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エピローグ


 結局、瑠璃はアパートにいるとわかっていたけど干渉することもなく、すごすごと家に帰ることにした。

 拒絶と寛容、その二つを纏った彼女に近づけるはずがないのだ。

 冷やかしにきた妹を邪険にしつつ、ベッドに倒れこむ。

 夢を見た。

 夢のなかで瑠璃は高く高く舞い上がり、遠くの空に消えてしまう。

 そういう、夢。


 お昼過ぎの図書館は、暇をもて余した老人たちの寄合所みたいになっていて、大学生が足を踏み入れていい雰囲気ではなかった。

 一晩で読み終えた小説は、真冬の光景を瞼に投影しただけで、これといった感慨が浮かぶことはなかった。感想を言い合う友がいないからだ。

 返却カウンターに本を置いて、その場を立ち去ろうととした時だった。

「あ、君」

 一瞬、びくりとしたが、なんでもない、司書の女性が話しかけてきただけだ。

 振り向いて応える。

「なんでしょうか」

「鳥山修也くんでまちがいないかしら?」

 落ち着いた雰囲気の持ち主で、図書館という空気にぴったりの女性だった。

「そうですけど」

 ハッとした。この老年の女性は瑠璃が話が合うと言っていた司書さんだ。ずいぶん前、実際に話をしているのを見たこともある。

「長壁さんから頼まれたのよ。少し待っててね」

 豊かな笑いシワを刻み、彼女はバックヤードの扉を開けて視界から消えた。残された俺は利用者の邪魔にならないよう横にずれて、彼女の帰りを待つ。

 瑠璃からの、頼み事……なんだろうか。

 返却本をカウンターに置く人たちのいぶかしむ視線をうけながら、気まずく待ちぼうけしていたのも数秒、戻ってきた司書さんは俺に一冊の本を手渡した。

「はい、これ。あなたが来たらあげるように言われてたの。長壁さんによろしくね」

 彼女は目を細め優しく言うと、溜まった本の処理を始めた。なれた手つきで読み取り機でバーコードをスキャンしていく。

 俺は小さく会釈をし、その場を後にした。

 目的を持たない俺はふらふらと誘蛾灯に誘われる羽虫のように彼女がいつも座っていた席に向かった。

 小脇に挟むのは、堀辰雄の『風たちぬ』。

 古本屋の値札シールがついているので、どうやら図書館の蔵書ではないらしい。


 これはプレゼント、ということだろうか。手向けなら俺があげるべきなのに。

 緩んだ涙腺を引き締めつつ、本のページを開く。

 瑠璃。

 瑠璃の顔が、浮かぶ。

 あの夏はもう帰らない。

 同じ夏はもう二度と来ない。


 違和感に気づいたのは、読み進めて十分ほどたった頃だった。最初は瑠璃の前の持ち主のイタズラかと思って気にもしていなかったが、印字された文章には所々赤い丸で囲まれた箇所があり、どうやらそれは意図的にされたイタズラ書きらしい。

『自分の好きな本に落書きする人はいないよ』

 古本屋の階段でいつか瑠璃が言っていた言葉を思い出す。

 俺にくれたくらいだ。まさかこの本が嫌いという訳ではあるまい。瑠璃は俺になにかを伝えたかったんだ。

 俺は苦笑しながら泣いた。

 図書館でくの字になって、声を圧し殺して、女々しいと我ながら思うが、涙を止めることはできなかった。

 作中、病の彼女は主人公にこう告げる。

『私なんだか急に生きたくなったのね』

 いたたまれなくなった俺はダッシュで家に帰り、声をあげてわんわん泣いた。泣いて泣いて泣き叫んだ。

 泣きながら彼女の名前を呼び続けた。

 声が嗄れても、涙が涸れても、俺は女々しく泣き続けた。

 胸を切り裂いた瑠璃という存在感は、俺に多大なる欠損を与えたのだ。

 心臓が、早鐘のようになった、あの短い夏。

 もう秋だけど、彼女とならば夏を過ごせた。

 さようなら。

 ありがとう。

 さようなら。


 赤い丸で囲まれた文字を並べると文章になった。それは長いようで短い、俺に対しての謝罪と感謝。

 メモ帳とシャープペンシルがイタズラ好きの彼女を象っていく。

 ミステリーの暗号が好きだと言っていた瑠璃の華やかな笑顔を思い出す。

 忘れられない。

 なんにせよ、書き込みがされたこの本を、もう二度と手放すことはできないだろう。


『私は幸せでした。きみにあえてほんとによかった。こんなことになってごめんなさい。でもまたあえると思うから、その時までさようなら』


 次に会うときに、俺は絶対に借りっぱなしになっている100円を返して、それからはにかみながら告白するのだ。

 付き合ってカップルになって、友達に紹介して、結婚して、子どもつくって、孫が出来て、共白髪になって、そうしてひっそり死んでいくんだ。そういう人生を瑠璃は歩むんだ。きっと。


 本を閉じ、瞼をとじる。網戸を透過する夏の夜風はあの時同じ香りを俺の部屋に届けてくれる。

 風はいつまでも吹いている。

 彼女はきっと、いまもどこかで、赤い星のように燃え続けているはずだ。




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