終業式/夏の日のラブレター
7月29日
夏の暑い日。
校舎の屋上。
『屋上であなたを待っています』
終業式で、教室を掃除していると、僕の机には、いつの間にかそんな手紙が机の裏に入っていた。
古風だな、と思いつつ、名前が入っていないところを見ると、そういう匿名で手紙を書くのもありなんだなと感じてしまう。
本当なら生徒が入れないところに、僕はやってきた。
誰もいなかった。
フェンスの向こうから聞こえてくるのは、プールで部活動をする水泳部の掛け声と水しぶきの音。
そして、野球部の掛け声。
多分、ああいう人種の人間が一番モテるのだろう。
僕は、そんな大層な人間ではないし、普通極まりない人間だから、正直こうやって舞いあがって屋上までホイホイ来てしまっている。
失敗だ。
屋上は照り返しが凄まじく、正直上履きを履いていても熱にやられそうな、そんな今日は夏真っ盛りの最中に、僕は誰かもしれない人間に呼び出されて、ぽつんと立っている。
誰も来やしない。
――ああ、だまされたんだな。
夏の暑さに頭をやられながら、ようやく自分のバカさ加減に気付いた。
心なしか、クスクスと笑われているような声がどこからともなく聞こえてくる。
もちろん幻聴だし、夏の暑さで頭がおかしくなったのだろう。
見上げれば、それだけで焼け死んでしまうそうなほど、今日の暑さは危険だ。
帰ろう。
滝のようにあふれる汗をぬぐいつつ、僕はろれつの回らない頭でそう考えて再び『立ち入り禁止』の張り紙が貼られた屋上の扉を開こうとした。
扉が開いて、天井ができて、ひんやりとした影に包まれる。
あ、やばい。
意識が遠のいていくのをはっきりと感じる。
脚に力が入らない。
ああ……倒れて―――
「清水君!?」
気がつけば、僕は看護室のベッドに横たわっていた。
頭には袋一杯に詰め込まれた氷水。
ぼやけた視界で周囲を見渡せば、人が二人立っていて、そのうち目の焦点が合ってきてそれが看護教諭と生徒の一人だってわかった。
心配そうな顔をしている。
うちわで扇いでくれながら、今にも泣きそうな顔をしている、綺麗な女の子だった。
同じクラスの……今季隣の席にいた―――
「……小坂……さん?」
「バカ……なんで屋上になんて来たのよ……」
「……ごめん……なさい」
―――なんで、泣きそうになっているんだろう。
今にも死にそうな顔でもしていたのだろうか、僕は。
あり得る、結構ひょろひょろしているからな僕。その上ぼんやりしてるし、トロくさいし、勉強もできないし。
彼女から見れば、危なっかしいのだろう。今季隣にいてそれを嫌というほど感じたのかもしれない。嫌気がさしていたのかもしれない。
申し訳ないな……。
こんな夏、早く終わればいいのに。
「清水君。なんで屋上なんて行ったの?危ないじゃない、落ちる危険性もあるし、今日みたいに熱中症で死ぬ危険性もあるのよ」
「……すいません……気を……つけます」
「……。はぁ、今回は小坂さんの事もあるし、見逃してあげるけど」
――彼女が?
「以後気をつけるように、いいわね」
「---はぁ……すいません」
看護教諭は僕のベッドから離れ、カーテンが閉められた。
残ったのは、小坂さんと、真っ赤に茹であがった僕の二人だけ。
ハタハタと小坂さんは俯いたまま、時折肩を少しすくませつつ、無言で僕を扇いでくれている。
冷たい風だ。
カラリ……
時折融けた氷水が音を立て他の氷をこすり合わせる音が静かに響き、遠くで夏の甲子園目指して頑張る野球部部員の掛け声が聞こえる。
彼らはこんな炎天下の中頑張っているのに、僕は暑さにやられて寝ているだけ。
情けないな。
情けない。
こんなだらしない姿を彼女に見られるなんて、本当に僕は―――
「……もう……いいよ。ありがとう」
僕はそう言ってシーツを剥ぎ身体を起こそうとした。
だけど飛んできたのは甲高い怒声だった。
「いいから寝てて!」
カラン……
あまりに驚いて反応ができなくて、頭に張り付いていた氷水が手元に落ちる。
彼女、こんな大きな声を出せるんだ。
一学期は虫のような小さな声だと思っていたのに。
少し意外だなと思った。
それだけでしぼんでいた心が少しだけ、膨らんで、熱を帯びていくようだった。
ああ……なんとなくわかる。
僕は、彼女が好きなんだ。
なら、なんで、僕はあの屋上にいたんだろうか。
なんで―――
「……小坂さん……ありがとう」
答えは出なくて、ただベッドに横になるままに、僕は隣に座る彼女にかすれた声でそう呟くしかなかった。
彼女は何も言わなかった。
ただうちわで僕を仰いだまま、無言のまま小さく首を横に振るだけだった。
頭にまたつけた氷水が冷たかった。
ひんやりとして、意識がまどろみに沈んでいった。
「……清水……くん」
彼女の声が、少しだけ耳元に近付いてきた。
ふと少し荒い息遣いが、目を閉じた僕の口元に近付いてきて――
「……あれ」
気がつけば、もう夕方。
相変わらず野球部の部員の掛け声は窓越しに聞こえてくるけど、窓から零れる街の景色の色はうっすらと鮮やかな茜に染まりつつあった。
体の火照りは消えていた。
頭に着けていた氷水は、もう半分水になって、氷同士が全部くっついていた。
見上げる天井は茜色で、夕暮れの色を呈していて、僕は少し痛む体を起こして周囲を見渡した。
そこには小坂さんはいなかった。
あるのは、僕の鞄と上履きだけ。
後、彼女が扇いでくれた小さなうちわ。
―――帰ってしまったのだろうか。
仕方ない。彼女は何の関係もない僕の為に、あそこまで扇いでいてくれたんだ。
それだけいいじゃないか。
それだけで嬉しいじゃないか。
自分に強くそう言い聞かせ、僕は、胸の奥に去来する僅かな寂しさを押しこめるように、俯き胸をかきむしった。
帰ろう。
そう思って、僕は身体をベッドから這い出し、床に足を下した。
そして上履きを履きながらおもむろにポケットに手を突っ込む――
――ない。
ないっ。
あのラブレターがない、どこかにやったわけじゃないのに、もらってからずっとポケットに突っ込んだままだったはずなのに。
どこだ。
どこにやった、僕はあわててポケットというポケットを引っ張りだし探したが、どこにもない。
「……なんで」
と言っているうちにがらりと看護室の扉が開く音が聞こえて、僕はあわててカーテンを開けてベッドから飛び出した。
そこには看護教諭が立っていて、焦る僕を驚いた表情で見つめている。
この人なら――
「あの……あの――」
「あら、小坂さん?さっきなんか慌てて出て行ったわよ」
僕が言い淀んでいるうちに、教諭は戸惑いを顔に浮かべながらすらすらと話し出す。
「なんか急いで、紙屑を握ってたけど」
――それだっ。
僕は無言で小さく礼をすると、教諭の隣をすり抜けはじき出されるように看護室を飛び出し、彼女を追いかけ廊下をひた走った。
一年二組、僕の教室。
誰もいない。机といすが並ぶばかりだ。
彼女がいつもいた図書館。
いない。どこを探しても本棚の間を探しても、彼女の姿はどこにもない。
どこに……
「紙屑……」
――捨てる。
連想ゲームの果てに出てきた目的地はごみ箱か、焼却場。
正直この校舎に何十とあるごみ箱を探すわけにはいかず、自然と僕の足はふらつきながら焼却場へと向かっていた。
そしてグラウンドの隅の焼却場が見えてきて――
「……」
――人影があった。
とてもよく知る、僕の好きな同級生がそこにいた。
「はぁ……はぁ、小坂さん……」
「し、清水君!?」
驚いたような甲高い声。
彼女は何かを握り締めたまま焼却炉の前に立っていて、僕が来るなりサッとその何かを後ろに隠した。
「それ……僕の……だよね」
多分、それは正解だろう。
彼女は俯いたまま、小さく首を横に振っては少しだけ後ずさってしまう。
なぜ、隠そうとするのだろう。
なぜ、捨てようとするのだろう。
彼女には関係ないじゃないか。
どうして……
「小坂……さん」
「あのね……その……ごめんなさい」
「え……?」
「私……全然知らなくて……先に来たんだけど熱くてたまらなくて逃げ出して……しばらくしてまた来たら……」
えっと……。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……つまり……僕を屋上に呼び出したのは……小坂さん?」
「――え?」
「……名前、書いてない」
「……えええええ!?」
小さな顔を真っ赤にして、驚いた表情で慌てて彼女は手に持ったくしゃくしゃのラブレターを開いて中身を覗きこんだ。
こういうおっちょこちょいな所は本当にかわいい。
僕の好きだなって思うところだった。
――ああ……そうか。
確かに彼女だ。
彼女だって予感があったから、僕はあんな熱い場所まで赴き、あの熱いさなか、ずっと待つことができた。
「でも……清水君……どうして、名前もない人からの手紙なんて……」
「……いつも、小坂さん。僕にノートを貸してくれていたよね」
「ふぇ……?」
「宿題を教えてくれる時、自分のノートを見せてくれるよね。いつも頼りっぱなしだった。隣の君に僕は親切にされっぱなしだった」
「清水君……」
「筆跡というか、字の形……そっくりだった。もしかしたら、君が来るかもしれないって、思って」
舌が自然に言葉を発する。
言いたいことを全部言おう。
どの道明日になったら、席替えになってもう彼女とは一緒になれないかもしれない。
彼女に、会えないかもしれない。
「だから、待てた。君が来てくれるんだったら僕……何時間でも待てたから……その」
だから、言おう。
今ここで――振られたっていい、僕は――
「僕は……小坂さん、僕は君のことが好きだっ」
「――--」
小坂さんは泣いていた。
小さなメガネを少し外してはらはらとこぼれる涙を何度も拭いながら、俯き加減に丸めた背中をヒクヒクと痙攣させていた。
そしてその場に蹲って膝を丸めてしまう。
「こ、小坂さん……」
慌てて僕は、彼女の下に走り寄る。
だけど、背中を丸めてうずくまる彼女にどうすることもできず、ただ背中を軽くさすってやることぐらいしかできなかった。
ああこの感覚。
多分彼女が僕をうちわで扇いでくれていた時と、同じだ。
同じだと思う――彼女もこんな気持ちで、僕のことを扇いでいたんだ。
少しだけ心がホッとした。
できることは少ないけれど、すすり泣く声がやむまで、僕はずっと蹲る彼女の背中をさすり続けていた。
「……清水くん」
夜も近い夕方。
夕暮れの黄昏を前に、僕は彼女と共に家路に就く。
「なんで……私を好きになったの?」
「ん……言葉にできない」
「……」
「敢えて言うなら……一緒にいて、いやじゃなかった」
「……」
「ずっと一緒にいたいと思った。……それだけ」
薄闇の中、華奢な彼女の腕を引っ張りながら、繋いだ彼女の手はとても小さくて、少しだけ汗ばんでいて、とても熱かった。
離したくなかった。
ギュッ……
強く握れば、優しく握り返してくれる感触。
それだけで僕は彼女のことを何倍も好きになれた。
「……私もね……いやじゃなかった」
「ん」
「ずっと傍にいて、何でもあなたに話せて。そのたびにあなた笑ってくれて、とても……嬉しかった」
「うん」
「口下手なのに、一生懸命私の話を聞いてくれて……話をするたびにそのたびに笑ってくれて……嬉しかった」
「うん……」
「……大好き……」
「僕も。小坂さんが好きだっ」
「……」
小さな手が僕の手を強く握る感触。
僕はその手を強く握り返す。
――少しだけ、彼女の体温が上がった。
それだけで、嬉しかった。
「明日から、夏休みだね」
「――勉強、どうする?」
「どうしようか?」
「……あの……清水君」
「ん?」
「一緒の大学……いかない?」
「もちろん」
「明日……いつもの図書館にいるね」
「午前十時。二階のフロアの机の隅」
「うんっ。待ってる」
「終わったらどうする?」
「……アイス。食べに行こう、一緒に」
「うん、わかった」
夕闇はとてもきれいで、見下ろす町並みはやがてポツポツと夜の明かりが灯り始め、夜空も一番星を筆頭に小さなライトを灯し始めるところだった。
そんな夕闇の街を見下ろしながら、僕らは長い坂道を下りていく。
一緒に。
どこまでも。
一日一ショート(ヽ´ω`)もう死にそう……