表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

アイスルカタチ

作者: 川崎真人

 アクセスありがとうございます。

 携帯電話というものを所有し始めたのは、十日ほどまえのことになりますか。

 根っからの堅物の父親になどは「そんな通俗なものを」と、嫌味な表情をされたものです。とは言えこの携帯電話は恋人の御厨みくりやに買い与えられたもの。メール画面における文字の入力方式をマスターするのに要した手間と苦労のことを考えれば、尚更手放せるものではありません。

 高校生にもなって携帯電話を所持していないことについて、クラスメイトからたびたびお嬢と呆れられてきた私ですが、これならもうそのような辱めを受けることもなくなるでしょう。恋人とのお付き合いなどを始めて見せ、待ち合わせ場所の公園で彼とのエレクトニックメールに興じるなどと、なかなかに若者らしく健全ではありませんこと。

 「~♪」

 ずっと小さい頃に自作した『自分自身のテーマ曲』をのんびりと鼻歌にしながら、両足をぶらぶらと揺らします。

 未だに入力の仕方にはなれず、煩わしさを感じてしまいます。でもそれでも楽しくやり取りができるのは、お互い馴れ合って久しい人物が相手だからなのでしょう。

 待ち合わせ時刻を少し過ぎ、陰気さを増してきた灰色の空を見上げた、その時でした。

 「木原さん。探したよ」

 公園の入り口から、無邪気に高いその声が私の耳朶を震わせます。落ち着かずそちらを確認しますと、良く見知った愛らしい姿が真っ黒な高級車から出てきたところでした。

 どたどたとこちらに駆け込んで来た人物は、私のクラスメイトでありました。その肉付きの良い体付きからすれば、はちきれそうなお洋服をまとい、ぜいぜいと息を切らしてベンチの前で静止します。「えへへ」とちょっと黄色っぽい歯を見せて笑い、私の方に親しみのこもった視線を向けました。

 「神崎くん」

 彼は私の幼馴染に当たる人物でした。私のお家はちょっとした資産家。祖父から受けついた事業を父が引き継いだのですが、人の良い父は兼営にはあまり向いていなかった。頻繁に行き詰りそうになる父の事業を、親友であり同じく実業家の神埼くんの父は、直接的に間接的に助けてきたということです。そういう縁あって、神崎くんとは小さい頃から顔を合わせる機会が多かったのでした。

 会社も兼営の危機に立たされている父に対して、神崎くんのところはお家の規模から大違い。メイドさんって実は都市伝説じゃなかったことを、彼を通じて実感したものです。

 「立派な車で来られましたね。羨ましいですわ。私の父ははっきり言って甲斐性なしですので、社長の癖に中古車を乗り回してられますのよ」

 「あんなのならうちに一杯あるよ。何なら僕の権限でいくつか君にあげたって良い」

 「そういう訳にはいきませんよ。父が目を回してしまいますわ。ところで、私を探してらしたということですが?」

 私が首を横に倒しますと、神崎くんはにやにやとポケットの中に手を入れました。はて。何をされるのかとドキドキしておりますと、無骨でどこか毒々しい印象のある金属が、私の首筋に押し当てられて、驚いた瞬間にはばちばちという電撃のショックが、私の全身にとどろいたのでした。


 目を覚ました私が真っ先に恐怖したものは、中世の拷問室を思わせるような鉄筋剥き出し部屋の様子ではなく、私の四肢を壁に張り付けにする硬い鉄枷の存在でもなく、私の全身を覆い尽くし押しつぶしてしまうかのような、淀み濁った陰湿な空気でした。

 化け物の胎内にいるかのような、生温く不快な温度と湿度。不気味な静寂の中で、私は気が狂いそうな気分になって、鉄枷をがしがしと震わせて暴れます。

 どこにも窓が見当たらない、ただっ広いコンクリ剥き出しの湿った空間。拷問室のような無機質な部屋に、私は兄に見せられたとある猟奇映画を思い出します。見目麗しき一人の女性が、ある中年の男に地下室に監禁されて、いじめ殺されてしまうという内容です。私は心底恐怖しました。

 ぎっちりと私の両手足にはまった鉄枷は、簡単に取れてはくれそうにない。わたしの四肢を拘束し、このおぞましい拷問室に繋ぎ止めようとします。私が暴れれば暴れる程、鉄枷は血が止まりそうに手足を締め付けました。泣き叫び暴れ、全身の力を使い切って狂いそうにうな垂れた時間は、何時間だったのか何日間だったのか。永遠に続くかのような長い長い恐怖は、さらにおぞましい恐怖の到来によって終わりを告げました。

 「木原さん……木原狭霧さん……。入るよ」

 それはずっと昔から聞きなれた、温厚そうな幼馴染の声色。肉塊のように肥満したその全身は、普段であれば愛嬌を思わせ私に安心感を与えてくれるものでした。しかし今は違う。重たそうな扉を押し開けて入って来た神崎光は、その手に小型のチェーンソーのような器具を抱えていたのですから。

 「木原さん……。えへへ……狭霧さんって呼んで良いよね? ごめん、待たせちゃったよね。色々まだの準備もあってさ……。ごめん、ごめん。本当にごめん」

 「ここはどこですか!」

 私はそう絶叫しました。既に声は枯れ、全身の力は底を尽き、精一杯の恫喝は擦れたように響き渡りました。

 「ごめん、ごめんよ。いきなり浚ったりして、驚いたよね。……驚かないはずないよね。だけど安心して。無理だと思うんだけど、安心していて欲しいから」

 神埼はそれでも驚いたように、卑屈な表情でつぶやくようにそう口にします。

 「……ここはどこですか?」

 「僕んちの地下室。その鉄枷は、僕の権限で用意させたんだ。……えへへ。すごいだろ?」

 笑窪を作って笑う彼の表情は活き活きと輝いていて、私はなんだかぞっとするものを感じました。

 「どうしてこんなことを?」

 しかし神埼は、それから少し照れたような顔をして、まごつくように下を向きます。それからしばしチェーンソーに指を這わせたかと思ったら、途端に真剣な顔になって私の方を向き直って、こう言いました。

 「君が欲しかった」

 かすれたようなその声は、普段なら愛らしく受けとめるべきものだったのかもしれない。しかし今の私には、彼の言葉の響きは墨汁のように飲み込みがたく、猛毒のようにおぞましいものだったのです。

 「……ふざけないで」

 「ふざけてなんかいない。僕は真剣だ」

 「私を解放しなさい」

 「嫌だ。だって君は今、僕のことをきっと嫌っている」

 そう口にして、それから自分で悲しくなってしまったかのように、神崎くんはうつむきます。

 「……ごめんよ。ちょっとの間、我慢してくれれば良いから」

 そう言った神崎のあどけないはずの表情は、狡猾を極めた蛇のように感じられました。その卑下たような神崎の表情からは、彼の私に対するたっぷりの奸悪な思いが伝わって来ます。そのおぞましさは、毛虫を百匹呑まされる例えであっても表しきれるものではない……頭の中を真っ白にした私の体に、汗をかいた神崎が唐突に覆いかぶさりました。

 「い……いやだぁ……」

 湿っぽい彼の体温が私の全身に伝わって、幼く輝く彼の瞳は悪魔のようで。私は泣き出しそうに目を逸らします。神崎は嬉しそうに声を弾ませて「えへへ」私の顎を大きな手で掴み上げ、自分の方に向かせました。

 見開かれた大きな子供のような眼球。

 漏れ出しそうな唾液が糸を引く口内。

 荒く漏れ出す鼻息は、なんだか肉食獣のよう。

 「君はしばらく僕のだよ。……えへへ。なんだか照れるね。だけど、うん。やっぱり素敵、なのかな。あははは、もう好きにできるんだ。あははは」

 照れ笑いを浮かべる彼の顔に、私は全身が凍り付いて。血の気が引いて。とにかくこのおぞましい顔を、私の傍から遠ざけたくて、私は無我夢中でなんとか動かせる頭を振るいました。

 神崎の無防備な鼻先に私のおでこがぶち当たり、彼はそのまま地下室の床に転げてしまいました。取り離したチェーンソーが床を舞い、神崎はおたおたとそれを拾い上げます。ひぃ、ひぃと弱々しい息を吐いて、信じられないものを見るような目でこちらを覗き込みました。

 「へぇ。へえぇ。そうなんだ、やっぱりそうなんだ……」

 そうなんだ。そうなんだ。荒い息遣いで神崎はそう何度もつぶやきます。私はとにかく逃げ出したくてたまりませんでした。この鉄枷から解放される為ならば、この両手足を切り落としてもかまわないくらい。

 どうして私は、神崎を刺激してしまったの? 私は自分に問いかけます。彼は武器を持っている。痛い思いをさせるなんて、一番しちゃいけないことなのに。がたがたと震える私の頬に、チェーンソーの刃が突きつけられました。

 「……あぅっ……」

 深く食い込んだ刃は私の頬を切り裂いて、肉の隙間に冷たい鉄の感触が訪れました。溢れ出す血液が頬を伝い、首筋に至って服を湿らせます。痛みなんかよりも、体を一つも動かすことのできないこの状況で、体を自由に傷付けられる恐怖感が全身を蝕みました。

 「えふふっ」

 神崎が僅かに目を輝かせ、痛がる私を観察します。その笑みが、私を傷付けて喜ぶその笑みが、さらに悪化してしまった状況を物語っていて、私は頭がおかしくなりそうでした。胸の奥からこみ上げてくるものは、不思議な笑いと嘔吐感。

 大丈夫。チェーンソーは回転していない。神崎は手加減をしているはず。私を傷付けるようなつもりは、本来彼にはないはずだ。私はとりあえずそう自分に言い聞かせておいて、神崎のそのあどけない表情に向き直ります。

 私は絶句しました。

 良く気を失わなかったものです。その裂けるような神崎の笑みに。人形を壊すことを決意した子供の無邪気さに。

 「やめてっ……」

 「だぁめ」

 笑いながら、神埼はチェーンソーのスイッチを入れました。

 がりがりと回転しぐしゃぐしゃと音を立て、自分の頬の肉が吹き飛ばされていくその感覚。視覚的にも痛覚的にも、私はそれを奇妙なまでに鮮明に理解することができました。幼稚な悲鳴など一瞬で枯れ果てて、私はただただ声も出さずに喘ぎます。

 「あはははははっ」

 チェーンソーの躍動がやんで、神崎はただただ哄笑しました。小型とは言えそれは回転する鉄の塊、私の頬肉はそれは大幅に刈り取られ、ずきずきとした激痛に心が折れそうになりました。目の前には刃を抱えた無邪気で残忍な悪鬼。身も心も打ち振るえ全身は弛緩し、神崎の次の言葉に私は自然に頷いていました。

 「もう僕に痛いことはしないよね」

 それはもう何度も。念入りに、彼がしっかり理解してくれるよう、泣きながら何度も頷きました。神崎は満足そうに柔和に微笑んで、それからいとおしそうにチェーンソーを撫でて「良かった」呟きます。

 「君の自我が強いのは、知ってるからね。ひょっとしたら、怒って僕に害を加えてくるかもしれないって、思ってたんだ。えへへ……。だからちょっと、こう、大事な本番の前にさ、約束してもらえるようにっていうか……」

 私は彼の臆病と、自らの犯した軽率な行動を呪います。頬に刻まれた傷は感じた以上には深くありませんが、それでもどろどろと流れる血液は、私の意識を希薄にするには十分な量がありました。神崎もそれに気が付いたのか、「大丈夫? 大丈夫?」としきりに声をかけながら、私の頬に執拗にハンカチを押し当ててきます。

 「君の拾ってくれたハンカチなんだ」神崎はえへへと笑います。

 「覚えてる? 学校で、これは中学の時だったかな。えへへ……僕は当時からふとっちょのお坊ちゃまで、女子には相手にされなかったなぁ。だけれど……だけれど君は僕がハンカチを落とした時に拾ってくれたし、ちゃんとお話だってしてくれた」

 ……覚えていません。そんなこと私は覚えていないのです。ただなんとなく、ハンカチなんて持ち歩く人は、学校でも多分この人くらいなんだろうなとは、思っていたような、そんな記憶があるだけで。

 神崎は本来理性的な人間だった。お金持ちの癖にいつも誰かに怯えていて、いつも一人で遊んでいて、納得していて。私と話す時はいつも目を輝かせていて、本当に楽しそうにしてくれて。頭だって学校で一番良かったし、内気なんだけど自分の考えもちゃんと持っている。そういう人だった、はずなんだけど。

 「神崎……くん?」

 私はだくだくと流れ行く血液を見ながら、息を枯らして声をかけました。

 「なんだい? 好きなことを言ってくれないかな?」

 「……私をこの鉄枷から、解放してくれませんか? ……人間は長い間、同じ体制ではいられません。もう既に、頭がくらくらしてるんです」

 私の言うことに、神埼くんはふんふんと何度かうなずきます。「もう僕に何もしないよね」私は何度も何度も首を立てに振るいました。「何もしない……何もしないです!」彼が怖い。理性を失った彼が怖い。何をするのか分からなくなった神崎が怖い。そう思えば思うほど、私の頭はおもちゃみたいに何度も何度も上下して、鉄枷に囚われた中で必死に神崎に懇願しました。

 「そうだね。……うん、きっと大丈夫だね」

 神埼はそう言って微笑んで、私の頭を丁寧に撫で回しました。それは、まだ性差もはっきりしていない無垢な少年が、クマのぬいぐるみを扱うような、不思議な神秘性に溢れたものでした。

 「最初から、そうするつもりだったしね。……えへへ。僕が来るまでの何時間か、さぞ苦しかったんだろう? ごめんね、ごめんね」

 謝りながら、神崎は私の鉄枷を解除していきました。ポケットから取り出した鍵で、たどたどしい手先で一つずつ。私を鉄枷から解放する意思があったということについては、おそらく本当だったのでしょう。

 最後の左足が開放された時、私の全身は安堵感に包まれました。死体のように地下室の床に倒れこむと、止まりかけていた暖かい、血液が私の全身に通います。喘ぐようにして地面でのたうつ私の姿を、神崎はどこか申し訳なさそうに見下ろしていました。

 「それじゃぁ。また迎えに来るよ」

 神埼はそう言って微笑みます。

 「頬の傷、そのハンカチで押さえていれば良いと思うから。ごめんね、ちょっと目立つけど、だけど君の美貌を損なってはいないはずだから。えへへ。……手足が飛んでダルマになっても、僕は君のことだけが世界で一番大好きだから」

 そんなおぞましい言葉を口にし、神崎は私に背を向けていきました。片手には小型のチェーンソー、彼だけが持つ支配と暴力の象徴。私は緩慢に起き上がり、朦朧とする意識で彼の背中を捉えました。

 距離はそこまでないし、神崎は鈍感な人間だったはず。心臓が張り裂けそうに高鳴って、頭の先まで心音が伝わって来るのが分かります。血と汗で体はぐしょぐしょに濡れていて、涙まで溢れそうになって来て、それでも私は踏み出しました。

 「え。……?」

 神埼はこともなげに振り返り、その場で腰を抜かす私の方を見ました。チェーンソーを少し高めに構えた彼は、私の襲撃を予期していたようでした。子供みたいなあどけないその表情。もしも私が後一メートルでも接近していたら、容赦なく切り刻まれていたことでしょう。二度と自分に襲い掛からないように、飛び掛る為の足と首を絞める為の腕を、私の体から切り離していたことでしょう。

 腰が抜けて立つこともできなくて、私はその場でうずくまり泣きました。不衛生な床に顔をうずめて、恐怖と無力に泣きました。

 神埼は何が何やらといった能天気な顔をして、私の方を申し訳なさそうに見下ろすと、「ごめんね」と一言呟きました。

 神埼が部屋を出てからも、私はしばらく動けませんでした。泣いて、泣いて、泣き疲れて、最後は乾いた土のように、血塗れで地下室に眠りました。


 地下室の床で転がる私が夢に見たのは、神崎のあどけない横顔ばかりでした。学校の机に座っていて、幼き日公園で一緒に遊んでいて、彼の一家が内に遊びに来ていて。そんな懐かしい光景の中においては、神崎はただの気弱な幼馴染でしかなくって、私は彼のことを弟のように可愛がっていて、そういう割には彼の方がしっかりしたところも、少なからずあって。

 それはいつのことだったか。私はいつの日を夢に見たのか。

 そこは砂場で私は小さく、神崎と二人でおままごとをしている光景でした。彼は男の子なのにそういう遊びが好きだったものですからね。どぎまぎしながら二人で一緒に、結婚式の真似事をしたこともありました。おもちゃの指輪、土で作られたウエディングケーキ。そうそう、彼は夢想好きな男の子だったのですね。仮想の結婚式場で、新婦の役をした彼に、私は静かに微笑みました。

 『ねぇ。狭霧ちゃん』

 そんな中、彼はどぎまぎしながら私に問いかけましす。

 『大きくなったら、こんな風に僕と、結婚してくれる?』

 私ははたして、これになんと答えたのだったか。

 地下室の眠りは浅く短く、自分の血と汗に塗れながら私は何度か目を覚ましました。それでも起き上がることができなかったのは、それだけ私の心が軋んでいたということなのかもしれません。

 頬の傷跡を手でなぞり、周辺の血が少しは固まってきたことを確認しました。ああ。鉄臭い。だけどあったかい。この陰気に冷たい地下室の中で、自らの血液だけが私に温かみを感じさせてくれました。今すぐ服を脱いで裸になって、全身に血を塗りたくりたい気分。自らの血液と戯れ恍惚を浮かべる私の姿を神崎に見せ付ければ、気が狂ったとでも思われて、開放してはくれないのでしょうか。試すだけの価値はありますね。ええ。

 なんて夢想したところで状況が少しでも変わる訳がなく、私を助けてくれる妖精さんや都合の良いアイテムなんて、そこらに出現する訳もありません。なんだか頭がぼやけて来ました。もう何も考えたくない。ずっと眠っていたい。焼肉食べたい。

 ではなくして。自分の頬肉が床に撒き散らされた環境で、我ながら良くそんなことを思えるものですね。とにかくここから出なければならないというのに。

 今は、さっさと外に飛び出すことだけを考えましょう。だけどそれが終わったら焼肉食べます。絶対食べます。むしゃむしゃ食います。

 四肢をまとった鉄枷から開放されただけだというのに、私は随分と落ち着いていられました。浅い泥水のような僅かな睡眠は、私本来の楽観的で前向きな性格を呼び覚ましてくれていたのです。

 私はとうとう立ち上がりました。頬はずきずき痛むけれど、助かる見込みもないけれど。とにかく私は一通りのことを試してみる気になりました。このままじっとしている道理なんてない。とにかく動いて、何かして、大脱出を成功させてみせるのです。

 鉄枷から解放されてみれば案外狭いその地下室。私はそこを歩き回りました。正方形に近い鉄の一室、これといった道具もなく、あるのは壁の鉄枷と扉だけ。自分を拘束する為に作らせたという鉄枷だけは、見るに絶えなくて私はぞっとして目を逸らしました。

 扉は硬く堅牢で、押しても引いてもびくともしない。しかし大きく硬いだけ。鍵の作り自体は乱暴なようなので、知恵と道具を使えばなんとか外に出られるかもしれません。

 とにかく手元に何があるのか。私はポケットを引っ繰り返し確認します。手帳に財布に家の鍵、恋人の御厨みくりやからもらった携帯電話。それらの四つを床に並べて、私はすっかり考え込みます。

 ダメだ。どうやったって扉は突破できない。やっぱり神埼に開けてもらうより方法はないから。だから怖いけれど、とにかく神埼を倒すことを考えなくちゃいけない。とすると何か良い方法は……携帯電話って結構硬いし、金属でできてる訳だから、もしかしたら武器になるかもしれない。そんなシーン、なんかの漫画で読んだ気がするし……って携帯電話?

 私はあわてて携帯電話を拾い上げ、勢い良く立ち上がって歓喜しました。やった! マジかよ! これで勝てる! どうして気付かなかったのか。これで助けを求めれば良いのです。

 神埼も良くもこんなものを私のポケットに忘れていったものですね。嬉々として私は画面を開き、電話番号を呼び出しました。

 「…………」

 期待に胸を膨らませ、耳に電話機を押し付けるのですが、結果はふるわず。どうやらアンテナが立っていないみたいでした。

 ここは地下室、無理もない。私は自分の中身を全て吐き出しそうな溜息を吐きました。全身の力が抜けて、地面に手を付いてうなだれます。溜息一つで済んだのは、それがあまりに道理なことだったから。神崎が携帯電話を奪わなかった理由が分かった。いいえ、単に彼が、私が携帯電話を持っていることを知らなかっただけ、かもしれませんけど。

 神埼はきっと、私と御厨の関係のことも知りません。学校が違うのだから当たり前。神崎が通うようなお金のかかる名門校に、一ヵ月後に会社が倒産する予定の実業家の娘である私が、通える道理はありません。

御厨の父は神崎の会社の子会社の責任者……だったかなんだったか、とにかく縁のある身分ではありますので、小さい頃こそ三人で会っておりました。

 三人それぞれ社長の子供。特別な身分のように思われたのか、小さな子供の頃こそ私達は三人そろって排他されていましたから。乳飲み子の頃からの関係を引き継いで、三人で良く遊んでいましたね。思えばあの時から御厨は、正真正銘の名家の息子の神埼には、逆らおうとせず慎重に距離を取っていたような。

 せめてもの抵抗。アンテナの立つところを探して地下室中を歩き回り、携帯電話を掲げたりしていると、突如としてコール音が鳴り響きました。

 私は最初ぎょっとして、それから歓喜に身を震わせて、取り落としそうに携帯電話を開きます。高鳴る心臓を押さえながら電話を耳に当てると、私のことを安心させてくれる、なんとも頼もしい声が響きます。

 「木原。木原おまえどこいるんだよ?」

 全身の力が弛緩して、私はその場で崩れ落ちました。受話器からは「木原ー。木原さーん」といつもどおりの能天気な声色。この地獄のような地下室に、一本の蜘蛛の糸が降りたようでした。

 「御厨。御厨助けてください」

 私は舌がもつれそうになりながらそう言いました。もっと冷静にならなくてはいけないのに、泣きそうにあふれ出すのは子供みたいな懇願の声。御厨は少しだけ真剣さを増した声色で「どうしたんだよ?」とこちらに促します。

 「……さらわれました」

 『さらわれた? どういうことだよ?」

 「神崎くんにです。昨日の待ち合わせ場所、公園のベンチで。多分、スタンガンか何かで眠らされたんだと思います」

 御厨が絶句するのが分かりました。私は何度もうなずきます。そうです。私だって信じられないのです。あの温厚だったはずの彼にさらわれて、こんな地下室に閉じ込められているなんてこと。

 「神崎って……あの神崎だよな」

 私は何度も「はい。はい」と呟きます。

 「彼の家の地下室です。……すごくつらい。御厨。お願い、私を助けてください。……こんな怖いのはもう嫌だ」

 御厨はしばし考え込むような静寂を置きました。私はその静けさがなんとも煩わしく、数秒の間、お腹の中をかき回されるような不快感を味わいました。どうしてすぐに返事がないのか、私は一抹の不信感を抱きながら「御厨……?」声をかけます。

 「神崎……ついにやっちまったんだな」

 「ついにって……」

 「いやなんつーか……。ケータイ通じなくなって、なんとなく予感していたことの一つではあるんだよ。……いやまぁ良かったじゃん。ケータイ買っといて。それで警察に電話しろよ、な」

 何かを誤魔化すかのような御厨の声色に、私は深い違和感を覚えました。もともと御厨はこういう歯切れの悪い、物事を誤魔化すところのある男……だけれどいつも私のことを引っ張って、色んなことを教えてくれる頼れるボーイフレンド。なのになんで、こんな時にそんな、上の空を見詰めたような、不抜けたことを口にできるの?

 「御厨?」

 「ケータイ。繋がったんだろ? それで警察呼べよ。な? そしたら俺、警察署に迎えに行くから」

 「ちょっと待ってよ……」

 そりゃ警察に通報はいたします。だけど最初に繋がったのは御厨の携帯電話で、その暖かい声を聞けて私は嬉しくて、子供みたいに助けを求めて……。

 「俺の親父さ。神崎の子会社の人間だろ?」

 「……へ?」

 何を言い出すのでしょうか。そんなこと、私はちゃんと知っています。というかもう、私には時間もありませんよ? いつ神崎がやって来るかも分かりませんよ? どうしてそんなことを、わざわざ今になって言い出すのですか?

 「つってもさ。親父も神崎の実家にとって、そんな重要な人間でもなくて……。まぁ、なんだ、その。別に俺の考えすぎだとは思うんだけれど……」

 そこまで聞いて、私は御厨の言いたいことの大方を理解しました。

 「ずっと前から言われてるんだよね。神埼んとことは仲良くしとけとか、あいつがなんかしても深く関わるなとか。……色々あんじゃん、俺ら子供にはわかんねぇことって? だからとりあえず、体裁としちゃ直接の被害者であるところのおまえが通報入れた方が、まだ良いと思う。あははは」

 軽薄な笑いは僅かに引き攣っていて、彼にとってそれが、よっぽどそれを言い出しづらいことだったのだろうということを私は知りました。

 神埼の家には誰も逆らうことができない。御厨はそのことを、私達の誰よりも良く知っていました。坊ちゃんであるところの神埼も、可能であれば深く介入するべきではない人間で。増しては今回のような監禁事件、これほどのスキャンダルに首を突っ込むことは、御厨のように世渡りに達者な人間にとっては、明らかな愚考だと分かりきったことで。

 「悪いな。俺、親父には逆らえねぇんだ」

 そんな風に締めくくった御厨の声色は、本当に申し訳なさそうで。

 自らの奸悪な計算の全てを吐露した御厨に、私はなんとなく思い出します。そうでした。私は彼の、こういうバカみたいに正直なところが好きだったのです。器用で、社交的で、色んなところに仲間がいて、何も知らない私の腕を、ぐいぐいと引っ張って色んなところにつれてってくれて、色んなことを教えてくれて。愚直な程真っ直ぐに告白された時、彼がそういうのなら、そんな関係になってみるのも、嫌じゃないなと私は真剣にそう思って。

 彼から電話がかかってきた時、二つ返事で助けに来てもらえるものだと、私は本気でそう思っていたのです。

 「そうですか」

 そんな風に応答した時、私は多分、彼にとっての木原狭霧でいられたと思います。

 「終わったら周りに全部話すよ。それじゃ……」

 彼がそう言い終わる前に、微弱だった電波の繋がりは完全に途絶え、御厨のか細い声は静寂の中に沈んでいき、ついには聞こえなくなりました。

 立たなくなったアンテナを覗き込みながら、気が付けば私はしゃっくりをあげながら泣いていました。三角座りの両足に顔をうずめて、冷たい涙を流しました。

 悲しいという気持ちは恐怖や絶望を尚上回るほど、私の心を蝕みました。血生臭い地下室の中にいて、頭の中は御厨のことばかり。記憶の中で笑顔を浮かべる御厨は、なんだかとても遠い存在のように思えて。思い出せば思い出すほどに、私の心の中の彼はどんどんぼやけて、霧散するようにして消えてしまいました。そうして最後に残ったのは、ぞっとするような喪失感と、底なしのように深く暗い心の闇。

 「嫌だ」

 自分で自分が分からなくなります。ぽっかりと穴の開いた心の内側の、自分でも信じられないくらいにどす黒い、どろどろとした悲しみとはまた別のこの感情の正体が分からなくて、私は頭を抱えて蹲るしかありません。血が逆流するようなこの感覚は、今まで出会ったことのないものでした。


 最初にさらわれてここに来た時から、二十時間ほどが経過していました。

 警察はいまだに訪れず。御厨が連絡をしてくれたという様子もやはりなく、試行錯誤を繰り返しても、私の携帯電話は二度と外界とは繋がりませんでした。

 今となってみれば、あの一回の通信を実現させたあの奇跡が憎たらしく思えました。あれから私はほとんど機械的に通信を続け、数えるのも煩わしい程失敗しました。

 恐怖よりも先に、諦観のようなものが頭をもたげてしまいます。だけどそれだけはダメなのです。どんなになっても心が挫けることがあってはいけません。そう思い、ついに充電が切れてしまうまでその無用な努力を続け、そしてその時は訪れました。

 「良く眠れたかな?」

 ほくほくとした笑顔で神崎が地下室に訪れました。その丸々とした顔を、私は恐怖するでもなくぼぉっと見詰め、神崎はゆったりとしながら私の手を引き外に出します。

 地下室の外に足を踏み出して、外の清々しい空気が私の全身を覆いました。半分眠りかけていた私の眼はすっかり開かれ、外に出られたことに思わず驚愕します。

 「……どういうつもり?」

 御厨との通信を終えてから、ほとんど何も考えられなくなっていた自分に急き立てるように、強い声で私は神崎に尋ねました。神崎はやや困ったような顔を浮かべると、両腕を晒して見せてからこう言いました。

 「ごめんね。さっきは本当にごめんね。やりすぎたと思ってるんだ。ごめんね」

 どぎまぎとした顔で、神崎はそればかりを繰り返します。私が怪訝な瞳で見ていると、照れたようにして神崎は語りだしました。

 「君に危害を加えるつもりは、もうない。だから安心して。もうすぐ、もうすぐだから」

 「もうすぐって……?」

 私が訊くと、神崎はたくらむような表情でこう答えました。

 「素敵なことさ」

 そう言った時の神埼の言葉の響きは、やっぱり小さな子供に程近いものでした。

 石造りの小汚い階段を登り、一回に辿り着いて異様に広い廊下を進みます。やっぱりここは神崎の家……いつか見た時のことを思い出して確信します。

 途中、何度か執事やメイドの格好をした人物とすれ違いました。私が助けを求める前に彼らは何もかも把握したかのような笑顔を浮かべ、それに気圧されて私は何も言えなくなるのです。顔に傷を負った私を見ても、どこか諦観したような憂いを帯びた顔をするだけなのでした。

 いったいこれはなんなのでしょうか?

 私はぞっとするものを感じました、やっぱりここは、まだまだ神崎の腸の中でしかないのでしょう。だって、御厨の例を見ても分かることですが、神崎に程近いところにいる人間は驚く程彼のすることに無頓着。きっと神埼がここで私を殺して見せたところで、使用人達は淡々と私の死体の片付けを始めるだけなのでしょう。

 そんな風に感じる程度には、私は神崎のことを恐れていたのです。

 連れて行かれたのは屋敷の大きな浴場でした。神崎はにやにやしながら私を更衣室に招待し、「体を洗っておいでよ。血だらけじゃないか」と慈愛に満ちた声色でそう言いました。

 私は最初、何がなんだか分からなくなりました。言われたとおりに服を脱いで、お風呂に入って良いものか。ふつうに考えて、そんなことは迂闊極まりありません。だけれど私には、彼によからぬ目的があったとしても、今は言うとおりにするしかありませんでした。

 お風呂場に窓があるのではないかという淡い期待もどこやらで、そんなものは目に見えるどこにも存在せずに、ただ幾つかの通気口のようなもの設置されているだけでした。

 お湯を体にかけると真っ赤な液体がタイルを張って、頬の傷にお湯が染みて泣きそうになってしまいます。まだまだ全然完治していない損傷ですから、それはもう飛び上がるほどの激痛でした。

 どれほど深い傷を負わされたのか、私は設置された鏡を覗き込みました。想像していたのと比較すれば、頬の傷はまだしも小さく浅いものでした。そしてその時、私は思い付いたのです。

 私は迷わずその鏡を取り外し、慎重にそれを叩き割りました。破片の一つを手にとって手首に当ててみたのですが、思いの他、鋭い切れ味。私はついつい表情を歪めてしまいます。

 いくら使用人達が見張っていると言って、主たる神崎をどうにかしてしまえばこちらのものです。私の身柄は順当に警察に引き渡され、後は順当に無罪を証明すれば良い。

 だけど、それを実行するのはやっぱり怖い。神崎のあの奸悪な笑みに、子供みたいな激情に、こんなちんけな破片一つで戦うなんて、考えただけでも身の毛がよだつ。返り討ちにあって全身をばらばらにされる自分を想像しながら、それでも私は、一際大きな破片をこの手に持って立ち上がります。

 心に強く決意をすると、こんなちんけな鏡の破片が、なんだかとても頼もしく思えてきました。非力で脆弱な私の心に、小さな灯火が立ったよう。御厨との電話が通じた時の、柔く儚い他力とは違う、心の中にずっしりと響く私自身の大事な希望。私はただ一つこれだけを信じることに決めて、浴室を後にしました。


 浴室から出て体を拭いていると、綺麗に折りたたまれた純白の布が目に入りました。

 これはいったいなんですか? 私は慎重にそれを持ち上げます。見れば、私が脱ぎ散らかした元のお洋服はしっかりと片付けられていて、この純白の衣類はちょうどその位置に置かれていたのです。白鳥の濡れ羽みたいに白く輝く、赤子の肌のように繊細なそれは、ウエディングドレスのように見えました。

 これを着ろ、ということなのでしょうか。どちらにせよ、入手した鏡の破片を隠す為には、何らかの衣類を身につけておくことが必要です。気味の悪さを感じながらも、私はそれを身に着けました。

 下着など他の着用物も用意されていたのですが、鏡の破片はなるだけ取り出しやすいところに隠すことにします。こんな服を着せるからには、神崎には何か考えがあるはずで、ならば彼に対抗するチャンスも、きっとその時にあるはずでした。

 更衣室から外に出ると、質の良い黒服をまとった老いた執事が、私が来るのを待っておりました。流麗な仕草で敬うように私に頭を下げてきます。それはどこかしら、私に何かを懇願しているようにも感じられました。

 「こちらへどうぞ」

 通されたのは大きな食堂。手が届かぬほど細長いテーブルに座らされ、豪奢な料理を勧められます。市井の私には見たこともないような料理の数々。突然の持て成しに私はぎょっと目を回し、何がなんだか分からなくなって、後ろに構える執事に声をかけました。

 「これはいったい?」

 「たんとお召し上がりください。もうしばらく、あの地下室で何も食べられていないのでしょう?」

 「それはそうだけど……」

 何かを良くないものを飲ませるのだったら、他にいくらでも方法があるはずなんだし。これは単なるごちそうでしかないはず。そうは言っても、気持ちの悪さが薄れる訳でもありません。強い空腹を感じてはいても、手を付けるにはなかなか勇気が必要でした。

 「どうか召し上がってください。何も仕掛けはありません」

 「……ええ。それは分かるのだけれど」

 「坊ちゃまが怖い思いをさせたことだと存じます。しかしながら、それももうすぐ終わりです。どうか、もう少し、もう少しだけお坊ちゃまにお付き合いくださらないでしょうか。お願いします」

 そう言って深々と頭を下げた執事の姿は、なんだかちょっとだけ哀れでもあって。本気の懇願は私の心にちくちくと突き刺さりました。

 きっとこの執事は、本当に神崎のことを思っているのでしょう。どうしてあんな気味の悪い男を愛しているのか、私にはだけどなんだか分かるような気もして。そんな執事に肯定を示す為にも、私は料理に手を付けました。

 短い時間ですっかり平らげました。ええ。そりゃあもう、とてもおいしかったですとも。


 最後に通されたのは、多目的室と銘打たれた、とことんまでに広い空間。

 真っ赤な長い絨毯が真ん中に引かれ、両脇には使用人達が神妙な表情で立っていました。どこか諦観したような彼らの表情は、深い憂いに満ちていて、私はついついそれに見入ってしまいます。部屋の奥にはなんだか巨大なケーキまでが用意されていて、体裁はまったく整っていませんが、それは結婚式場を連想させました。

 「木原様」

 私の背後から声がかかって、そこには先程の執事が立っていました。

 「こちらを」

 綺麗なベールをかぶせられ、大きなブーケを持たされて。私はなんだかどぎまぎとして、状況の異常さに目を回しそうでした。ここは豪奢な音楽の響き渡る結婚式場。花嫁の私は何がなんだか分からずに立ち尽くすだけ。稚拙を極めた結婚式の様相は、手間のかかったごっこ遊びのようでした。

 「狭霧さん。待たせたね」

 透き通るように無垢で、くすぐったい程無邪気な声が、背後から私の耳朶を打ちました。

 「神崎……くん?」

 ふっくらとした体に花婿衣装をあしらって、顔を赤くした神崎くんがそこには立っておりました。太った顔をくしゃくしゃの泣き笑いに歪め、たどたどしく私の手を握った彼は、子供みたいな声で言いました。

 「色々考えたんだけど、こんなところで良かったかな?」

 「え。ええ。それは別に」

 神崎に手を引かれるままに、白無垢の私は言いました。

 「いったい。これは」

 「結婚式だよ」

 花が咲くような笑顔を浮かべました。

 「すぐに始まるんだ」

 それはなんという戯れ事だったのでしょうか。

 「それでは。新郎新婦の登場です」

 先程の執事が心のこもった声でそう言いました。それを合図に、使用人達は割れんばかりの拍手をとどろかせます。登場も何も、さっきから私はずっとそこにいました。何もかもおかしな結婚式、神崎はそれでも照れくさい表情を浮かべて歩きます。彼と手を繋いだ私はその隣を、転ばぬように寄り添いました。

 神崎くんは少し固くなった表情で、私のほうをじっと見詰めておりました。私はなんだかそれに見つめ返すしかなくて、何がなんだか分からなくて、頭の中は真っ白で。

ほどほどに歩いたところで、私達二人は向かい合います。その時にはもう、神崎の表情はすっかり落ち着いておりました。潤んだ瞳にまっすぐな唇、高揚した頬には、意思の強さを伺わせるような迫力がありました。

 「神崎光様。あなたは今木原狭霧様を妻とし、神の導きによって夫婦になろうとしています。汝、健康の時も病める時も、富ときもまずしき時も、幸福の時も災いにあうときも、可能な時も困難な時も、これを愛し敬い慰め使えて共に助け合い、永久に節操を守ることを誓いますか?」

 執事の一人が淡々としながら言いました。

 「誓います」

 神埼は言いました。

 人間は一つの言葉にここまでの強い意志をこめることができるということを、私は初めて知りました。それほど神崎の瞳は鋭く燃えあがり、海のように深く純粋に見えました。

 「それでは」

 執事はそこで、酷く優しげで、悲しそうな、そんな声色で口火を切りました。

 「誓いの口付けを」

 神埼は私のベールを丁寧に持ち上げて、純白に覆われていた私の顔を晒します。そして、どんな場面で見たことのないような情熱的な表情を浮かべながら、私に顔を近づけました。

 私は体を動かしませんでした。

 目の前に迫るのは、私の記憶の限りなく深いところに根付いた友人。一緒にいた時間のもっとも長い、丸っこく無害なお友達。私をさらって閉じ込めた人。

 信頼していた。とても親切だった。その無邪気で柔らかい表情を見ると、奇妙な安心感が胸に染みていた。いつも真剣で、ちょっと貪欲で、不思議に愛らしい人でしたよね。

 こんなことさえしなければ、私達はもしかしたら、何年後かに同じようなことをしたのかもしれない。神崎の暖かい唇にキスをしながら、私はなんでかそんなことを思いながら、鏡の破片を取り出しました。

 彼の柔らかい首筋に破片を付き立てた時、私は世界で一番繊細なものに触れたような心地になりました。彼の首筋の動脈の流れ、彼の心臓の躍動、全てこの手を通じて伝わってきます。無邪気な彼の命の糸の、一際大きな一本に、鏡の破片を深く深く食い込ませました。

 吹き上がった鮮血は真っ赤なバラのようにも見えて、私達二人に降り注ぎました。神崎の体液のシャワーが私の白無垢を真っ赤に濡らします。神崎は一瞬、信じられないような顔をして、それからどこか納得したような悲しい笑顔を浮かべると、唇を離してゆっくりと、私の胸に倒れこみました。

 「坊ちゃま!」

 執事の一人が神埼のところに飛び込みました。それから雪崩れ込むように使用人達が集まっていき、私はその隙間を抜けるようにして式場を飛び出しました。

 がむしゃらに廊下を走り抜け、何度も転びそうになりました。どこに向かうとも知れないそれは、私にとって逃避だったのかなんだったのか。心臓は今にも張り裂けそうで、頭の中は真っ白で、何も考えられずにただただ廊下を進みました。

 「木原様。お待ちください」

 背後から声がかかって、私は少し迷ってから振り返ります。

 そこにいたのは、ブーケを手渡した老執事。深々と私に頭を下げて言いました。

 「このたびは本当にありがとうございました」

 そんな場違いな台詞を言う為に、わざわざ私を追って来た彼が、私にはとても不思議に見えました。

 「これからすぐにお帰し致します。本当に申し訳ありませんでした」

 これまでに受けた様々な仕打ちを思い出します。それは地獄のような時間でした。神前に支配されたあの恐怖、御厨に裏切られた悲しみに、ウエディングドレスを着せられた時の戸惑い。つい先程神崎を切り裂いた時の、あの自分でも驚くほど冴え冴えとした心境。私はぞっとするものを感じながら、その老執事を見詰め返します。

 「彼のこと」

 私は問います。

 「もしかして、助かりはしませんか?」

 「無理でしょう」

 執事はすぐに答えます。

 「頚動脈を切断されています。間違っても助かりはしないでしょう」

 「そう……ですか」

 そりゃそうだ。あんなに血が出ていたんだもの。

 私は間違いなく彼を殺した。そして神崎は、私とキスをしながら殺されたのです。

 死に逝く時の彼の表情は、それでもどこか清々しい笑顔で、私の瞼に焼き付いて離れませんでした。きっとその時の彼の微笑みは、監禁されたおぞましい記憶と共に、一生涯私の心を離れることはないのだろうと、そんな風に思いました。

 「分かりました」

 私は答えます。

 「これで、みんな終わりなんですね」

 「はい」

 老執事は労わるように言いました。

 「もう……全て済んだことです」

 女の純潔を示す流麗な白無垢は、神崎の体液に塗れて真っ赤になってしまっています。血液に残る神崎の体温は、ぞっとする程暖かかでした。


 屋敷から私を解放した執事を、父は何も言わずにぶん殴りました。こんな風に私が言うのも何ですが、それは命名するなら親バカパンチと言ったところで、老いた執事にしてみればそれは当然、ひとたまりもない程絶大な威力を持っていました。

 私もとめやしませんでした。執事さんだってそれくらいのこと、すっかり男の覚悟を決めておりましたし。何よりああなった父を止めることができないのは、兄との親子喧嘩を何度も目にした私が知っています。

 それからしばらく立って、色んなことが片付いて。

 公園のブランコに乗りながら思い出すのは、神崎の自室の様相でした。

 自分の顔を一度にあれだけ多く見たのは、おそらく初めての経験でしょう。そこいらに私の写真が貼り付けられていて、ぞっとしないものを感じたものです。

 それを見たのは、話があるとあの老執事に屋敷に連れられた時で、私はそこで様々な話を聞かされました。

 神埼の両親は、誘拐のあった日から数日前に事故によって他界していたそうなのです。日本を代表する大人物の死ですから、それは大きなスキャンダル。色んな力が働いて、つい最近まで隠し立てされていたということです。

 全ての財産は息子である神埼に引き継がれたものでしたが、今ではそれは、どういう訳か私の手元にありました。それは屋敷や、中にいる使用人達も含めてそうなのです。

 なんでも神埼の遺言にそうあったのだとか。もしも自分に何かあったら、財産は全部狭霧ちゃんとこにあげてくれ。そんな風なことを口にするほど、両親の死は神崎を弱らせていたということなのでしょう。

 相続の手続きとかその辺幼い私には分からぬ尽くしでしたが、とにかく父の会社はすぐに再建。下手に拡大しなければもうしばらくは安泰だとか。人の良い父ですから、その辺については自分でも分からぬままに損しまくったことなのでしょう。私はそういう不器用な父が、割と嫌いではなかったのでした。

 そういう訳で。私は今や自分の持ち物となった、神埼の屋敷に向かいます。

 中の執事や使用人達も、今や私を「お嬢様」呼ばわりいたします。正直言って、照れるというか困るというか。兄なんかに言わせれば「おまえにお嬢様はお似合いだよ」ということなのですが、その言い方だと、ちょっと侮辱にしか聞こえませんよね。

 目的の場所に向かう前に、私はなんとなく神埼の部屋に立ち寄りました。ずらりと並んだ私の写真も、手先の器用な彼の作った結婚式場のパノラマも、その中で手を取り合う二体の人形も、そのままにされておりました。一度感情が高ぶった時など、何もかもうやむやのめちゃくちゃにしてしまおうかと思ったこともあったのですが、それでは使用人達に気の毒な気がして思いとどまったのです。なんだかんだ、素直で優しい坊ちゃんの彼は、屋敷の人間から深く愛されていたことを、私は知っていました。

 それに。これは最近気付いたことなのですが、他でもない私自身の写真がそこかしろに 張り巡らされた神崎の部屋で、私はなんだかほっとするものを感じるのです。

 それって、ちょっとおかしいことなのです。だってここは自分を浚った男の腸。醜い醜い情欲の温床。

 それでもなんだかこの部屋にいると、自分の行為が誰かに肯定してもらえるようで、ちょっぴり嬉しいような心地がするのです。

 部屋を出ると、私はそこで振り返ります。そこにはやはり誰もいません。嫉妬に狂った神崎がチェーンソー片手に棒立ちしていることもなければ、誰かが私を止めに来てくれている訳でもない。あの事件があった後から、私の心は致命的に一人きりでした。

 最後の目的地はあの地下室です。

 神埼の形見である片手で扱える小型のチェーンソーを手に持って、私は薄暗い階段を抜け、地下室の前へと訪れました。重たい扉を開くと、むわっとした生温い空気が鼻を突きます。陰気な気配の中で轟くのは、苦しげに喘ぐような声と、ぎしぎしと鉄枷が軋む音。

 「木原……木原、何を……!」

 か細く苦しげに、それでもたっぷりの感情が篭ったその声は、私の愛するボーイフレンド。壁に貼り付けにされた御厨のものでした。

 「御厨……ごめんなさい。ちょっと遅れたかもしれませんね。あれから色々と感傷に浸ることが多くなっていけません。元気にしておられましたか?」

 「ふざけんじゃねぇ!」

 意思の強い御厨は、力の限りそう叫びます。狭く陰気なこの空間で、御厨は私のことだけを見てくれます。その他の些細でどうでも良いようなくだらない事情なんてなくて、この空間では私だけが彼の全てなのです。そう考えるとなんだか嬉しくなって、私は子供みたいに幼く微笑みました。

 「あは」

 「どうして……」

 御厨は息も絶え絶えに叫びます。

 「……どうしてこんなことをすんだよぅ……」

 そういう御厨の表情は、確かな不可解に満ちておりました。

 「はて」

 私は首を横に倒します。

 「いったいどうしてなんでしょう。ごめんなさい……私にも分からないのです」

 「ふざけんな……」

 「でも良いじゃないですか」

 私は精一杯微笑みました。

 「私はとっても幸せです。……こんなに素敵な気持ちになったことは、今まで一度だってありません。こうしていると、こうしてあなたを地下室に閉じ込めていると、私はあなたのことが本当に好きなんだって、そんな風に実感することができるんです。多分これが、きっとこれこそが、一番素敵な人を愛する形。あれほど強く人を愛した人間を、こんなに強く人を愛せる方法を、私は他に知らないのです」

 そう言うと、御厨は目を見開いてこちらを見ました。口をわなわなと震わせて、蒼白な顔を不気味がるように歪ませた御厨に、私はチェーンソーを突き付けて言いました。

 「だから。あなたも私のこと、もっともっと強く愛してください」

 がたがた震える御厨の視線は、ちょうど私の頬の傷跡のあたりに向けられていました。

 「他のことなんてどうでも良くなるくらい。自分の安全なんてどうでも良くなるくらい。どんな時でも、何もかも放り出して私のことだけを考えてくれるくらいに。私のことだけを見て、わたしのことだけを愛してください」

 そうやって微笑んでいると、私は頬の傷が疼くような気配を感じました。ちくちくとしたその痛みは、なんだかちょっといとおしくて、愛らしくて。私は神崎のチェーンソーを御厨の頬に押し当てました。

 「さもないと」

 御厨は可愛い顔で泣きじゃくりながら、私の傷を見詰めていました。そんな彼の表情を見ていると、なんだか私も泣きそうになって来て、泣きたくて泣きたくて仕方がなくなって来て、それでも私は無邪気に微笑み、子供のような声でこう言うのです。

 「あなたのこと、切り刻んでしまいますよ?」

 読了ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ