城を、自分のものにしたいと思ってしまう俺がいた。
「水城、いや……カナ」
「やっと名前で呼んでくれたね。陸久君」
嬉しそうに顔を綻びるカナ。そんなカナの些細な動きにさえ目が放せない。カナと長く一緒にいたい。
そうやって、俺は俺でなくなっていく――そんな気がした。――いや、もしかしたら、これが本当の俺なのかもしれない。
―――――
最近、舞と話をしていない。まず顔を合わせていない。何かあったのだろうか?
「もう解放してあげて!!」
どこかでカナの声がした。急いでカナの声がした方に体を向けた。
ああ、カナの側にいたい。カナが苦しんでいる。彼女を傷つけるものは……
「なんで……」
どうしてこんな風になってしまったんだ。俺はいつから……
いやそんな事を考えている暇はない。急いでカナの元へ行かなくては!
「カナ!」
彼女を見つけた時、彼女は足から血を流していた。保健室に連れていかなければ。そう思い、カナを横抱きで抱えた。所謂お姫様だっこ、だ。
「ありがとう、陸久君」
ベッドの上で座り、足の血をガーゼで押さえて、カナは俺に笑顔を見せた。その笑顔を見て安心する。
「何があったんだ?」
「なんでもないよ! ちょっと転んだだけ」
強がっているところは、あの時と変わらないな。あの時? あれ……今、俺は誰を思い浮かべた?
――そうだ、舞だ。
確か初めて舞と出合い、言葉を交えたのは、どこにでもあるような岸辺だった。
ぐすん、ぐすんと泣きじゃくる舞を、近くで寝ていた俺は鬱陶しく思い、声をかけた。
「なんでもないの」
強がって涙を拭くが、そういう風には見えない。なんとなく鎌を掛ければ、舞は泣きながら全てを話してくれた。
その日は、舞の両親が持つ権力を目当てに、開らかれた小さなお茶会があったらしい。何も知らない舞が無邪気に出かけ、そこに漂う嫌な空気に耐えきれず逃げ出した。
「……私がいけないんだ」
触れたら溶けて消えてしまいそう、それが俺が舞に抱いた最初の思いだった。その時だった。
「陸久君……あたしね!」
「悪い、水城。用事を思い出した」
カナの声で現実に戻される。
なんで忘れていた、舞のことを。今すぐ、今すぐ舞に会わなければ!! そう思い、俺は水城を置いて保健室を出た。携帯に電源を入れれば、メールが一件。丁度、舞からのものだった。あの岸辺に向かう。そこで舞と待ち合わせを場所。舞は覚えているか? ここで俺達が初めて出会ったということを。
あ……
「……舞」
「どうしたの? 陸久」
久しぶりに見た舞。どこか窶れたその姿に、不安を覚えつつも、俺は今の感情に任せて舞を抱きしめた。
「え?」
舞が驚いている。悪いが、少しこのままでいさせてくれ。ぎゅっと離さないように強く。
「ま、い……好きだ。愛している……愛しているんだ……」
「陸久……」
なんでなんだ? 確かに俺は舞が好きだ。いや、だった、の方が正しいのかもしれない。こうやって抱きしめても、あの時の恥ずかしさも、安心も得られない。逆に熱かった気持ちが冷めていく。その中でただ思うのは、カナのことばかり。
訳も分からず涙を流す俺に、舞は抱きしめられたままでいた。
「!!」
舞が俺の頬に触れた。優しい温もりを持った舞の手。けれど、何も感じない。あの日とは違い、もう舞に何の感情も抱くことはなくなってしまった。
それを見た舞は、悲しそうに目を伏せて言った。
「陸久……別れよう」
その言葉に安心する自分がいた。でも……
「どうして……?」
「だって、陸久は私の事、本当は好きじゃないでしょう?」
「え……」
図星だった。確かに俺はもう舞を、好きではない。舞を思っていた気持ちは、カナに切り替わって、歪に歪んでいる。
それでも、舞を好きでいたい。どこか見透かしたように、舞はくすりと笑った。
「だから最後に……明日の午後一時に、駅前の公園でデートをしよう」
「え?」
「お願い」
「……わかった」
これが本当に最後になるだろうか。舞と最後のデート。それはどこか切なくて悲しい。以前の俺だったら、彼女に何を言えただろうか。
舞との別れに、何も感じない、苦しみさえしない自分に腹が立った。
――――
待ち合わせの時刻に少し遅れた俺を待っていたのは舞ではなく、カナ。
「あ、陸久君」
手を振り、にこりと笑顔を見せるカナ。
「え、カナ? なんで」
そう言いながらも、心の中では嬉しかった。カナが待ってくれた。カナが俺に笑ってくれた。
巡らす思考は、歪に、そんな自分が恐ろしい。
「なんでって、陸久君が待ってるって……」
首を傾げるカナ。その小さな仕草にきゅんときてしまう。
「って、何してんだ俺!?」
カナが手洗いに行ったのを、境に俺は花畑から舞い戻った。違う、違うだろ! 約束していたのは水城ではなく舞。そう、舞なんだ!
急いで電話をかけた。メールもした。何回も。けれど舞からは何も返ってこない。何かあったのだろうか? もしかして、俺達は最後のデートもすることもできずに、別れることになるのかもしれない。
「陸久君、行こ」
「嗚呼」
カナが腕を絡ませる。
―――――
天国のような時間を終え、家に戻った俺が知ったのは、舞の死、だった。
両親と訪れた病院。そこの一室で冷たくなった舞に触れる。
俺は……何ができた? 舞は俺といて幸せだったか? こんなことになるってわかっていたら……
なあ、あの寒い冬空の雪の中で、舞は何を思ったんだ? 最期に誰を思い浮かべた?
それがもし俺だったなら……
赤く点滅する携帯を開けば、メールが一件。差出人は舞だった。メールには、ただ『ごめんね。ありがとう』とだけ。
頬に涙が伝う。
もう一度舞に触れる。この冷たさが温もりに変わることはもうないのだろう。それでも目を覚して、また陸久って、呼んで笑ってくれるんじゃないかと期待していまう。
覚えているだろうか? 初めてあった日のことを。
知っているか? 密かに誓っていたんだ。あの岸辺で、涙を流す舞を見て、必ず俺がを守ってやろうって。
それなのに、俺は何も守れない。逆にお前を失ってしまう。
舞の両親には何も咎められなかった。どうやら舞は、両親にさえ何も伝えていなかったらしい。
「陸久くんには、言ってなかった事があるの」
舞の母親ミキさんが、涙をハンカチで拭いながら、こちらに顔を向けた。ミキさんから飛び出た言葉に、過去の自分を責めたくなる。
「舞ねぇ、病気だったの。きっと、手術をすればあの子は助かったんでしょうね」
「どういうことですか! 助かったならなぜ!」
「舞がそれを望まなかったのよ。あの子、優しいから……」
舞は、ドナーを必要とする人に機会を譲ったという。何故気づかなかったのだろう。その症状の片鱗さえ、彼女は見せなかった。……見せていたのかもしれない。それを俺が気づかなかっただけで。
ミキさんが言うには、二日前くらいから、もう手を加えられないほど悪化していたらしい。
『別れよう』
それを言ったのは、病気だからか? それとも……考えようとして止めた。これ以上自分を責めたって、舞は帰ってこない。
廊下の椅子に座る。また携帯は点滅していた。開いてみてみれば、差出人は水城。
『またデートしようね』
……どういうことか、もう水城に対する熱は冷めてしまっていた。
チカチカと点滅する照明。暗い闇に満たされた廊下で、一人ただ泣いた。舞の携帯を握りしめ。閉じた瞼に映るのは、舞との思い出。
―――
「……好き、なの。私、陸久くんが好き!」
舞と出合い、彼女の病弱さを知り、病院に付き添うことが何度かあった。
そんな日々を繰り返していたら、舞が顔を朱に染めながら、それを言った。恥ずかしそうに、いや恥ずかしいのだろう。俺の顔は見ず、下を向いている。
――ったく、そこに俺はいないだろう。
「陸久くん!」
「悪い。少しこのままでいさせてくれ」
舞を寄せ、抱きしめた。
「俺も、舞が好きだ――! 世界中の誰よりも、お前を愛している」
「うん、知ってる」
そう言えば、安心したように微笑む舞がいた。