冬は炬燵で雪見酒
破綻や無学には目を瞑っていただきとうございます。
1
眠れない夜、もう何度読んだかわからない小説のページを開く。
秋の空と夏の終わりが甦る。過去を振り返れば、いつでも彼女がそこにいた。
あぁ、風はいまでも吹いているのに、胸を締め付けるこの感傷はなんなのだろう。もっとなにか出来たはずだと。
懺悔の代わりに昔話をしようと思う。ただの自己満足で、つまらない話だが、誰かに聞いてもらえれば、贖罪にはなるかもしれない。
秋学期に履修した文学史が、美しき隘路の始まりだ。名作を読み主張をまとめるというレポートが課されていた。レポート課題というと聞こえは良いが、要は読書感想文である。
乗り気はしなかったが、単位を落とすわけにもいかずぶらりと寄った市立図書館で俺は瑠璃と出会ったのだ。
思い返しても、本当に不真面目な学生だったと思う。
適当な本を数冊棚から抜き出して、椅子に座ってパラ読みしていた。とくにこれといったタイトルなんて思い付かなかった。数学が苦手だから文系に進んだだけで、俺にとって太宰や芥川なんて、ただの昔の人なのだ。
見たこともない漢字や古典仮名遣いに辟易しながら、何度溜め息をついたかわからない。
頭に内容が入ってこなかった。やはり俺には無理だったのだ。本を元あった場所に戻そうと、立ち上がった時だった。
「栞、落ちたよ」
凛とした声。
自身に向けられたものだと気づき、ちらりと後ろを見てみると、水色のワンピースを着た少女が分厚い本を抱えて立っていた。
白い肌に桜色をした唇、人によっては野暮ったいと感じる長い黒髪で、好みの顔立ちをしていた。いまでもまざまざと思い起こすことができる。
とはいえ、当時の俺は、……いまもだが、全く女性慣れしておらず、たどたどしく礼を言うのが限界だった。床に落ちた栞とやらを前屈みになって拾いあげ、適当なページを開いて挟み込む。
前に読んだ人が、使っていたのだろう。栞なんて途中でリタイアした者には必要のないものだ。
「恐るべき子どもたち?」
ボソリと少女が口を開いた。
最初は意味がわからなかったが、直ぐにさっきまで開いていた本のことだと気がついた。
「あ、ああ」
ジャン・コクトーとかいうフランスの詩人が書いた小説だ。講義で取り扱ったことがあり、わざわざ探して来たのだけど三ページほどでダウンしてしまった。
「ねえ、面白かった?」
こういうとき読書家はウェッジに富んだ返しをするのだろうが、俺には無理な話だった。ただ適当にへらへら笑い、高鳴る心臓を抑えながら足早にその場を去る。物語の始まりを眺めるだけの脇役には、対応の仕方がわからなかったのだ。
検索窓に『人間失格』スペース『感想』と入力しさえすれば、時間を無駄に過ごさずにすむし、なにより気楽でいい。あとは数多のレビューを電子の海から広い集め、オリジナルにしたてあげるだけ。自分の文じゃないからどのような評価を受けようと、俺の心が痛むことはない。
太宰治を選んだ理由は、玉川上水で入水したから。若者は死というものに好奇心が擽られるものなのである。
そんなことを考えながら、手ぶらで外に出た。
途端に鼓膜が蝉時雨に支配される。
クーラーで冷えた体温は日差しを浴び、急上昇を開始していた。
ああ、あの夏は本当に暑かった。暦の上では秋なのに残暑は容赦なく町に陽炎を昇らせる。
噴き出す汗をそのままに、家に帰ったらさっそくパソコンを立ち上げよう、そんなことを考えながら歩き始めた時、
ガシャン、と耳障りな落下音がした。
振り向くと、先程の少女が力無く地面に横たわっている。
ただ事じゃない、と判断した俺は直ぐに駆け寄り「大丈夫ですか」と声をかけた。倒れた人がいれば助けるほどのモラルを持ち合わせていたのが、俺の最大の不幸だったのかもしれない。
「あーうん、平気。立ちくらみしちゃってさー」
声を受け、少女は額に右手をあてゆっくりと顔をあげた。
「さっきの栞のおにーさんじゃん」
一定の声量が保たれた舌の揺らぎに、大事は無さそうだと判断して、気だるそうに地面に座る少女に手をさしのべた。
少しだけ照れくさそうにそれを受けとると(もちろん俺だって恥ずかしいが、いつまでも女の子を地べたに座らせておくわけにもいかない)、彼女は立ち上がった。
「ありがとう」というお礼を聞きながら、鞄から飛び出したアクリル製の筆箱に文庫本、それらを手に取り、少女に差し出す。
「人間失格?」
感想を書こうと考えていたタイトルだった。
偶然の一致に呟いてしまったのも、間抜け以外の他ものでもない。
僕の呟きを受けて、
「読むのは三回目なんだけどさ。やっぱり私は苦手だな」
ニコリと微笑んでから、彼女は本を受け取った。
「ありがと。それじゃ」
二回目のお礼を言うと、彼女は歩き始めた。
なぜだろう。気づけば「まって」と彼女を呼び止めていた。
少女は怪訝そうに振り向く。
「あ、えーと」
肩まで伸びた黒髪が夏の風にあおられ、艶やかに舞っていた。
「感想を聞かせてくれないか?」
レポートを書くのに意見が必要、という大義名分を説明し、どうにか少女を首肯させることができた。
背負ったリュックサックから、メモ帳をとりだし身構える。
日陰から眺める晩夏はどこまでも澄みきっていて、視界の中心の少女は青空をバックににこやかに口を開く。
「初めて読んだときは、予想外のオンパレードでさー。でも、なにかしら共感できる部位があって、胸が痛む描写と、やっぱり文章は美しい。作者の経験だと思うと、物語に深みが増す気がするね。前半は正直つまらないけど後半部と読了後の余韻は最高級だよ」
生活に順応できず破綻していく主人公を太宰自身の経験を元に手記という形式で綴られた小説だ。この時は読んだことがないから、せいぜい『好きだった漫画家が、表紙を書き下ろしてたなぁ』くらいの感覚だったと思う。
何を言ってるのかわからなかったが、彼女の舌の滑りには驚嘆した。
「あぁ、ありがと。参考になったよ」
「どういたしまして」
にこやかにお礼を交わしあい、今度こそ俺たちは別れた。
再会は思ったよりも早かった。二日後、三限終わりに覗いた図書館で、ソファー席に腰掛け彼女は本を読んでいた。
世の中には画になる光景もいうのが存在する。知識の泉と言うべき蔵書の森で、分厚いハードカバーを広げる少女は、完成された絵画のように、俺の心を揺さぶった。もし手元にカメラがあったら、ためらうこと無くシャッターをきっていただろう。無趣味でよかった。
図書館は昼間といえど、なかなかの盛況ぶりで、近くの病院の入院患者や放課後の暇潰しにはもってこいの環境のようだった。かくいう俺も受験の時は、外のテーブル席でカリカリと勉学に励んだものだ。
子供たちには『静粛』という文字が読めないらしい。騒がしい館内でも、彼女はひたむきに活字に目を落としていた。
しばらく待って、パタリと本を閉じたところで、俺は、よせばいいのに、彼女に話しかけた。
ただのナンパだ。件の出会いと数日の時間が与えられ、落ち着きと無謀さを纏った俺は、スターを得たマリオのように無敵の存在だったのだ。
「この間はどうも」
正確な言葉は覚えてないが、たぶんこのようなことを言ったと思う。
棚に本を戻そうとしていた少女はちらりとこちらに目をやると、チェシャ猫のようににんまりと笑みを浮かべた。
「どうだった?いいレポート書けた?」
覚えてくれていたのか、という喜びを表情に出さぬよう俺は応えた。
「いや、結局手をつけてなくて。オチを知ってるとあんまり読む気しなくてさ。人間失格はやめようかな、って思ってる」
「ふうん。……だったらさ、私のオススメを読んでみてよ」
「え?それは、ありがたいけど」
会話の流れがわからず、戸惑う俺をそのままに、彼女は楽しそうに手を叩いた。
「ねえ、このあと暇?」
暇だった。課題はあるが、可愛い女子の誘いより優先されることは男子大学生にはないのだ。
図書館から外に出て、移動。街路樹は青々とした葉を空に向けて伸ばしている。
「どこに行くのか」という俺の疑問に少女は「秘密」と答えた。
吸血鬼じゃなくても煙になりそうな太陽光に、焼けたアスファルトからジリジリ昇る熱。いやが上にも汗が滴ってくる。
仄かに上気した頬を横目で見ながら、改めて彼女を観察する余裕が出来たのはこの時だった気がする。
少女は著しく小さかった。身長は160もないだろう、小柄で痩せぎみ。
驚いたのは彼女の年齢だった。俺より一歳年上だったのだ。童顔にもほどがある。
「私の名前は長壁瑠璃。長い壁と書いて『おさかべ』。瑠璃って呼んでね」
「瑠璃色の瑠璃?」
「ええ、ラピスラズリの瑠璃。この名前けっこう気に入ってるんだ。それで?君の名前は?」
最初はどもってばかりだった彼女の名前も、今ではすらりと口にすることができる。瑠璃という洗練された輝きは彼女の達観した爛漫さにぴったりだった。
「鳥山、修也」
「素敵な名前ね、修也」
「そんなこと始めて言われたよ」
「凄く綺麗。秋の夜に終わらない夜。美しい日本語」
「いや、漢字は修める也、で」
「ううん。響きを言ってるの。音だけなら想像できる余地があるじゃん。あなたにぴったりだね」
名前を誉められたのは初めてだった。
着いたのは古本屋だった。小さい頃よく利用した、漫画がシュリンク掛けされていない貴重な本屋だ。自動ドアを潜るとおじいさん店員に「いらっしゃい」と声をかけられた。
カウンターの前を通り抜け、瑠璃は足早に二階に上がる。この古本屋は一階は漫画、二階が一般書籍と明確に分けられているのだ。 やけに足音が響く階段を上り、着いた先は本の魔境。BGMは一昔前の邦楽で、今の状況にはあっていなかった。
「どんなの読みたい?」
「うーん、文学史に名前が乗ってる人のなら、なんでも」
どことなく嬉しそうに髪をかきあげ、茶色い背表紙が並んだ棚の前で彼女は立ち止まった。
「ドラえもんは好き?藤子F」
「うん。好きだよ」
「そんじゃ海野十三とかどうかな。うーん、星新一なんかもいいかも」
「その人はどういうジャンルなの?」
「星新一はショートショートっていう短編の連続ね。海野十三はSF、あとミステリーってところかしら」
「ふぅん。ミステリー好きなんだ」
「ええ、暗号とかドキドキするじゃない!」
凄く楽しそうだった。
彼女からオススメされた本は三つ。
ホジソン・バーネットの「小公女」。
三島由紀夫の「潮騒」。
谷崎潤一郎の「春琴抄」。
ジャンルに纏まりがなかったが、小説を読みなれていない俺のため、それほどの長編は一つもなかった。
「そのなかなら、潮騒にするよ」
新潮から出ている文庫を手に取り、ページを捲ってみる。古書特有の香りが微風とともに鼻を擽った。
「うん。いいよね。潮騒」
頷きながら瑠璃はニコニコと笑った。
潮騒を選んだ理由は簡単。高校の授業で、三島由紀夫は市ヶ谷の駐屯地で自決したと習ったからだ。
誰もいない店内で色んなことを話した。学校のこと、友達のこと、感動した映画や、アルバイト先でのこと。
万引き防止の目線シールだけが俺たちを見ていた。
彼女は地元の人ではないらしい。独り暮らしをしながら、近くの大学に通っているのだそうだ。
「でも図書館でも本は借りられるのに、なんだって古本屋に来たんだ?」
店に入った時から感じていた疑問を口に出したのは、彼女が「そろそろ行こうか」と階段を下り始めた時だった。
こちらを見上げ瑠璃は平然とした様子で答えた。
「良い本は手元に置いとくべきなのよ。それに図書館の本って落書きされてることあるじゃない?ミステリー小説を読んでるときに、犯人の名前が書いてあったときは憤慨しちゃった」
「それは古本屋でも同じだろ。前に誰かが買って読んだ本なんだから」
「自分の好きな書籍に落書きする人はいないよ。書き込みした本は手放しちゃいけないんだから」
なんというか、甘い考え方だと思う。
マークした本だろうがなんだろうが、お構いなしに売る人はゴマンといるし、それは図書館に限った話じゃない。
首を捻りながら、ポケットから財布を取り出した俺を彼女は制した。
「いいよ。私が出す」
「え?いや、俺のレポートの小説だし、100円くらい」
「オススメした本がつまらなかったら、私の責任でしょ?だからひとまず私が買って、払う価値があったと思えたら、お金返してよ」
思わず吹き出してしまった。なんてドライな考え方だろう。
オレンジ色の空をアキアカネが風に逆らい飛んでいた。永遠に続くかと思われた夏は密かに死んでいこうとしている。
日の入りまであとわずかといった時間帯だった。
「今度会ったときに感想聞かせてね。つまらなかったでもいい、途中でやめててもかまわない」
「ああ、わかった。頑張って読んで、レポート書き上げるよ」
彼女はいつもあの図書館にいるのだと言う。
だからレポートを書き上げたら、いの一番に瑠璃に見せよう。
ちんけな恋愛感情にも満たない想いが、身体全体を駆け巡った。
家に帰ってから、『潮騒』のページを開いた。ズルをしない読書感想文なんて初めてだ。
あのときから結構な数の本を読んできたが、いまも潮騒の、ページを捲るあの感覚が、親指について離れない。
とはいえ、スピードは酷く遅い。それでも暇を見つけては読み進めた。大学に向かう電車の中、講義中、夜寝る前。そうしてこうして、三日ほどで読了することができた。
レポートなんざ一日で書き終わった。ネットで調べた著者の情報とちょっとした考察、舞台背景や人間ドラマをまとめ、A4サイズのレポートを四枚書き終えるのに、二時間もかからなかった。言いたいことや書きたいことが溢れて止まらなかった。美しい歌島の風景や時代の心理、すべてがすべて、映画を見ているようにダイレクトに脳に伝わってきたのだから。




