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夏には星座を眺めつつ

3


「それじゃ、修也さん。ねぇちゃんと仲良くしてやってください」

 最後にそう言って、鏡花くんの運転する車は夕闇に消えていった。とんぼ返り。これから、急ピッチで実家に帰り、瑠璃がいつでも帰ってこれるよう、準備をするのだそうだ。「サービスエリアでの睡眠はなかなか乙ですよ」と笑っていたが、実際かなり辛いだろう。

 鏡花くんがいなくなって、俺と瑠璃は家具しか残っていない殺風景な部屋に二人きりで取り残された。

 正直かなりドキドキしていた。

 女友達の部屋に遊びに行った中学生みたいなテンションで、ずっと心臓が破裂しそうだった。

「今日はありがと。んじゃ、帰っていいよ」

「……あぁ」

「……う、うそうそ、冗談だよ。お礼くらいするさ。ご飯つくってあげる!」

 露骨に落胆し過ぎたのがバレたのか、彼女は顔を真っ赤にして、キッチンに向かった。

「と、言ってもパスタしかないから、あんまり期待しないでねー。あ、お酒飲みたかったら、コンビニで買ってきて」

 いつも通りの笑顔を振り撒いて、彼女は鼻唄混じりに鍋に水をいれ、それを火にかけた。

 瑠璃の手料理。

 あとは彼女がキッチンに立っている間手持ち無沙汰な気分をどうにかできれば、いいのだけど。

「最近お母さんが実家から出てきてさー。それの関係でバタバタしてたの。荷造り手伝ってくれたのはいいんだけど、引っ越し作業の時にはいないんだもん。調子いいよね」

 パセリを刻みながらも瑠璃は声を上げていたが、どうしても会話は長続きしない。

 窓から流れ込んだ夏と秋の狭間の涼風が優雅な夜を彩っていた。光に誘われた茶色い蛾が、パタパタと羽音をたて、網戸に激突を繰り返している。

 なんとなくそれを見ていた俺は、部屋の隅に、ガムテープが止められていない小さな段ボールが残されているのに気がついた。

 もしかして、運び忘れた?

 どうして、俺はあの時、あの箱を開けてしまったんだろうか。禁断の果実に手を伸ばすみたいに。

 ガムテープで蓋をしないと、といういらぬお節介を焼いたわけでもない。

 りーん、りーん、と虫の鳴き声が鼓膜を揺らした。


 箱のなかに入っていたのは、大量の薬袋だった。

 紙の袋には青い印字で聞いたこともない薬名が記されていた。それが、数十並んでいる。一つを手にとって揺すってみた。中身が入っている。最近の日付。

 意味がわからない。

 健康そうに見える彼女が薬を必要とする理由なんて一切ないはずなのに。

「なにしてるの!!」

 混乱の淵に立つ俺を怒鳴り付けて、瑠璃はこちらに走り寄ってきた。パスタは完成したらしい。良い匂いが鼻孔を刺激する。

 瑠璃は乱暴な手つきで段ボールの蓋を閉めた。

「見たの!?勝手に開けて!最低っ!」

 いつもの彼女からは想像がつかない怒鳴り声だった。

「なんで、そういうことするの?修也、君は……」

 瑠璃はボロボロと泣き出していた。滴が茶色い箱に染みていく。

 おいおいちょっとまってくれ、背後で俯瞰するもう一人の自分が、小さな声で呟くのが聞こえた。

 止められなかった。状況はわからなかったが、誰が悪いのは明白だったから。

 なにも言えずに唇を引き結ぶ。

「出ていって!」

 涙と一緒に強い語調で彼女は呆然とする俺に言いつけた。

 瑠璃の怒った顔を見るのは、あれが最初で最後だった。

「帰って!今すぐ!」

「ま、まってくれ!」

 誰にたいしての言い訳なのか、キンと響く室内で叫ぶ。

「こ、これがどうしたのさ?普通のことじゃないか。常備薬くらい誰だって……」

「普通?普通ってなに!?」

 同意を求める俺の胸を、瑠璃は弱々しく叩いた。

 大した力がかかって無いのに尻餅をついてしまう。

「はやく、出ていってよぉ……」

 彼女は鼻と耳を真っ赤にして、段ボールを覆い隠すよう泣き崩れた。

 いつもと同じ夜のはずなのに、いつもより蒸し暑い夜のはずなのに、なんだって今日は冷え冷えしてるんだ。

 そんな的はずれなことを考えていた。

 唸り声はやがてしゃっくりに変わった。俺はパニックの連鎖に捕らわれる自分自身に落ち着くよう言い含めながら、

「説明してくれ……」

 と、小さな声で尋ねた。

 薬?

 あれだけ大量の薬を必要とする病なんて、俺は知らない。

「よくある話よ」

 瑠璃は顔をあげ、憎々しげに瞳を吊り上げた。

「私はガンでもうすぐ死ぬの!」

 言葉が出なかった。

 こんな切羽詰まった表情をする瑠璃を僕は知らない。

 嘘だ、と思った。

 癌?ばかなことを言うなよ。

 喉までせり上がった言葉が、剣幕に押され、吐き出せずにいた。

「使いふるされて手垢のついた設定よ!満足?私の知られたくない内部が知れて」

「違う!俺は……。瑠璃、……本当なのか?」

 そんなまさか。

 つまらない冗談だ。

 まったくもって笑えない。

 まだ二十代前半の彼女がガンになるはずないじゃないか。

「卵巣がんが腹膜播種になって、それでおしまい。ねぇ、もういいでしょ?これ以上なにが知りたいの?人の心を土足で踏みつけて楽しい?もう関わらないで!そのまま帰って!」

「聞いてくれ!俺は、君を傷付ける気なんてなかった!」

 彼女は鼻水と涙でくしゃくしゃになった顔をそのままで、立ち上がると、俺の腕を無理矢理つかんだ。

 卵巣がん。ふくまくはしゅ?

 彼女の細い指が俺の二の腕を包む。本当になんて、弱々しい握力。

「修也なんかに知られたくなかった!」

「ちょっと、まってくれ、瑠璃、俺は……」

 なんだよ、意味わかんねぇよ。

 瑠璃は必死で俺を玄関に押す。

「私は私、もともと関係無いの!知らないわ!なんなのよ!消えて、早く!もうそのまま、二度と、私の前に顔を見せないで!」

 支離滅裂な罵詈雑言を浴びながら、俺は彼女に背中を押され、無理矢理外に追い出された。

「嘘だろ!嘘だっていってくれよ!瑠璃!俺は……」

 戸惑いと裏切られた心持ち。アスファルトの冷たさを感じとる俺を、いつもと変わらぬ星が見下していた。

 見るな!失せろ!消えろ!

 チェーンがかけられる音がした。

「俺は、君を……」

 力無くドアを叩く俺の声は彼女にはもう届かない。

「修也には、元気な私だけを覚えていてほしかった……」

 扉の向こうで彼女が囁くのが聞こえた。

 なんだ、瑠璃は冷静じゃないか。

 そうか、さっきのヒステリックは全部ブラフか。

 都合のいい解釈を繰り返しては、ただただ無力さを噛み締める。

 あぁ、わかってたさ。

 いくら俺でも非力な瑠璃に背中を押されて、追い出されるわけがない。逃げたんだ。煩わしさから。

 もういいや、って思っちゃったんだ。

 だから、彼女に押されるがまま、部屋をあとにしたんだ。

 そのあと、数回小さく彼女の名前を呼んだけど、返事があるはずもなく、あきらめて家に帰った。靴下で帰宅するのは小学生以来のことだが、そんなの気にもならないくらい疲れきっていた。


 あぁ、なんて惨め!

 ベッドに倒れこみ悔しさにうち震える。

「なんなんだよ!」

 イライラをどこにぶつければ良いのかわからなかった。

 それこそ安っぽいドラマみたいに神さまを憎めば、事態は好転するのか?

 もし箱を開けさえしなければ、俺は彼女とのことを、終わり行く夏の美しい思い出として、胸に抱くことができたのに。

 枕に埋めていた顔をあげる。

「好き勝手、言いやがって……」

 ふつふつと怒りがわいてきた。

 別れを告げられ、頭の芯が熱くなっていた。

 拳を固めて枕を殴り付ける。

 いまも昔もストレスの発散方法は変わらない。

 拳を一振りする度に、瑠璃と過ごした思い出が、蘇ってくる。

 もし、転んだ彼女に手を差しのべなければ。

 もし、本を読む彼女に話しかけなけれ。

 もし、彼女といっしょに過ごさなければ。

 こんな虚しさを抱えることもなかったのに。

 怒りはいつしか冷め、泣けばいいのか叫べばいいのかさえわからず、臼ぼんやりとした感情の奔流で小さく息をついた。

 瑠璃も瑠璃だ。大量の薬が見られたくらいで……、

「……そうだ。いつもの彼女なら飄々と、かわすはずなんだ。なのに……」

 なのに、なんで瑠璃のタガは外れてしまったんだ。

 瑠璃は蝕む病のことを知られたくなかった、と言った。元気な私だけを覚えていてほしい、と。

「これは俺がただ望んでいる答えか?」

 思えば、あやふやな関係の主導権は常に瑠璃が握ってきた。

 古本屋に行ったのも、小学校に行ったのも、引っ越しの手伝いですら、彼女の提案。 

 本棚の一冊に目をやる。

 『潮騒』。

 荒海に飛び込むくらいの男気が無くちゃ、恋をしてはいけないのだ。

 俺は、いかに受動的な存在だっただろう。

 ベッドの上に立ち上がる。中学生以来の行動だったが、見晴らしが良くなった部屋の景色は冷や水のように、俺を冷静にさせた。

 決意とプランをまとめ、妹に自転車の鍵を借りることにする。


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