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秋には一緒に本を読もう

4


 風に揺られ、葉がさわさわとした音をたてている。

 ママチャリ、タマキ号(わけの分からん名前だ)を駐輪場に停めて、病院の自動ドアを潜る。

 ストーカーみたいだな、と自嘲ぎみに鼻を鳴らして、文学作品は総じてそんなもんだろ、と一人ごちた。

 ロビーの椅子に座り、カウンターで診察券を提示するクランクたちをぼんやりと眺める。

 気まずいままで別れるのが嫌なだけ。

 終わったことをとやかく言うつもりはないが、あの時俺を支配していたのはシンプルな四文字の言葉だった。

 会いたい。

 ただ、瑠璃に会いたい。


 彼女がカウンターで手続きを行ったのは、俺が待ち伏せを開始して、二時間ほどたった頃だった。

 退室の手続き。人の良さそうな中年の女性といっしょに受付で署名をしている。恐らく母親だろう。

 それを見届けてから、立ち上がり駐輪場へ自転車を取りにいく。

 出入り口の前で、自転車のスタンドをたて、荷台に小学生の時愛用していた防災頭巾を巻く。準備万端。これならお尻も痛くないはず。

 高鳴る心臓を落ち着かせるため深呼吸する。昼間の白い月が俺を見守っていた。

 自動ドアが開いた。

「やぁ」

「……修也」

 瑠璃は一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの涼しげな顔つきなった。

 隣の母親は、瑠璃の耳元で「知り合い?」と尋ね、彼女の首肯を認めてから得心がいった表情になった。きっと勘違いしている。しかしながら、その勘違いを有り難く利用させてもらおう。

「お世話になってます。鳥山修也ともうします。娘さんとは仲良くさせていただきました」

「あらあらご丁寧に」

 豊かな微笑みをたたえ、俺のお辞儀に応えてから、

「瑠璃、私こっちの友達とブランチする予定があったのを思い出したわ。七時くらいにあなたの家に向かうから、それまであなたも暇潰ししてなさい」

 気を遣ってくれたのだろう。「瑠璃をよろしくね」と最後にそう言うと足早にその場をあとにした。

 残されたのは俺と瑠璃。

「はあ」

 二人きりになっていきなりため息をつかれた。若干傷つく。

「昨日はっきり言ったでしょ。もう二度と……会いたくないって。何しにきたの?」

 白い肌が太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。袖口から風取り込んだシャツが帆のように膨らんでいる。

 その時の俺に恐れるものはなにもなく、だから臭い台詞をいくらでも吐けた。ただ、このまま瑠璃と別れることだけが、恐怖だったから。

「青春、……したくてさ」

「……青春?」

「そう。青春」

 ギョッとしたまま固まった瑠璃が可笑しくて思わず笑ってしまった。

 あぁ、やっぱり彼女の百面相は面白い。もっとずっと見ていきたい。

「……なにを、言ってるのかさっぱり。抽象的な表現で誤魔化そうとしないでよ。帰ってくれないと、人を呼んでストーカーにするわよ」

 さぁ、説得だ。

 未来がどうしても視ることができないように、これから先俺の言葉で世界はいかようにも変化する。

「だから青春。失われた青春を求めて、だよ。プルーストだっけか?読んだことないけど」

「時、よ。大体、修也、あなた頭おかしいわ。私たちの青春期は数年前に終わったじゃない」

 呆れたように鼻で息を吐きながら彼女は言った。

「もう私のことは放っておいて。もともと赤の他人なんだから、無理に干渉する必要は、」

「精神的に向上心のないものは馬鹿、なんだろ?だったら立ち止まらないで前に進もうぜ」

 言葉尻に被せるように言った台詞は、彼女に息を飲ませるに至った。間髪いれずに俺は次の動作を起こす。

「乗れよ」

 後ろに停めてあった自転車のハンドルを握り、スタンドを蹴る。

 荷台を顎で指し示し、俺は彼女をジッと見つめた。

「まずは二人乗りからだ」


 河川敷を飛ばす。背の高い夏草も、川音も、心地のよい晩夏の香りも、なにもかもおいてけぼりにして、俺たちは世界を駆け抜けた。

 瑠璃の温もりが背中から伝わる。

 渋る態度を見せていたのは最初だけ、折れた彼女は誰よりも乗り気だった。

「修也、もっと飛ばして!」

 ペダルを漕ぐ度、背後の応援団長の声援にも熱がこもっていく。

 彼女は元来はつらつとした少女だから冷たい言葉で人を傷付けるのは得意じゃないのだ。被った仮面は意図していたより簡単に剥がれた。

「これ以上飛ばすと危ないよ。ゆっくり行こうぜ」

 いつものように暴走しがちの彼女を宥める。

 俺の腰に回す手のひらから、幸福感が伝わってくるようだった。

 病人は安静にすべきだろうが、ベッドのわきで腐るより外に出てた方がよっぽど健康的だろ。

「ダメよ、そんなんじゃ」

 瑠璃は呟いた。

「風を感じられないじゃない」

「そう言っても、二人乗りは結構疲れるんだ。申し訳ないけど、このスピードで勘弁してくれ」

「風たちぬ、いざ生きめやも」

「え?」

「ううん、なんでもないの。そうだね、ゆっくり行こう」

 なぜだろう、その時の言葉がすごく印象に残っている。


 今はみる影もないが、公営住宅が建ち並ぶその辺りは、一昔前小高い丘になっていて子供たちの格好の遊び場だった。ご多分にも漏れず、当時小学生の俺たちはそこに段ボールやブルーシートを持ち寄り秘密基地めいた物を作製したのだ。

「たぶんこの辺かな」

 自転車を走らせながら思い出に浸る。背中の瑠璃は楽しそうに俺のガイドに耳を傾けていた。

 たどり着いた先は、粗大ゴミ置き場のすぐ近く。山の上の道路は、斜面からみると防空壕のように抉れていて、いまも残るそこが、俺たちが昔作った第二秘密基地だった。

「第一秘密基地が工事で潰されてさ、ここに移動したんだけど、思ったより住み心地が良かったんだ」

 洞窟にもなれない洞穴で、流行りのカードゲームをしたり、他愛のない話をして盛り上がったが、小学校卒業と共に友達は散り散りになり、やがて秘密基地があったことさえ忘れていった。

 それでも、ここは俺の心の原初風景として焼き付いている。

「すごい!本当に基地みたいね!ドキドキする」

「足元に気を付けて」

 瑠璃に手を貸しながら、中にはいる。懐かしい土の香りがやさしく鼻をくすぐった。薄暗いが、安心感を覚える暗闇。

 敷いてあった段ボールは水でふやけてグチョグチョだったが、持ってきておいた新聞紙を広げてゴザ代わりにし、彼女といっしょに腰をかける。

 お茶とおにぎりを差し出してから、俺は用意しておいた言葉を放つ。

「瑠璃を俺たちのメンバーに加えてやるよ」

「?なにそれ?」

「しきたりだよ。秘密クラブのメンバーは誰かからの推薦がなくっちゃなれないんだ」

 おにぎりを頬張りながら、彼女は照れ臭そうに笑みを浮かべた。

 十年ぶりの新メンバー加入だが、皆もきっと許してくれだろう。

 俺は鞄から盆提灯とろうそくを取りだし、目を丸くしている瑠璃の横で、灯をともした。ぼんやりとした明かりに照らされる。

「酸欠注意な」

「な、なにこれ?」

「なにって、提灯だよ。むかし縁日の手伝いしたらもらったんだ」

「そうじゃなくて、その、えーと」

 もじもじと言いづらそうに指を絡ませる瑠璃を見て、彼女の言わんとする意味を理解した。

「人生に諦めなければならないことってのはどうしてもある。時はけして巻き戻らないし、すべてのものに終わりは必ず訪れる。だからこそ大切なのは、結果だけでなく過程なんだと俺は思う。過ぎたる後悔があるなら、今、取り戻せばいい。失われた青春をもう一度再現すれば、悔いはなくなるだろ?すべてのことに遅すぎることなんてことはないんだから」

 ふよふよと頼りなく揺れる明かりのなかで、確かに流れる時間の渦にいた。

 静けさに包まれた暖かい世界は、まるで断絶されたみたいに、心地よい空間を産み出している。

 青春をしたかった、といつかの公園で瑠璃は漏らした。「二人乗りをして、秘密基地をつくって、お祭りにいく」。人数はいないが、いっしょ泣いたり笑ったりなら俺一人でも十分できる。簡単に実行できるなら、夢を叶えてあげてもいいだろ。

「そ、それじゃあ、もしかして、この提灯ってお祭りのつもり?」

 少しだけ泣きそうに頬を赤らめた彼女は土が剥き出しの壁に言葉を染み込ませた。

「あー、うん。一応調べたんだけど、この辺り今日お祭りは開催されてないんだ。ごめん、こんなんで」

「ううん」

 赤い仄かな光に包まれ、瑠璃は幸福そうに首を降った。

「私、死んでもいいわ」


 別にこれといった特別な話じゃない。

 そのあとはいつもの通り下らない会話で盛り上がったり、読書談義したり、普通の話をして、ろうそくが燃え付き、日が暮れる前に外に出て再び自転車に跨がった。

「私の夢を叶えてくれるだなんて、修也は魔法使いみたいね」

「できることなら何でもするさ」

 夕焼け空は輝いていて、地面は長い影に覆われていた。空気はどこからか流れてきたカレーライスの匂いに染まり、俺たちをノスタルジックな気分にさせる。

「……ほんとはね、転院になったんだ」

 カラカラと回転する車輪に混じり瑠璃はボソリと呟いた。自転車を走らせれば、そのぶん別れが早くなることを頭の片隅で理解していたから、サドルに跨がることなく、ゆっくりと俺たちを歩いていた。

「結局どこで処置しようとおんなじだからさ。それなら昔住んでたところのが、いいんじゃない?って話」

「……もう、手は打てないの?」

「そもそも始めてじゃないんだ。ずいぶん前に子宮がんが見つかって、それは手術できたんだけど、最近の検査で転移してるのがわかって、手遅れで、それなら、もう高い金払って大学いく必要もないから……」

 沈み行く彼女の声は暗闇を伴って切なさを俺に植え付ける。

「それでね、どうやって生きていこうかと考えたとき、一先ず、いままで読んできた本を改めて読み返すことにしてたの。絵本から分厚い小説まで。……そしたら、君に出会った」

「……」

「映画みたいにハッピーエンドを迎えることは出来なかったけど、修也のお陰でビターエンドくらいには出来たかな」

「まだ終わりじゃないだろ」

 夏は、終った。やかましく鳴いていた蝉はもういない。それでも彼女の季節は巡り続けるのだ。

 足元を涼風が吹き抜ける。

 あるのは後悔だけだが、今でも、遠い過去を振り返っても、あの時の景色は幻想的に色づいている。 

「小説なら起承転結の承だよ。まだまだ退屈すぎてあくびがでる段階だ。……瑠璃」

「な、なに?そんな急に改まって」

「一緒に、生きていこう」

 死んでもいいわ、なんて、もう言わせない。そんな古い観念は置き去りにして、これから先は俺の残りの人生を賭けて、瑠璃を見守ると決めたんだ。

「秋には紅葉狩りに行って、冬は炬燵でミカンを食べて、春はお花見して、夏はいっしょに天体観測しようよ。絶対楽しいよ!」

「……ありがとう。ほんとに、……うれしい」

 瑠璃は華やかな顔でお礼を言った。

 予感はあった。彼女の凛とした表情は、揺るぎない強固な意思に塗り固められていると悟ったから。

「だけど、修也に迷惑は、」

「とんでもない!大学は単位バッチリとれてるから心配ないし、俺は瑠璃といっしょにいたいんだ!」

 しばしの沈黙のあと、ややあって瑠璃は静かに口を開いた。

「私は君にこれからの長壁瑠璃を覚えていてほしくないの。元気な私だけを記憶しておいてほしい。お願い修也。ありのままの私を受け止めてくれたあなたなら、わかるでしょ?」

 わかりたくなかった。あの時も、今も彼女にかける言葉はみつからない。


 公園についた。いつのまにか、どちらが誘導したのかわからないが、二人で月を見たあの公園に。

「ねぇ、魔法使いさん。私のもうひとつの願い事、叶えてくれる?」

「なに?」

 ドラマの台詞みたいなことを恥ずかしげもなく口にした瑠璃だったが、違和感を感じることはなかった。

「あのね、私、小さい頃から病弱で学校にあまり行ってなかったんだ。弟は家で一人きりになる私にあわせてくれたんだと思う。ふふっ、『恐るべき子どもたち』みたいだね」

 彼女と出会うきっかけになった本をこの時はまだ読んでいない。

 恐るべき子どもたちは、エリザベートとポールの姉弟が、いつまでも子どもの世界に居続けようとする小説だ。しかし彼らの世界はダルジェロスという少年の登場で一変してしまう。

 俺が、ダルジェロスだったのだろうか。

 草原をさわさわと橙色の風が吹き抜けた。

「それで、まぁ、あの年代の遊びを、私は一個もやったことないわけ」

 夕暮れだった。

 後の月に瑠璃を思い浮かべると、背景はいつも黄昏時だ。空は豊かなグラデーションを奏で、一つとして同じ色はない。目が痛くなるくらい美しい空。

「だから、さ。かくれんぼ、しましょ」

「かくれんぼ?今から?」

「そ。童心にかえってさ」

 やりたくなかった。静かな予感が全身を強張らせる。もう、だめだ。

 戻れることなら、このときに戻って、ただギュッと瑠璃を抱き締めたい。

「目を閉じて」

「……瑠璃、俺は」

「修也……」

 俺は唇を引き結んで、彼女の言う通りにした。脈絡がない、と叫ぶことも許されなかった。

 どんな結果が訪れるか、あの時確かにわかっていたのに、どうしようも無かったのだ。

「数を、百、数えて」

「……」

 掠れた彼女の声に従い心のなかで数え始める。

「もういいよ、って言うまで、そのまま……」

 夜虫が静かに鳴き始めた。風が草木を揺らす音がする。

 目の前に暗闇が広がる。瞼を閉じたからか、夜の帳のせいなのか、それとも、ブラックアウトしかけた意識のせいなのか。

 涙が溢れて止まらなかった。

 夏が、終わる。

 泡沫のように、確かな存在感を濁らせて、俺の世界から、そっと。

 瞼の裏の暗闇は、いろんな思考を巡らせる。

 いま、目を開け、「いかないでくれ」と叫びさえすれば。

 瑠璃。瑠璃、俺は、君を。

 止めどなく流れる涙とともに百秒数え終った俺は、震える声で、

「もう、いいかい?」

 と尋ねた。誰にも知られず、俺の言葉は虚空に消える。

 わかっていた。夜の闇でさえ、俺の言葉は受け入れてくれない。

 静かに、目を開ける。

 公園の芝生が広がるだけで、視界に少女は居なかった。

 最初から存在しなかったかのように、長壁瑠璃は俺の世界から姿を消した。夏の幻のように。

 それから俺は瑠璃と会うことなく、今日まで過ごしてきた。遠くの空に行ってしまった彼女と、町でばったり、なんてうまくはいかないようだ。

 しばらく呆然と、すがるように立ち尽くしていたけど、なにも変わりがないことを悟り、自転車のスタンドを後ろ足で蹴った。

「……君が好きだった」

 言えずにいた言葉は、目の前に彼女が居なくなった瞬間するりと外の空気を震わせた。

 臆病者。

 過去の俺をいまの俺はそう罵る。


 じんわりと歪む街灯の灯りの下のベンチに一冊の本が置いてあることに気がついた。いつか瑠璃と肩を並べたあのベンチだ。

 近寄り拾い上げる。

 恐るべき子どもたち、だった。裏表紙には図書館のバーコードが貼られている。

 掠れた茶色い表紙にムードもなにもあったもんじゃない、俺は詩人じゃないからハッピーエンドの方が好きなんだ。

 一筋の涙さえぬぐうことなく俺は本を開いた。

 中には栞が挟まっていた。落としたことを教えてくれたあの栞。

 その栞に『明日の14時に、この本を返しておいてください。瑠璃』と書かれていた。


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