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春には桜の雨を浴び


2


 瑠璃にレポートを見てもらおうと一日の講義が終わればすぐに図書館に向かう毎日を過ごした。

 しかし、なかなか彼女には会えず、がっかりしながら図書館をあとにする日々が続いた。

 次に再会したのは本を読み終えてから一週間後のことだった。とっくに提出してしまったレポートだったが、カバンには常に余計に印刷しておいた分が入っており、瑠璃に会う準備は万端だったのだ。

 彼女は返却カウンターに座る老年の女性と楽しそうに会話をしていた。話の合う司書さんがいる、と言っていたから、あの女性がそうなのだろう。

 俺は瑠璃と司書さんの話が終わるのを待ってから、話しかけた。

 四限終わりだったから、既に夕焼け空が広がっていて、夜の帳が段々と辺りを暗くしていた。

 夕方は混むらしい。図書館はどこも満席で、仕方がなく、本棚の間の誰も来ないようなスペースでボソボソと語り合った。

 

「いいね。すごくいい。私が潮騒を読んだのはずいぶん昔だけだ、内容をまざまざと思い出すことができたよ。うん、二人の恋愛描写が秀逸なんだよなぁー」

 口角をあげ、俺の拙い文章を読み終えた彼女は言った。

「修也、文章うまいね。小説家になれば?」

「てきとうなこと言うなよ」

「私は冗談は言わないよ」

「嘘つけ」

 二人で笑い声を押し殺した。

 打ち解けるのに時間はかからなかった。ついこないだまで赤の他人だったのが嘘みたいだった。

 今でもあれほど心を許すのに時間がかからなかった人は、瑠璃以外にはいない。

「……最近図書館に居なかったのはなんで?」

 だからこの質問するのも簡単だと勘違いしてしまったんだ。

 昔の俺は今以上に空気が読めなかった。話がそっちに行かないよう注意している彼女の雰囲気を感じながらも、気のせいと断じてしまったバカな俺、……死んでしまえ。

 瑠璃は若干、答えるのを渋っていたようだが、いつもと変わらぬ表情で口を開いた。

「……近くの公園で本を読んでたの。借りたのが凄く長い小説でね。わざわざ図書館で読む必要ないなって」

「公園?この辺りに公園なんてあったっけ」

「あるよー。とちの木公園」

「ふぅん。そっか」

 地元民である以上、俺の方が絶対的に辺りの地理に詳しいはずだ。首を捻る俺に不服そうに瑠璃は唇を尖らせた。

「疑ってるなー?」

「いや、そういうわけじゃないけど。とちの木公園?聞いたことない」

「証拠みせたる」


 鼻息荒く宣言され、いつかと同じように彼女の後を着いていくと、芝生の広い公園に着いた。歩いて15分程だ。

 こんなところがあるなんて知らなかった。もしかしたら小学生の時、友達と草滑りした公園はここかもしれないが、底に沈んだ記憶なので確かではない。

「ここに座って本読んでたの」

 赤いベンチに腰かけて彼女は俺を見上げた。暖かな風が夜虫の鳴き声と一緒にさわさわと通り抜ける。

 気恥ずかしさを感じながら隣に腰かけた。臼暗闇でよかった。赤くなった顔を見られずにすんだから。

「朝から日が沈むまでずっと本を読んでたの。最近は日が沈むの早くなってきたからあんまり長い時間はいられないんだけどね」

 蚊に食われるんじゃないの、という疑問は別の質問に塗りつぶされた。

「あれ?大学は」

 この間は、俺より一つ年上で、近くの大学に通っていると言っていたはずだ。

「んー。中退。いーろいーろあってさぁー、あはは」

 乾いた笑いが夜に響く。

「……もうすぐ地元に強制送還であります」

「地元どこだっけ?」

 知っていた。この間聞いたばかりだもの。

 彼女は数百キロ離れた土地を平然と言い、

「向こうに着いたらリンゴおくってやるぜぃ」

 とおどけて見せた。

 遠い。あまりにも遠すぎる。

 大学生になっても、手出し出来ない距離だ。

「いつ帰るの?」

「さぁ。たぶんあと一ヶ月もこっちにいないと思う。色々と手続きがあって」

「そうか」

「そうなのさぁあーあー」

 間延びした言葉はやがてため息に変わっていった。

「……もっとこっちにいたかったな」

 耳についた瑠璃の言葉は、未だに言いしえない不安を駆り立てる。


 ベンチに座りまた会話を楽しんだ。 彼女の読んできた小説、俺がはまったゲーム、なんの話をしたかはあまり覚えていない。思い出なんてそんなもんだろ。

「今夜は満月だねー」

 そんな中でも、彼女と交わしたこの下らない会話だけは印象に残っている。

「月が綺麗ですね」

 言ってから、ハッとした。真ん丸お月様にあてられて酔ったテンションになっていたんだ。

 瑠璃はニヤニヤしながら俺をからかった。

「なにそれ告白?」

「ち、ちがうよ。ふと思い出しただけで」

 知っていたのか、と恥ずかしくなった。

 高校の時の現代文で、先生がしてくれた小噺。

 原典は不明だが、夏目漱石が英語教師をしていた時、「I LOVE YOU」を「我君ヲ愛ス」と訳した生徒に「日本人なら「月が綺麗ですね」と言いなさい」と教えたそうなのだ。愛より情を重んじた当時はそれで通じる、と。

「素敵だよね。夏目漱石。あの人の作品のなら『こころ』と『坊っちゃん』が好きだな」

「こころは高校のとき第三章だけやったなぁ、先生の手紙の部分」

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ、って?」

「そうそう、それそれ」

「うーん、それを考えると、やっぱり私は二葉亭四迷の方がストレートで好きかな。言わなきゃ伝わらない想いってのはあるもの。特に目まぐるしく変わる世の中じゃさ」

「二葉亭四迷?くたばってしまえの人?突然なんで」

 文学界に身を置こうとする彼に、父親は反対し、「お前なんかくたばってしまえ」と激昂したのを「それではそのように名乗ります」と切り返したのが、彼のペンネームの始まりらしい。

「そっち?普通「浮雲」の言文一致体の先駆者とか、「平凡」とかそんなんじゃない?」

 呆れたように瑠璃は笑った。俺はわざとらしく肩をすくめる、

「それでくたばってしまえさんがどうしたの?」

「うん。二葉亭四迷はね、翻訳でツルゲーネスの「片恋」の中でさ。ロシア語「I LOVE YOU」を「死んでもいいわ!」って訳したんだって」

「死んでもいいわ、ね」

「愛っていうのは、人生をかけて言うべき言葉なんだよ」

 俺は月を覆い隠そうとする雲に向かって「なるほど」と呟いた。


 日々空は高くなっていく。

 アブラゼミの大合唱はメンバーの大量脱退で、いまやまばらに聞こえるだけである。代わりにひぐらしの声が目立つようになった。

 金木犀さえ香ればあれはもう秋だったと思う。

 待ち合わせでもないのに図書館で会うのが日課になっていた。彼女はいつも決まった席に腰かけ、分厚いハードカバーを広げていた。そんな少女の後ろから、俺は決まってこう話しかけるのだ。

「何読んでるの?」

 彼女はタイトルを口にする。知らない作家の全集が多かったが、俺はてきとうな相づちをして、隣に座り、瑠璃に進められた小説を広げるのだ。

 それから18時の閉館まで、一緒に本を読んだり、ボソボソと会話を楽しんだりした。


 休館日の木曜のことだった。

 殺人的太陽光から避難する足早なサラリーマンに混じって、駅の改札をぬけると、柱の横で見知った顔を見つけた。

「やぁ、遅かったねぇ」

「瑠璃?どうしたの?」

「待ってたの」

「え?」

 一瞬どきりとする。彼女は俺の心を擽るのがうまいのだ。冷気を帯びた風が喧騒をぬぐい去るように構内を吹き抜けた。

「出会ったばかりの君にこんなこと言うのも恐縮なんだけどさ」

 彼女はいつもの飄々とした様子ではなく、緊張しきった少女の顔で続けた。

「小学校に行こ」

 不可解な頼みだったが、やることもない大学生は彼女の願いを聞き届けることにした。


「小さい頃、けっこー病弱であんまり学校にいけなかったんだよねぇ。その反動があってか、小学生時代ってのはあんまし記憶がなくてさぁ。急に惜しくなったの」

 名簿に記帳し、首から来賓のプレートを下げれば準備は完了。寄れるのは職員室と、校庭くらいしかないけど、まぁ、それだけでも充分だろう。

 瑠璃と俺は校庭の隅っこで体育座りをし、小学生の球蹴り合いをぼんやりと眺めた。

「なんだかなぁ」

「いきなりどうした?」

 甲高い声をあげ、ブレイに熱中する児童を見ながら瑠璃はボソリと呟いた。

「もし10年前に戻れるとしたら、なにしたい?」

 11歳。夢と希望に溢れ、現実を知らなかった俺。馬鹿なことしていた記憶しかない。

「なんだろ。とりあえず勉強するかな」

「今からでも遅くないじゃん」

 けらけらと彼女は笑った。

 遠くの空は紫に染まり、絵筆では表せない彩りが夕空のキャンパスに描かれていた。

 虫の声と蛙の声。俺たちが卒業製作で作った裏庭の池は健在みたいだ。

「私はねー、青春をするんだ」

「青春?」

「うん。甘酸っぱーい青春。秘密基地つくったり、自転車で二人乗りしたり、あとは、そうだな、お祭り行って、苦しくて、泣き出しそうになったときも、みんなで笑いあうの」

「今からでも遅くないじゃん」

 彼女と同じ調子で返す。校庭には子供たちの声とカラスの鳴き声が、折り重なるようにして響いていた。

「……えー、ほんとにぃ?」

「ほんとだよ。何事をなすのに遅すぎることなんてない、って偉い人が言ってた気がする」

「うーん。だけど廃線になった線路を死体探して歩けるほど、もう若くないからなぁ」

 笑い声をあげて、彼女は西の空を指差した。

 ポツポツと暗闇に浮かぶ星ぼし。ひときわ明るい宵の明星。

「いちばーんぼーしみーつけた」

 瑠璃は子供っぽい調子でそう歌うと、「よっと」と勢いをつけて立ち上がった。一転神妙な顔つきになって、こちらを振り返る。

「よだかの星、って知ってる?」

「なにそれ。惑星の名前?」

 俺も立ち上がり、間接を伸ばす。パキパキと空気が弾ける音がした。

「ううん。宮沢賢二の小説。小学生の時に読んでさ。独特の世界観なんだけど、『よだかの星』は叙述的で凄く引き込まれたの」

 その小説は、宮沢賢二の死後見つかった中期の作品だという。

 彼女はざっとあらすじを教えてくれた。

 夜鷹は醜い鳥で、蜂鳥や川蝉といった美しい鳥と兄弟だった。ある時、鷹から、醜いお前が俺の名前を使うな、明日までに改名しなければ殺す、と脅され、遠くの空に行くことを決意する。太陽に『この身が燃え尽きてもあなたの側にいたい』とお願いするが、『夜の鳥のお前を側にやることはできない。星たちに頼みなさい』とさとされる。夜になって、星たちにお願いするが、みんなに断られ、孤独な夜鷹は虫を食べて生き続けるくらいなら、と高く舞い上がり、やがて念願の星になる。その星は今も燃え続けている、という話。

「あまりにも夜鷹が救われないじゃない」

 彼女は震える声で呟く。夜独特の蒸し暑さが、夕暮れだというのにもうすでに立ち込めていた。暗闇のベールに段々と校舎は隠されかなり遅めの学校見学は終わりを迎えようとしていた。

「子供の頃はこの作品が嫌いだった。皆に蔑ろにされる夜鷹がかわいそうで」

 サッカーボールを夢中で追いかけていた少年たちは、片付けを始め、別れの挨拶を口々にしている。日暮れと共に、子供の時間は終わる。

「だけどね、最近、読み返して、前より好きになったの」

 チャイムが鳴った。

「夜鷹は納得したんだ、って思って。虫を食べて生きるより、星になることを選んだんだって。燃えて輝く美しい星に」

 かける言葉が見つからなかった。彼女の声は凛としていたけど、涙を落とす気配がしたから。


 土曜日だった。

「引っ越しの手伝いに来て」とお願いされ、彼女が暮らしてきたアパートに行った。

 くすんだ青いアパートは、学生のために造られた建物なのだという。瑠璃は二年半過ごしたそこを、二日後退去する予定になっていた。つまり、彼女とまともに過ごせるのは残り二日というわけだ。だからどうしたと言う訳じゃないが、と当時の俺はぶっきらぼうに自分の心を誤魔化していた。

 中退ってのは、なかなかめんどくさいと彼女はよくこぼしていた。

 先に生活に支障がない程度の荷物を実家に送り、残りは明後日業者に頼むのだそうだ。

「二人きりだと思った?甘いねぇー」

「うるさいな」

 彼女の弟、鏡花くんも手伝いに来てくれていて、三人で下に停めてあるワンボックスに荷物を詰め込む。

 部屋中に鎮座する段ボールの中身は殆ど本で、ずっしりとして重かった。出会ったばかりの俺に引っ越しの準備を手伝わせるなんて彼女はなかなか鬼である。だけどそれはある種の信頼のかたちに思えて、なんとなく嬉しかった。

 彼女の生活してきた部屋は二階の隅で荷運びはなかなか骨が折れた。

「修也さんはねぇちゃんのカレシですか?」

 と質問してくる鏡花くんになんて答えていいのか、わからなかった。

 友達、とも違うし、もちろん恋人でもない。俺と瑠璃の関係はあやふやだった。

 鏡花くんは現在大学一年生でわざわざ車で荷物を引き取りに来たのだそうだ。ずいぶんと姉思いのいい弟である。ここから瑠璃の実家は車で十時間もかかる。

「ねぇちゃんから聞いてます?」

 瑠璃が一人で下に降りているとき、俺と二人きりになった鏡花くんはどことなく声を潜めて訊いてきた。

「なにを?」

「……」

 いま思えば、彼は本当にお姉ちゃん思いの良い弟だった。ややあってから彼は俺の耳元で囁いた。

「ねぇちゃん中学の時、カレシに無理矢理ヤらされそうになって、それ以来男性恐怖症なんすよ」

「はぁ?」

「いや、だから襲われそうになったんです。近くにあった目覚まし時計で殴り付けたから未遂に終わったんすけど、それ以来男が信じられんのだそうです。いやぁー、あいつ絶対処女スよ」

「……あー」

 若干反省。彼女の見た目に惹かれていたのは確かだ。

 彼はにやにやと瑠璃に似た不敵な笑みを浮かべていたが、

「うっさい」

「イテっ」

 いつの間にか後ろに立っていた瑠璃に頭を叩かれた。

「あんまり調子のってると小学生の時引きこもりだったことばらすよ!」

「もうばらしてるし!つぅかあれは引きこもりじゃないから!」

 なんにせよ、愉快な姉弟だった。


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