前編
夜の小学校の探索は今回で初めてとなる経験だった。
校門を乗り越え、解放されている正面出入り口から校内に入り、一階の警備員室を横切らないよう迂回をして二階へ上がる。ここまでの道筋はとても楽しかった。背徳感から来る興奮とはまさにこのことだと実感した。
ところが、今や僕の中の九割が後悔で占められていた。常識的に考えて、卒業生だからと言っても無断入校していいはずがないし、何よりも教職員がいなくなる時間を選んで忍び込んでいる。空き巣と比べても遜色のない手口だ。
もし宿直の警備員と鉢合わせしたら。
そう考えるだけで、僕は自然と足音を立てないような歩き方になり、視線は周囲を警戒して忙しなく動く。まるで夜逃げしている債務者のような気分だ。腰まで届く髪を靡かせながら隣を歩いている白石優里はそんな僕を不思議そうに見ていた。
「みぃちゃん不審者みたい」
「実際不審者だよ」
「だよねぇ」優里は苦笑した。「傍から見れば痴態を繰り広げるに相応しい場所を探しているカップルか、学校を溜まり場にしている不良ってところかな」
「どっちにしても弁解させてもらえそうにないな」
見つかればお説教か保護者呼び出し、場合によっては警察に補導されることだってありうる。お互い両親に気付かれないよう家を出たから、我が子が保護されていると知れば大騒ぎするに違いない。
警備員にしても警察にしても両親にしても異口同音、どうして忍び込んだのか問いただすだろう。でも、まさかその理由が『妹に頼まれてお化け退治に来ました、あははは』とは絶対に言えない。中学生にもなって、大真面目にそんなこと言ったらいい笑い者だ。
僕はもちろん、妹の楓も幽霊なんて信じていない。楓に頼まれた除霊というのは、学校に幽霊は存在しない、心霊現象なんてもってのほかだと否定する意味での除霊だった。
楓の通う学校に夜な夜な幽霊が現れるという噂は聞いていた。早い話が学校の怪談である。二週間前の《五年二組の花子さん》を中心にして様々な怪談が囁かれ始めたが、今は《徘徊する悪魔》と《家庭科室の人魂》の二つが話題を攫っている。実際、悪魔に限っては目撃例がいくつか――その多くがデマらしいけど――あった。
最初にして唯一、悪魔と人魂の両方を見たという子供達の証言によると、教室で遊んでいたら、いきなり悪魔が侵入してきて追いかけられたのだとか。そして必死に逃げて、校門から校舎を振り返ってみると、家庭科室の窓から普通では考えられない勢いで炎が燃え上がるのを見てしまったらしい。
よほど怖かったのだろう。子供達はその状況以外のことは何も話そうととしなかったようである。
悪魔はお化けじゃないだろうというツッコミはさておいて、僕の感想は『馬鹿馬鹿しい』の一言である。
たしかに僕が小学生の頃にも似たような怪談話があったし、体験したと吐かす奴もいた。けれど、それはどれも目立ちたいがために作られた与太話か、ただの見間違えだった。
目撃した子供達も日頃の素行にかなり問題があったようだし、どうせ出鱈目だろうというのが僕の意見だ。教師陣だってそう思っているはずである。怯えている生徒がいるみたいだけど、死亡者どころか怪我人一人出てはいないし、時間が経てばみんな次第に忘れていくだろう。
僕のこの説得で楓が『お兄ちゃんの言う通りだねっ! ほっとこ!』と納得してくれたらどれだけ有難かったことか。むしろ反抗期を迎えた女子高生のように一層やる気を見せてしまったのだ。
元々楓は美術部という大人しい子が集まりそうな部に所属しているのに、性格は危なっかしいくらい正義感が強い上に一度決めたことは曲げない頑固者だった。
どうせ怖がっている生徒を見捨てておくことが出来なかったのだろう。小学四年生なのになんと立派な心意気か。これで三日前、『やっぱり行くのが怖い。お兄ちゃん助けて』と突然泣きついたりしなければ、僕は楓を自慢の妹として生涯大切にしていたに違いない。
二階と三階を繋ぐ階段の踊り場で僕は立ち止まると、腕時計で時刻を確認した。午後十一時二十分。幽霊は静まりきった校舎を好むみたいなので、存在するならさっさと姿を見せてほしいものだ。
「いっそ亡霊が刀振り回してくれないかな」僕は後ろ髪に指を突っ込んだ。「無駄な時間を費やさないで済むのに」
「ぼやかないの」優里は僕の頭を叩いた。「時間の浪費になるかどうか、それは幽霊の王様次第だと思わない?」
「何それ」
「楓ちゃんから聞いたでしょ」優里は呆れた視線を僕に寄越した。「この学校を支配している幽霊の頂点にて騒ぎの中心。邪魔者はベートーヴェンの霊や少年霊を使役して学校から追い出しちゃうんだって」
僕は鼻で笑った。
「幽霊が幽霊を飼うってこと? 優里、そいつに頼んでお化けを一匹譲ってもらえよ。たしかペット選びで両親と頭を悩ませているんだろ?」
「ちゃんとペットショップで選びますぅ」
「母さんは犬アレルギーだから犬はやめてくれ。飼うなら猫にしようよ。名前は三毛猫のオスだからミケオ」
「嫌」優里はあっさり否定すると、咳払いして話を元に戻した。「とにかく、今からいくつか回るわけだけど、楓ちゃんから見てきてほしい場所って何か聞いてる?」
僕は首を横に振った。「お化けの否定材料があれば何でもいいらしいし、近い順で二、三箇所怪談スポットを見て、それで終わってもいいんじゃないか。僕たちの無事な姿を見せるのが何よりの証拠だ」
「正論だけどちょっと適当だよ」優里は苦笑した。「楓ちゃんも今日のために色々とサポートしてくれたんだし、もっと頑張らなくちゃ」
「それもそうだな」
ここで怠けていたことがわかると、もう一度行って来いと言われるかもしれない。少々、いや極めて面倒だけど真面目にやるべきだ。
「優里はどこ調べたいかリクエストある?」
「五年二組。あれが事の発端みたいだし」
特に意義はなかった。
「ならそうしよう……ん?」
僕は二階の方に目を向けた。何もない。明かりが消えている廊下には、ただ暗闇が広がっているだけだ。
「どうしたの?」
「今ビニールの擦れ合うような音がしたような」
「私には聞こえなかったよ」
「そう?」
気のせいだろうか。
「それより一階から漂っているブランデーとかお肉とか野菜の匂いが問題だよ。私あれだけでもう食欲が……」と優里はお腹を摩りながら白い八重歯を僕に見せた。
「匂いって言われてもね」僕は苦笑した。「僕は優里より嗅覚鋭くないから」
「ええ? これでも今日は調子悪いんだけどなあ」
「ふうん」
もしかしたらお互いにちょっと神経質になっているのかもしれない。
僕は気を取り直して三階にある五年二組を目指した。
夜の学校が登場するシーンはドラマで見たことがあるが、実際目にしてみると周りは想像以上に真っ暗である。非常灯や自動火災警報設備のランプがなければ、目を開いているのか閉じているのか分からないかもしれない。
わずかな光を頼りに五年二組の教室までたどり着くと、僕らは出入口の扉から中を覗いた。
どう見ても普通の教室だ。机も椅子もまるで定規で測ったかのように綺麗に整頓されている。花子さんの影も形もなく、物音一つ聞こえない。
「チョークでも飛ばせよ、なんて思わないでね」と優里は言った。
「思ってないよ。教室にいる花子さんは話に夢中になっているだけらしいし」
「危害は?」
「ない」
《五年二組の花子さん》は今回噂されている怪談話の原点のような存在だが、その内容は夜、五年二組の教室から花子さんの話し声が聞こえるというただそれだけの怪談だった。お喋りの相手は花子さんが死後に知り合った友人らしい。
とは言え、静まりきった校舎に声が響くというのは中々怖いことかもしれない。
僕は扉をゆっくり開けると、ポケットに突っ込んでいた懐中電灯を取り出して明かりを点けた。
特に変わった所はなし、か。
窓から覗いた通りの光景がそのまま広がっている。花子さんはトイレに引き篭っているのかもしれない。もしそうなら僕らがここにいるのは時間の浪費以外の何物でもない。
畜生、眠いな。
僕は欠伸を出したくなった。
いつものライフスタイルに従えば、僕はとっくに睡眠前のホットミルクを飲み終えて、ベッドの温もりに包まれながら寝息を立てている頃である。
「みぃちゃん、欠伸だけはしないでね。うつっちゃうから」
「まだ出してないよ」
「でも眠いって顔に書いてある」
夜目の効く奴め。
よく見れば、優里は明かりもなしに生徒の机を一つずつ懐かしそうに見て回っていた。感慨深くなるにしては若すぎる気もするけど、それだけ優里にとって小学校生活が楽しかったということか。
「あ、なるほど」と僕は手を叩いた。
「どうしたのいきなり」
「少し気になってたんだ。どうして楓に協力したのかって。もしかして誰もいない教室で思い出に浸りたかったとか?」
中々自信のある解答だったけど、優里はかぶりを振った。
「だったら日曜日のお昼にでも入校許可貰って入るよ。残念ながら五十点です」
「半分は当たってるんだ」
「うん」優里は頷いた。「もう半分は楓ちゃんから頼まれたから」
「断っても良かったのに」
幽霊や怪談のようなオカルトを真面目に受け取る義理なんてどこにもないはずである。
「あんな良い子のお願いならどんな事でも二つ返事でオッケーしなきゃ。断ったりしたら罪悪感で食べ物が喉を通らなくなっちゃうよ」
「あっそ」
優里は親指を立てて片目を瞑った。「ちなみに言葉にしていないことでも読み取れるよう努力も惜しんでいません。これが白石クオリティ」
やれやれ。
優里が楓に甘いのは昔からの付き合いだから知っていたが、まさかここまでとは。二人は前世に主従関係でも結んでいたのだろうか。
「みぃちゃんはどうなの?」
「俺か? それは、まあ、喧嘩することはあってもやっぱ兄妹だし……」
僕はだんだん顔が赤くなるのを感じた。優里も体を震わせて吹き出すのを堪えている。これ以上余計なことを口走ったら大笑いされてしまうかもしれない。
「とにかくそういうことだ」僕は強引に話を変えた。「次に行こう。ここには不自然な所が何もないみたいだし」
その途端、優里は呆れたように溜息をついた。
「みぃちゃん寝ぼけちゃ駄目だよ。不自然な点ならあるじゃん」
「どこに」
優里は出入口を指差した。
「教室ってフリーパスだっけ?」
「……あ」
夜の教室には鍵が掛けられている。
そんな当たり前なことを見落とした自分の迂闊さに目眩を起こしそうになった。
どうせ担任が鍵をかけ忘れたのだろうと思い込みそうになったが、考えてみれば宿直の警備員は合鍵を持たされている。二人揃って見落としていたというのは早計である。
扉のあちこちに光を当てて観察してみると、鍵穴の奥に妙なものが詰まっていた。
これは――ガムか?
誰かが悪戯したせいで鍵がかけられなくなったようだ。酷い事をする。鍵が壊れた場合と違って鍵穴は修理に時間がかかるため、悪ふざけにしては少々度が過ぎていた。
僕が渋面を作っていると、優里がスナック菓子の袋を持って近づいて来た。
「これは?」
「机の中の道具箱から見つけたの。他にも漫画やゲーム機もあったよ」
「いい度胸している」
学校での娯楽品や飲食物の持ち込みは禁止されている。見つかれば没収および反省文、さらには保護者召喚に加えて、一週間の校庭掃除が義務付けられる。内容だけならカンニングより重い罰則なのだ。
二人で他の机も調べてみると、なんと四人の生徒の机からお菓子を始め、中身が半分くらいになっている炭酸飲料やトレーディングカードが見つかった。
「すごい量だね」と優里が呆れながら言った。
「全くだ。道具箱なのに肝心の道具が何一つ入っていないのにも驚かされるよ」
「教卓に並べておこうか?」
「それはやり過ぎだろ」
優里は不貞腐れた。「それじゃ罰を受けた他の人が不公平じゃん。反省文書いたことがある身としては見逃したくないよ」
「そう言えば、そんなこともあったな」と僕は言った。「たしか校内のツバメの巣から雛を取ったんだっけ」
優里はその場でしゃがみ、顔を手で覆った。
「私はみんなに可愛い雛を見せびらかしたかっただけなのに……。ただの出来心だったのに……」
「泥棒も出来心で窃盗を働くんだよね」
「私は純粋な心で雛を奪っただけだよぉ」と、優里は顔を上げ、満面の笑みで僕を見つめた。「だから、ね?」
「ね、じゃない。自業自得だ。全部元あった場所に戻しとけ」
「世知辛いなぁ。私が怒られて、こんなにお菓子やジュースを持ち込んでいる子が見逃されるなんて」
「世の中の現実が知れて良かったじゃないか」と僕は慰めるようにそう言って、道具箱へ目を向けた。 「だけど、この量は妙だな」
僕は疑問を抱いた。
これらは道具箱に入れれば隠せないわけではない。しかし、仕舞っているところは誰かに見られるはずである。ましてや周りから気付かれないよう飲み食いするのは不可能に近い。
トイレの個室であればどうだろう。却下。チョコレートや飲み物ならともかく、スナック菓子だと確実に音がする。第一、何度も道具箱から出し入れを繰り返していたら、それだけ見つかるリスクも高くなる。
周りの目を欺く方法。
僕は少し興味を持った。しかし、考える前に、耳に飛び込んだ音が僕の思考を切り替えさせた。
弟子のシンドラーの質問がきっかけで標題が付いたとされる、ある有名な音楽の出だし部分。
交響曲第五番《運命》――その音楽が流れ始めた瞬間、僕と優里は走り出していた。
《流される運命》――それは名前だけなら成り行き任せになりがちな僕の心をざっくりと抉るが、内容は誰もいない音楽室に肖像画から抜け出たベートーヴェンの霊が《運命》を演奏するというありがちなものである。
果たしてベートーヴェンほどの巨匠が日本の小学校のピアノなんかで満足するのかと首を傾げたくなるけど、そんな疑問はひとまず置いておくとして、これで確信したことが一つだけあった。
この幽霊騒ぎにはやはり裏があるということ。二階の音楽室から奏でられている《運命》でそのことがはっきりした。
あそこの音楽室にはベートーヴェンの肖像画なんてない。楓が絵画コンクールで使うという名目で借りていて、今は美術準備室に置かれているのだ。
僕らは音楽室まで直行すると足を止めた。
家のドアをそのまま大きくさせたような扉が左右に開いていたのだ。暗闇のせいで室内がどうなっているのかろくに見えず、床が存在しているのか怪しく感じられる。
中に誰かいるかもしれない。
用心しながら僕から先に音楽室に入った。
「誰かいるのか!」
返事はない。流れている《運命》のせいで声が届いていない可能性がある。もしくはどこかで様子を伺っているのか。
僕は人が隠れていそうな所を隅から隅まで探した。ピアノの下や木のブロックを階段状に積んだステージの裏、教卓も調べてみたが、結局見つからずじまいだった。
と言うことは音楽をかけた後、ここから出たことになる。小学校の階段は一つしかないから、犯人が二階から三階へ上がったならどこかで僕らと鉢合わせをしているはず。
一階か?
僕は音楽室の窓から校庭をしばらく見つめたが、人影らしいものは確認できなかった。
とっくに逃げたか、あるいは。
僕が犯人の予想を立てていると、視界の端で優里が何かを拾っている姿が見えた。
「優里、何か見つけたの?」
「……」
僕はさらに声を大きくした。「優里、何か見つけたの?」
やっと僕の方に顔を向けると、優里は頭の上で丸印を作り、僕に何かを言おうとしていた。聞こえない。読唇術の心得などないのため、鯉のように口をパクパクさせているだけのようにしか見えなかった。
とにかく音楽を止めようと、僕は音源の方へ向かった。
音源は二台の音響スピーカーであった。そこにはケーブルが接続されていて、辿ってみるとラジオに繋がっていた。CDプレーヤーが内蔵されているタイプで、バックライトが点灯している液晶モニターには音楽の再生時間が表示されていた。
電源はこれだな。
僕がそれらしきボタン押すと、ラジオは最後の抵抗のようにかすかに震えた。それが治まると音楽も止まり、しぃん、という静寂があたりを包んだ。音の落差のせいで耳が圧迫される奇妙な感覚を覚えた。まるで山に登っている最中のようだ。
「みぃちゃん、耳が変な感じ」と優里は僕の傍まで来て言った。
「唾でも飲んどけばいいよ。それより何を見つけたんだ?」
「これ」
優里が差し出したのはキャップが嵌められた長細い棒であった。長さは約八センチ。見た目より丈夫そうで、月の光が当たる度に鈍い銀色の光を反射させる。
そのキャップを外すと、本体の先端はさらに細いストローのような口になっていた。中央部にはリングが五つ付けられており、どれもネジのように締めたり緩めたりすることができる。
「へえ」
僕は思わず声を上げた。
「珍しいよねぇ。私、実物初めて見るよ」
「僕もだ」
「これどうしよう」
普通なら先生に渡しているところであるが、職員室に行ったところで誰もいるはずがない。
そもそもどうしてこれが学校に落ちているのか僕にはわからなかった。
「取り敢えずラジオの傍にでも置いておくよ。ワタナベ君が気付いてくれると思うし」
「ワタナベ君?」
「ラジオの側面を見てくれ」
僕は側面に貼られている白いテープを指差した。
そこには子供らしい字で『ワタナベ タクマ』と書いてある
「ラジオの持ち主かな?」
「おそらくね」僕は頷いた。「中々洒落たことをしてくれる。お化けよりずっと怖い」
「この子が騒動の原因になってる幽霊の王様なのかな」
「それはまだわからないけど、たぶん――」
僕は言葉を途中で切った。なぜなら正面の廊下から奇妙な《それ》がこちらに向かって接近していたからだ。
全身を覆い尽くしている真っ黒な毛を億劫そうに揺らしながらも、その瞳は僕たちの不審な動きを見逃さないよう炯炯としているように見える。体長は僕の腰くらいはあるだろう。パニックに陥るのを待っているかのように少しずつ一定の速度で距離を詰めてくる。
どうやら目撃した子供達はホラ吹きではなかったようだ。
「徘徊する悪魔……」
僕の頭から自然とその言葉が飛び出した。
それに呼応するように悪魔は体を震わせ、ビニールが擦れ合うような音を立たせると、僕たち目掛けて突進してきた。
「ちっ!」
僕は咄嗟に優里を力ずくで引き寄せると、悪魔と接触しないようタイミングを見計らって体を捻った。同時に悪魔がジャンプして体当たりを仕掛けてきたが、結果的に悪魔の体は僕の腕に掠っただけでそのまま通り抜けた。
悪魔は僕らを睨みつけた。しかし、すぐにラジオの方へ向き直り、そこに置かれていた銀色のキャップを咥えた。その作業が済むと、僕らに一瞥も寄越すことなく悪魔は音楽室を立ち去った。
僕は追いかけようとしたが。
「うおっ!?」
運悪く足がもつれてしまい、その場で転倒してしまった。顔面による受身。一瞬だけ気が遠くなったものの、床に敷かれたカーペットのおかげで気絶なんて情けないことにはならずに済んだ。
「イタそぉ。今の顔からだったよね?」
「平気だ」
もちろん嘘。鼻血が出ていても不思議じゃないくらいの痛みだった。近くに誰もいなかったら遠慮なく泣いていただろう。
僕は立ち上がるとどこか怪我していないか確かめようとして――見つけた。
「やっぱり痛かったんだ」
「わりと。それよりも見てくれ。面白いものが服の袖に付いてたんだ」
僕はそれを摘まみ上げると優里に見せた。
「これって……」
「たぶん悪魔の毛。さっき触れた時に一部がくっついたんだと思う。でもこれは毛じゃない。黒のビニールテープだ」
「ほほう。つまりあの全身もじゃもじゃな毛はカツラのようなものだと。そうなると悪魔を作り上げた人物がいるはずですけど?」
「それは目星が付いている」そう言うと、僕は指を顎に当てた。「だけどどうして幽霊騒ぎを起こしたのか、その動機がわからないんだよな」
楓は幽霊の存在を否定して事を収めようとしている。だったら、ただ犯人当てをしておしまいと言う訳にはいかない。悪魔をでっち上げた犯人を指差したところで、そいつの動機次第では再び騒ぎを起こす可能性がある。
動機か。
糸は複雑に絡み合ってはいない。一箇所引っ張るだけで綺麗に解けるはずなのに。
何にも閃かねぇ……。
これだからテストで試験終了時間が迫っても――。
時間?
「なるほどね」と僕は言った。
「おっ、今の不敵な表情ちょっとかっこいいかも」
「これからしないように心掛けるよ。それよりも優里に二つ質問がある」と僕は人差し指を立てた。 「一つ目。ここから食べ物が焼ける匂いはするか?」
「ううん」優里はかぶりを振った。「自称犬並みの嗅覚を持つ私が保証するよ。食材の匂いに変化なし。焼いてもいないし、煮てもないよ」
「二つ目」僕は中指を立ててピースを作った。「音楽室の扉に異常はないか」
「ちょっと待ってて」優里は扉を丁寧に観察した。「特に壊れてるってことはないよ」
「わかった」
そう言って頷くと、僕は優里に耳打ちした。
幽霊の王様の前編に目を通していただきありがとうございます。
続きを読んでみるかという読者の方が一人でもいればいいのですが・・・。
後編の投稿は翌日の19時以降を予定しています。