春先、少し肌寒い夜の光景
チリリン
薄暗い照明の店内に、小さな鈴の音が、控え目に響いた。
さほど広くないその店は、カウンター席が少し。テーブル席が少し。人はちらほら。盛況しているようでもないが、閑散としているわけでもない。
客たちは、うるさくない程度に、そして静かになりすぎない程度に、会話に興じている。それが当然の振る舞いであるというかのごとく。店の醸し出す雰囲気を、彼らは見事に演じている。
その光景は、完成された舞台劇のようで、飾られた一枚の絵画のようでもあった。
「浩司くん、こっちよ」
入口でぼんやりと店内を眺めていた浩司を呼んだのは、三十路を少しすぎたほどの女性だった。
カウンターに座り、小さく手招きをしている。
浩司は小さく右手を上げて、その招きに応じるように、足早にカウンターへと近付いた。
「遅くなりました」
「大丈夫、15分くらいはむしろ焦らされて気分が盛り上がるわ」
「……それ、女の人が使う技ですよね」
「何言ってるの。今の時代、直球勝負だけじゃ生き残れないわよ」
「美咲さん、サバイバルじゃないんですから」
浩司は軽く苦笑して、マスターに「ウーロン茶を下さい」と注文した。
途端に、美咲の表情が不機嫌なものになる。
「ちょっと、バーに来てウーロン茶とか、ありえないでしょ」
「俺は未成年ですよ。とりあえず18歳は過ぎているので夜間の外出は楽になりましたけど、お酒はまだ法律で禁じられています」
「堅苦しいこと言わないの。それでも青春真っ盛りの男子なの?」
「……大人が悪いことを勧めてどうするんですか……」
「いいのよ。あなたは浩司くんなんだから」
「メチャクチャですよ、それ」
美咲の言葉に、浩司は小さく息を吐いた。
ほら、と美咲がカクテルを勧めるのを、緩く首を横に振って答える。
「やっぱり、俺はやめておきますよ。”俺”が勝手にそんなことをしては、”浩司”に迷惑が掛かってしまうから」
「真面目ね」
「そう、育てられましたから。前の両親にも、今の両親にも。もう運命としか言いようがないほどに、俺を育ててくれる人は、真面目で優しい人達ばかりですよ」
「そう……それは、とてもいい事だわ」
「はい」
浩司の返事と穏やかな表情に、美咲はもう勧めようとはしなかった。
そうして、二人の間の会話が、しばし途切れる。
そのタイミングを見計らったように、浩司の前にウーロン茶が差し出された。浩司はウーロン茶をひと口飲んだ。
美咲の前には、カクテルが一つ。透き通った水色とチェリーの赤が、薄暗い照明の中でまるで自ら光を放っているかのように、鮮やさを主張している。注文してからそこそこの時間が過ぎているのだろう。グラスの外側には水滴が浮いており、時折、静かに伝い降りていく。
美咲はその水滴を一滴、指で拭った。
雫が、彼女の指先を伝い、テーブルの上に落ちた。その一連を、浩司は何ともなしに横目で見ていた。
「それで、仲間は全員揃ったの? 浩司くんの20歳の誕生日まで、あと数日でしょ?」
唐突に声を掛けられて、浩司はどきりとした。
やましいことをしていたわけでもないのに、何故か、見てはいけないものを見てしまった気分になる。
「は、い……向こうから転生してきた仲間は、皆見つかってはいます。”戦士”以外は、まだ記憶が全て戻っていないんですけど」
ほんのわずかの、戸惑い。
けれども、美咲はそれに気付かなかったようで、そう、と答えただけだった。
「ええと、”戦士”って、確か……小学生の?」
「はい。子供の思考回路って柔らかいんでしょうね。夢を受け入れているので、どちらの意識にも問題なく覚醒しました。反対に、誰よりも奇跡に近かった”司祭”は、片鱗を見せたところで止まっています。いや、止まっているというか、考えることを拒んでいるというか」
「”司祭”は、サラリーマンだったっけ? 30過ぎの」
「はい。俺の姿を見るたびに、すごく嫌そうな顔をするんですよ」
「それでも、顔は見せに来てくれるのね。向こうに戻るって決めた日は、来てくれそう?」
「来るとは言ってくれてます。ああ……そうすると、無意識には受け入れてくれているのか」
浩司はそう言って、小さく笑う。思ったより、物事は順調に進んでいたのだと気付いたらしい。
美咲は小さく微笑んでから、カクテルに口をつける。そして、感慨深く呟いた。
「今日で最後、かあ」
「はい。今日で最後です」
「私が君と出会ってからは、……6年?」
「8年ですよ。俺が中学一年生の時だったから。はは、懐かしいな。あの頃は……たくさん迷惑を掛けました。とても感謝しています。美咲さんが俺の話を聞いてくれなかったら、今頃、”浩司”はどうなっていたか」
「それが仕事だから。感謝されるほどじゃないわよ」
「そんなことはないと思いますよ。あなたのおかげで、俺と”浩司”は救われたのだから」
「大袈裟ね」
「真実です」
至極真面目な顔で言われて、美咲は苦笑した。
「分かったわ。セラピストとして、君に安息をもたらすことが出来たこと、誇りに思うことにする」
「はい」
美咲の言葉に、浩司は満足そうに頷いた。
「きっと、向こうに戻っても、俺はあなたのことは忘れないと思います」
「あらやだ、惚れちゃった?」
「……残念ながら、俺には心に決めた人がいますので」
「あはは、冗談だって。そのあたりは、もう少し流せるようにしないとね。未来の王様?」
「俺はいいんですよ。対女性は”弓使い”がこなしてくれます」
「人任せは良くないわよー? いつか自分に返ってくるんだから」
「……善処、します」
それが浩司の精いっぱいだったのだろう。
美咲はからからと笑った。
「ああ、そろそろ俺は行きますね」
「もうそんな時間? 時間が過ぎるのは早いわ。最後のデートなのにね」
「最後だから、早いんですよ、きっと。……ねえ、美咲さん。俺は、あなたにとってどんなクライエントでした?」
「そうねぇ。奇想天外で前代未聞。でも、楽しかった。本当はそれじゃいけないんだけどね」
「そうですか」
「それから……わたしも、君と同じように”向こうの人”だったら、良かったな、なんて」
浩司がハッとしたように顔を上げた。
美咲は少し照れくさそうに笑っていた。
「ふふ、セラピストとしては失格の発言だけど。……最後だし、良いわよね?」
「……ありがとうございます。とても、嬉しいです」
「こちらこそ、ありがとう。楽しかったわ。向こうでは身体に気をつけて、死なない程度に頑張ってね。って、これから国を取り戻さなくちゃいけない君には難しい注文かな」
「そんなことはありませんよ。俺は、”王子”ですから。それに、背中を預けられる仲間もいます。見事に、国を取り戻してみせます」
「ええ、君ならそうできるって、信じているわ」
「はい」
浩司は頷いた。そして、席を立つ。
「美咲さん、本当にありがとう。……どうか、元気でいてください」
「ええ、それじゃあね」
「それじゃあ」
浩司が店のドアに手を掛ける。
チリリン
薄暗い照明の店内に、小さな鈴の音が、控え目に響いた。
さほど広くないその店は、カウンター席が少し。テーブル席が少し。人はちらほら。盛況しているようでもないが、閑散としているわけでもない。
客たちは、うるさくない程度に、そして静かになりすぎない程度に、会話に興じている。それが当然の振る舞いであるというかのごとく。店の醸し出す雰囲気を、彼らは見事に演じている。
その光景は、完成された舞台劇のようで、飾られた一枚の絵画のようでもあった。
客が一人減ったところで、その光景は何も変わりはしない。
ただ、浩司が訪れる前に戻っただけ。
美咲の隣に置かれたウーロン茶が、からん、と音を立てた。音に導かれるように、美咲はウーロン茶を横目で見る。すう、と目を細めた。唇が、きゅう、と釣り上がった。
「”向こうの世界”で会いましょう。――双蓮国の王子様」
中二病的な会話を普通に交わしている男女、がテーマでした。なので、彼らの背景は会話の端々に滲む程度。あくまで、聞き手は彼らとは無関係の読み手、つまり貴方ですから。
美咲が何者かは、ご想像にお任せします。




