プロローグ
遠くから子どもたちの笑い声が響き、穏やかな街角を夕暮れの光が柔らかく包み込んだ。
「シア……」
その声に息を呑んで振り返る。
名を呼んだのは、王太子の近衛騎士の男。街を視察に訪れた高貴な一行の中でも、彼の存在は王太子と並んでひときわ目立っていた。
男の唇は何か言葉を紡ごうとわずかに開いたまま動かず、言葉もなく見つめ合う。西の空に沈みかける太陽が互いの姿を燃えるように染め上げた。
「まま~、かえるよ~」
腕の中の息子が小さな手を伸ばし、胸に顔をすり寄せてきた。この仕草は「飽きた」「眠い」「お腹が空いた」など、不満を訴えるとき。愛らしい姿だと思う反面、どうやってご機嫌をとろうかと悩むものだ。
はっと我に返り、騎士の視線から逃れるように笑みを浮かべた。
「本日はご足労いただき、ありがとうございました。息子がぐずっておりますので……これで失礼いたします」
急ぎながらもできるだけ丁寧に言葉を紡いだら、くるりと背を向ける。
「待て……!」
抑えきれない熱を帯びた低い声が、引き止めた。
「はい……?」
不思議に思って振り返ると、騎士は一歩踏み出す。
「俺はジェイラス……ジェイラス・ケンジット」
息子が小さな手で服を握りしめるなか、男の突然の名乗りに戸惑いと苛立ちを覚えた。
「俺のことを覚えていないだろうか……アリシア・ガネル」
聞き慣れぬ名に、キャメル色の瞳をぱちぱちと瞬く。
「えっと……?」
そこでひゅっと息を吸った。
「急いでいるので、失礼します」
息子が「まま、かえる、まま、かえるよ!」と繰り返すなかしっかりと抱き直し、逃げるように小走りでその場を去った。




