亡き母が私に遺した最期の言葉
母が亡くなるまでの数か月、カタリナは毎日のように母の寝室を訪れていた。
長く病床に伏していた母は、もう自分の力でベッドから起き上がることもできなかった。
医者の診察を受け、薬を飲み、使用人たちに身の回りの世話をしてもらいながら、一日のほとんどをベッドの上で過ごす。それでも初めの頃は穏やかで、窓から見える庭の様子を尋ねたり、カタリナが持ってきた本の話を聞いたりしていた。
「今日は薔薇が三輪も咲いていましたの。庭師が、今年はずいぶん花つきがよいと申しておりましたわ」
「そう。あとで一輪、ここにも飾ってもらいましょうか」
「ええ。お母様のお好きな白い薔薇を選んでまいります」
そんな会話を交わす時間が、カタリナは好きだった。母は以前から物静かな人で、娘の話を聞くときには、いつも少しだけ首を傾けて微笑んでいた。病に伏してからもそれは変わらず、カタリナはベッドの傍らに椅子を寄せ、思いつくままにその日の出来事を話した。
母が少しずつ弱っていることは分かっていた。食事の量は減り、話している途中で疲れて目を閉じることも増えた。けれど、カタリナが帰ろうとすると、母は決まって「また明日ね」と言ってくれた。その約束が守られるうちは、まだ大丈夫なのだと思いたかった。
母の様子が変わり始めたのは、亡くなるひと月ほど前のことだった。
初めは、落ち着かない様子で部屋の中を見回すことが増えた。話の途中でふいに口を閉ざし、何かに耳を澄ませるように黙り込む。カタリナが声をかけると、母は慌てたようにこちらを向き、何でもないと首を振った。
「お母様、どこかお苦しいのですか」
「いいえ。大丈夫よ」
「でしたら、何か気になることでも?」
「何でもないの。少し疲れただけ」
そう答える母の目は、カタリナではなく、その肩越しのどこかを見ていることがあった。振り返っても、そこには見慣れた家具と閉じられた扉があるばかりだった。
やがて母は、娘が部屋を訪れることさえ嫌がるようになった。
「今日はもう帰ってちょうだい」
「でも、まだ来たばかりですわ」
「疲れているの。ひとりにして」
以前なら、少しでも長く一緒にいたがった母だった。カタリナは戸惑ったが、病人に無理をさせてはいけないと思い、言われるままに部屋を出た。
翌日には機嫌が直っているかもしれない。そう考えて訪ねても、母はベッドの上で顔を背け、ろくに口を利いてくれなかった。日によっては入室することさえ拒まれた。
母が死を恐れているのだろうということは、カタリナにも理解できた。自分の身体が日に日に衰え、もう以前の暮らしには戻れないと知れば、どれほど穏やかな人でも心が荒むことはあるのだろう。母の苦しみを思えば、娘に優しくする余裕がなくなったとしても責められない。
寂しさを胸の奥に押し込めようとしたが、それでも胸が苦しかった。
廊下を歩きながら、カタリナは何度も母の部屋を振り返った。扉の向こうにいる母が、もう一度自分を呼び止めてくれるのではないかと思った。しかし、そのようなことは一度もなかった。
亡くなる一週間ほど前から、母は夜中に奇妙な声を上げるようになった。
「あ゙ー……」
長く引き伸ばされた、低い呻き声だった。
最初に聞いた夜、カタリナは母の具合が急変したのだと思い、寝間着の上に肩掛けを羽織って廊下へ飛び出した。母の寝室は同じ階の奥にあり、夜間も世話をする使用人が控えていたが、カタリナは誰かを呼ぶより先に扉を開けていた。
「お母様!」
母はベッドの上にいた。上半身をわずかに起こし、肩で息をしている。顔色は悪く、額には汗が浮かんでいた。
「お苦しいのですか。すぐにお医者様を――」
「出ていきなさい!」
突然の怒声に、カタリナは足を止めた。
「お母様?」
「早く! 出ていって!」
母はシーツを握りしめ、恐ろしい形相で娘を睨んでいた。その目には怒りよりも、何か別の、切迫したものが浮かんでいるように見えた。
「でも、今のお声は……」
「お願いだから、出ていって!」
カタリナはそれ以上何も言えなかった。母の世話をしていた使用人に様子を確かめるよう頼み、自分は廊下へ出た。
扉が閉じられると、急に膝の力が抜けた。壁に手をつき、しばらくその場に立っていたが、母が呼び戻してくれることはなかった。
それからも夜中の呻き声は続いた。
「あ゙ー……あ……」
時には、何か言葉を発しようとしているようにも聞こえた。カタリナはそのたびに母の部屋へ向かったが、母は決まって怒鳴り、娘を追い返した。
最後の数日、カタリナは扉の前まで行っても、すぐには中へ入れなくなっていた。母の声を聞くのはつらかったが、それ以上に、母から拒まれることが恐ろしかった。
そして、その日の朝、母は亡くなった。
その知らせを受けたとき、カタリナはまだ自室にいた。駆けつけた寝室には、父と医者、数人の使用人が集まっていた。誰もが沈痛な面持ちで、ベッドの傍らに立っている。
カタリナは人々の間を抜け、母の顔を覗き込む。
思わず息を呑んだ。母の口は大きく開かれていた。
それは、苦しみのあまり叫び声を上げたまま息絶えたかのような、異様な顔だった。顎は深く下がり、口の両端が不自然に引き伸ばされている。頬には幾筋もの皺が刻まれ、薄くなった唇の奥から歯が覗いていた。生前の穏やかな面影を探そうとしても、どうしても、その口元から目が離せない。
「……お母様?」
あまりの衝撃に、カタリナは思わず母の名をこぼした。当然、返事はない。
カタリナは母の頬に触れようとしたが、途中で手を止めた。全てが異様な光景だった。最期の瞬間、母は何を見て、何を感じていたのだろう。自分を呼んではくれなかったのだろうか。
遺体を棺に納める準備が始まってからも、母の口はしばらくそのままであった。
死後硬直のために顎が動きにくくなることはあるという。しかし、母のそれは尋常ではなかった。遺体の支度を任された者たちが慎重に顎を支え、口を閉じようとしても、固定されたかのように動かなかった。
やがて体格のよい男性の使用人が二人呼ばれた。二人がかりで顎を支え、力を加えると、ようやく口は幾分か閉じたものの、元の形には戻らなかった。左右の口角は引き攣れたままで、唇にも奇妙な歪みが残っている。
カタリナはその様子を最後まで見ていられなかった。
葬儀の日、母の顔には白い布が掛けられ、最後まで外されることはなかった。
棺の周囲には花が飾られ、参列者たちは母の人柄を偲んだ。優しい方だった、誰に対しても分け隔てのない方だったと、人々は口々に語った。
カタリナも、そう思っていた。
けれど目を閉じると、浮かんでくるのは最後に見た母の顔だった。あれほど穏やかだった母が、なぜあのような表情で亡くならなければならなかったのか。棺に掛けられた白い布を見つめながら、カタリナは何度もそのことを考えた。
葬儀が終わっても、母の死を実感することは難しかった。
カタリナは時折、何かを話そうとして母の部屋へ向かいかけ、その途中で足を止めた。
もう、そこには誰もいない。そう分かっているのに、長年の習慣はなかなか消えてくれなかった。
最初に声を聞いたのは、葬儀から数日が過ぎた夜のことだった。
「あ゙ー……」
カタリナはベッドの中で目を開けた。
聞き覚えのある声だった。母が亡くなる前、毎晩のように上げていた、あの呻き声。
身体を起こし、耳を澄ませた。廊下の向こう、母の寝室がある方角から聞こえてきたように思う。
「あ……」
今度は短かった。
カタリナはベッドを抜け出し、燭台に火を灯した。廊下は静まり返っており、壁に掛けられた燭台の炎が、わずかに揺れているだけだった。
母の部屋の前に立ち、しばらく耳を澄ませるが、何も聞こえない。
扉を開けると、ベッドには誰もいなかった。シーツは整えられ、窓の掛け布も閉じられている。母が亡くなってから、部屋はほとんど使われていなかった。
「……お母様?」
返事はなかった。
カタリナは部屋の中を見回したが、変わったところは何も見つけられず、やがて自室へ戻った。
翌朝、母の寝室の近くで働いていた使用人に尋ねてみた。
「昨夜、何か声が聞こえなかった?」
「声でございますか?」
「ええ。夜中に、誰かが呻いているような……」
「いいえ。私は何も」
ほかの使用人にも確かめたが、答えは同じだった。その夜は何も起こらなかった。
しかし、二日ほど経つと、また声が聞こえた。
「あー……」
やはり母の寝室の方角からだった。カタリナは再び部屋を確かめたが、そこには誰もいなかった。
それからも、声は何度か聞こえた。決まって夜更け、屋敷が静まり返った頃だった。母が生きていた頃と同じように、長く引き伸ばされた呻き声が、廊下の奥から聞こえてくる。
使用人たちに尋ねても、誰も聞いていないという。
カタリナは、母を亡くした悲しみが自分に声を聞かせているのではないかと思い始めた。毎晩のように母の呻き声を聞いていたのだから、耳が覚えていても不思議ではない。母が亡くなったことを、心のどこかでまだ認められずにいるのかもしれない。
そうでも考えなければ、気持ちを落ち着かせることができなかった。
ところが、数日後の夜。
「あ゙……か……」
声がした。それは、すぐ耳元だった。
「っ!」
カタリナは悲鳴にならない声を漏らし、弾かれたように飛び起きた。
誰かが枕元に顔を寄せ、耳に唇を近づけて囁いたような、生々しい声だった。吐息が耳朶を撫でたような感覚まで残っており、カタリナは思わず片手で耳を覆った。
すぐさま振り返ったが、そこには誰もいなかった。
震える手でベッドの帳を開け、部屋の隅まで見渡した。扉は閉じられ、窓の掛け金も下りている。衣装棚の陰にも、衝立の向こうにも、人の姿はなかった。
カタリナは耳を押さえたまま、ベッドの端へ身を寄せた。心臓が激しく打ち、喉が締めつけられるようで、うまく息が吸えない。誰もいないはずの枕元から目を離すことができず、肌掛けを胸元まで引き寄せた。
あれは確かに声だった。しかも、母の声によく似ていた。
恐る恐る、もう一度辺りを見回した。寝台の帳がわずかに揺れているのを見て息を呑んだが、それは自分が触れたためだと気づいた。廊下からは何の物音もせず、屋敷はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
カタリナはしばらく膝を抱え、身を縮めたまま長い時間を過ごした。
やがて、どれほど待っても声が聞こえないことに、ようやく少しだけ安堵した。
それでも横になるには勇気がいった。先ほどまで自分の耳元に何かがいたのだと思うと、枕に頭を戻すことが恐ろしかった。カタリナは慎重に身体を横たえ、肌掛けを肩まで引き上げた。目を閉じても、あの声が耳の奥に残っている。
その夜、それ以上声が聞こえることはなかった。
けれどカタリナは、再び聞こえてくるのではないかという恐怖から、夜が明けるまでほとんど眠ることができなかった。
翌朝になっても、耳元で聞こえた声が忘れられなかった。
「あ゙……か……」
何を言おうとしていたのだろう。
意味のある言葉だったのか、それとも単なる呻き声だったのか。カタリナは何度も思い返したが、どうしても分からなかった。
それから、声は繰り返し聞こえるようになった。
ある夜は寝入りばなに、またある夜は眠りから覚めた直後に。
「あ……が……」
やはり、母の声だった。少なくとも、カタリナにはそう思えた。
聞こえるたびに驚き、周囲を確かめたが、誰かがいることは一度もなかった。何度か繰り返すうちに、驚きはするものの、少しずつ冷静に受け止められるようになっていった。
やがて声は少しずつ長くなり、以前よりも言葉に近づいていった。
「あ……が……う……」
カタリナは、その音を一日中考えるようになった。母は何かを伝えようとしているのではないだろうか。
母はもう亡くなっているというのに、同じ声が聞こえている。
カタリナは母の死を思うたび、最後の数週間を悔やんでいた。もっと話を聞いてあげればよかった。怒鳴られても、そばにいればよかった。母が本当に苦しんでいたことを、自分は何ひとつ理解していなかったのではないか。
もし母が何かを伝えようとしているのなら、今度こそ聞いてあげたい。
その思いが日ごとに強くなり、カタリナは母の遺したものを調べてみることにした。
母の寝室を訪れるのは久しぶりだった。
扉を開けると、懐かしい香りがした。母が好んで使っていた香油の匂いが、まだわずかに残っている。窓辺には花瓶が置かれ、母の好きだった白い薔薇が飾られていた。使用人たちが今も欠かさず取り替えているのだろう。
ベッドは整えられ、椅子も以前と同じ場所にあった。
カタリナは、かつて自分が座っていた椅子に手を触れた。
母が穏やかだった頃、ここで何時間も話をした。庭の花や季節の行事、屋敷で起きた小さな出来事。母はいつも楽しそうに聞いてくれた。
それが、いつから変わってしまったのだろう。
カタリナは椅子から手を離し、部屋の中を調べ始めた。
形見分けはすでに終わっていた。母が大切にしていた宝飾品や衣装の多くは、家族の手元へ移されている。ドレッサーの中にも、以前ほど多くの品は残っていなかった。
カタリナはそれらには目を向けず、母が日頃使っていた机や書類を確かめていった。
けれど、何かを伝えるようなものは見つからなかった。
残された手紙や家政に関する記録を眺めても、特に変わったことは書かれていない。カタリナは一度手を止め、部屋を見渡した。
自分は何を探しているのだろう。
そもそも、母が何かを遺したという確証さえない。ただ、夜中に聞こえる声が気になって、ここまで来てしまったのだ。
そのときだった。ポロンと澄んだ音がした。
カタリナはびくりと肩を震わせ、振り向いた。チェストの上に置かれたオルゴールが、誰も触れていないのに鳴ったのだ。
白い陶器の天使が、ほんの少しだがゆっくりと回り、すぐにぴたりと止まった。
ぜんまいが、わずかに残っていたのだろうか。
それは、母が長年大切にしていたオルゴールだった。小さな台座の上に立つ天使は、胸の前で両手を合わせ、穏やかに微笑んでいる。ふっくらとした頬に、伏せられた瞳。背中には繊細な羽根が広がり、その姿は祈りを捧げているようにも見えた。
母はこの天使をことのほか気に入っていた。ぜんまいを巻くたび、愛おしそうにその姿を眺めていたことを、カタリナは覚えている。
カタリナはしばらく、その白い顔を見つめていた。母が亡くなってから、誰もぜんまいを巻いていないはずだった。最後に鳴らしたのがいつだったのかさえ、思い出せない。
そっと近づき、天使の頭に触れた。
ひやりと冷たい。指で軽く押してみても、天使は動かなかった。先ほど動いたのが嘘のように、台座の上に固く留まっている。
カタリナは天使の顔を覗き込んだ。
母があれほど愛した、慈悲深い天使の微笑み。けれど、わずかに伏せられた瞳のせいだろうか。今はまるで、自分の足元で何が起ころうと、決して目を向けないようにも見えた。
カタリナは天使から手を離し、オルゴールの下にあるチェストへと目を向けた。
母が元気だった頃、よく使っていた家具だった。細かな彫刻が施された木製のチェストで、上段には書類や手紙などをしまっていたことを覚えている。
カタリナは一番上の引き出しを開けた。
中には、古い帳面や封筒、書きかけの書類が収められていた。母が病に伏すよりも前のものが多く、紙の端には年月を経た黄ばみが見られる。
一枚ずつ確かめているうち、カタリナは引き出しの奥に奇妙な隙間があることに気づいた。奥板が、思っていたよりも手前にある。
引き出しを少し引き抜いて確かめると、内側にもう一枚、薄い板がはめ込まれていた。指先を掛けて動かすと、板はわずかにずれ、その向こうに小さな空間が現れた。
「……こんなところに」
カタリナは身を屈め、奥を覗き込んだ。そこには、薄い引き出しが隠されていた。
慎重に引き出すと、中には何通もの手紙が重ねて収められていた。封筒にはそれぞれ宛名が記されている。
父の名前。長年屋敷に仕えている執事の名前。侍女長や料理長、庭師の名前。そして、カタリナ自身の名前もあった。
母の筆跡だった。カタリナは息を呑み、手紙を一通ずつ取り出した。
紙の色や筆跡の様子から、同じ日に書かれたものではないようだった。母が自らの死期を悟り、少しずつ書きためていたものなのかもしれない。
カタリナは自分の名が記された封筒を手に取った。封を開ける指が、わずかに震える。
中には数枚の便箋が折り畳まれ、見慣れた母の文字が、紙いっぱいに並んでいる。
『愛するカタリナへ。
この手紙をあなたが読む頃、私はもう、あなたのそばにはいないのでしょう。
こうして自分の終わりを考えるようになって、私は初めて、人生とは何だったのだろうと思い返す時間を持つようになりました。
もっと多くのことを悔やむのだと思っていました。果たせなかった約束や、訪れることのなかった土地、もう一度だけ味わいたかった季節のことを。
けれど、不思議なことに、思い出すのは与えられたものばかりです。
春になると窓辺に差し込む柔らかな日差し。夏の夕暮れに庭を渡る風。秋の食卓に並ぶ温かな料理。冬の朝、暖炉の前で交わした何でもない会話。
そのひとつひとつが、どれほど私の人生を豊かにしてくれていたことでしょう。
人は幸福を、何か特別な出来事の中に探そうとするものです。私も若い頃はそうでした。けれど今は、幸福とは、こうして思い返せる日々の多さなのかもしれないと思っています。
あなたが生まれた日のことを、昨日のことのように覚えています。
小さな手が私の指を握ったとき、私は初めて、自分の人生が自分だけのものではなくなったことを知りました。
あなたが初めて笑った日。初めて歩いた日。初めて私の知らない言葉を覚えて帰ってきた日。昨日までできなかったことが、今日は当たり前のようにできるようになっている。そのたびに、私は驚き、喜び、少しだけ寂しくもなりました。
あなたは私の知らない世界を、いつも嬉しそうに教えてくれましたね。
私はあなたを育てたつもりでいましたが、振り返ってみれば、あなたが私に与えてくれたものの方が、ずっと多かったのでしょう。
あなたがいたから、私は何でもない一日を大切に思うことができました。あなたがいたから、明日という日が来ることを、いつも楽しみにしていられました。
どうか、私がいなくなることを悲しむばかりの日々を送らないでください。
あなたの笑う顔が好きでした。夢中になって話す声が好きでした。少し得意げに胸を張る姿も、思うようにいかず悔しそうに唇を結ぶ姿も、私はみんな愛おしく思っていました。
これからも、たくさんのものを見て、知って、愛してください。
私が知らない景色を見てください。私が出会わなかった人々と出会い、私が知らなかった幸福を、あなた自身の手で見つけてください。
いつかあなたが誰かを愛し、その人と過ごす日々を大切に思うようになったなら、私はそれを何より嬉しく思います。
そして、遠い未来に私を思い出すことがあれば、どうか笑ってください。
私も、あなたと過ごした日々を思い出すときは、いつだって笑っているのですから。
あなたが私の娘でいてくれたことを、心から幸せに思います。
カタリナ、私の愛する娘。
ありがとう。』
最後の一行を読み終えたとき、カタリナの頬を涙が伝った。
母の文字が滲んで見えなくなり、慌てて目元を拭う。それでも涙は止まらず、便箋を汚してしまわないよう、カタリナは手紙を胸元から少し離した。
「……お母様」
母は、自分と過ごした日々を幸せだったと言ってくれている。
最後の数週間、なぜあれほど自分を遠ざけたのかも、母がどれほど苦しんでいたのかも、カタリナには分からない。
けれど、母が自分を愛してくれていたことだけは、疑いようがなかった。
カタリナはほかの手紙にも目を通した。
父に宛てた手紙には、共に歩んだ年月への感謝が綴られていた。楽しいことばかりではなかったけれど、あなたと生きてこられて幸せだったと、母は書いていた。
執事には、長年この家を支えてくれたことへの礼が記されていた。侍女長には、病に伏してからも変わらず世話をしてくれたことへの感謝が、料理長には、食欲のない日にも工夫を凝らして食事を用意してくれたことへの感謝が綴られていた。
庭師に宛てた手紙には、毎年咲く薔薇を楽しみにしていたことが書かれていた。
母は、こんなにも多くのことを覚えていたのだ。屋敷で働く人々の小さな心遣いも、家族と過ごした何でもない時間も、母にとっては大切な思い出だった。
カタリナは手紙を読み進めながら、何度も涙を拭った。母の人生は、苦しみだけで終わったのではなかったのだ。
病床に伏した最後の数か月だけが、母の生涯ではない。父と出会い、この屋敷で暮らし、娘を育て、多くの人々に囲まれて過ごした長い年月があった。そのひとつひとつを、母は幸福だったと書き残してくれた。
カタリナは、自分が母の最後の姿ばかりを思い返していたことに気づいた。
あの異様な死に顔が、母との思い出を覆い隠してしまっていた。けれど、今は違う。手紙を読み返すたびに、穏やかに微笑む母の顔が浮かんでくる。
庭の話を聞いてくれた母。自分の話に楽しそうに相槌を打ってくれた母。何か嬉しいことがあると、娘以上に喜んでくれた母。そのどれもが、確かに自分の知っている母だった。
カタリナは便箋をそっと重ね、胸に抱き寄せた。
そのときだった。
「あ……か……う……」
耳元で、母の声がした。
カタリナは顔を上げた。聞き覚えのある声だった。夜ごとに聞こえていた、あの不思議な囁き。けれど、今度は驚かなかった。
「あ……が……う……」
カタリナは静かに目を閉じた。ああ、そうだったのだ。母は、ずっとこの言葉を伝えようとしていたのだ。
何度も何度も聞こえていた声。最初は呻き声にしか聞こえず、やがて少しずつ言葉のようになっていった、あの声。
カタリナの唇が、ゆっくりと微笑みの形になった。
「ありがとう……」
声に出すと、また涙がこぼれた。
「……ありがとう、お母様」
涙が次々と溢れ、カタリナは震える唇をそっと開いた。
「私も、お母様の娘でいられて幸せでしたわ」
返事はない。それでも、カタリナはもう寂しいとは思わなかった。
母が遺してくれた言葉がある。共に過ごした日々がある。そして、自分にはまだ、母が愛したこの屋敷で生きていく時間が残されている。
カタリナは手紙を丁寧に畳み、封筒へ戻した。ほかの手紙も、宛名を確かめながら一通ずつ揃えた。父にも、屋敷の皆にも、母が遺した言葉を届けようと思った。きっと皆、喜んでくれるだろう。
窓の外では、柔らかな日差しが庭を照らしていた。母の好きだった白い薔薇が、風に揺れている。カタリナは窓辺へ歩み寄り、しばらく庭を眺めた。
いつか、自分も母のようになれるだろうか。人生の終わりに、失ったものではなく、与えられたものを数えられる人になれるだろうか。
今はまだ分からない。これから先、どのような喜びや悲しみが待っているのかも分からない。けれど、母が愛した日々を、自分も大切にしていきたいと思った。
カタリナは振り返り、母の寝室を見渡した。
ベッドも、椅子も、チェストも、何ひとつ変わっていない。母がいなくなったことは、やはり寂しい。それでも、もうこの部屋を訪れることを恐れる必要はなかった。
ここには、母との温かな思い出が残っている。カタリナは手紙を胸に抱き、静かに微笑んだ。
「お母様、どうか安らかにお眠りください」
そして、穏やかな足取りで部屋を後にした。
***
扉が閉まった。娘が去った部屋には、ひとりの女が立っていた。かつて、この屋敷の女主人だった女。
痩せ細った身体を寝間着に包み、青白い顔をした彼女は、閉ざされた扉を見つめていた。その目から、涙がこぼれていた。
「あ……」
女の口が動いた。いや、動かそうとしていた。
女の背後には、何かがいた。その姿は、女の身体に隠れてよく見えない。ただ、肩の向こうから二本の腕が伸びていた。
人間のものに似た、異様に長い指。その指が親指以外全て、女の口の中に差し込まれていた。
左右から四本ずつ、唇の内側へ深く潜り込み、口角を引っ掛けるようにして外側へ引っ張っている。
指の腹が頬の内側の柔らかな肉を押し上げ、唇の端を耳の方へと押し広げていた。
女の口は、あり得ないほど大きく開いていた。
顎は下がり、上下の歯が剥き出しになっている。頬は両側へ引き攣れ、鼻の脇から口角にかけて深い皺が寄っていた。薄く伸ばされた唇は、端の方で細い紐のようになり、指がわずかに動くたび、今にも裂けそうに震えた。
口の中は乾くことも許されず、歯と歯茎の間に唾液が糸を引いていた。
女は顎を動かそうとした。
しかし、口の両端を引き広げられたままでは、唇を閉じることも、舌を思うように動かすこともできなかった。
「あぇ……か……うぅ……」
言葉にならない息が漏れた。
女は必死に舌を持ち上げ、歯の裏へ押し当てようとした。けれど、背後の指がぐいと口角を引くたびに、顎が横へ引き攣れ、声は形を失った。
目を見開いたまま、女は扉を見つめていた。
涙が頬を伝い、引き伸ばされた口の端へ流れ込んだ。それでも女は、必死に言葉を発しようとした。
舌を動かすたびに喉の奥がひくつき、胃液がせり上がってくる。激しくえずきながらも、女は声を絞り出そうとした。喉から漏れるのは、言葉とも呻きともつかない、湿った音ばかりだった。それでも女は、扉から目を離さなかった。
「あ゙へ……が……くう……」
口の中の指が、ゆっくりと動いた。
口角がさらに外側へ引かれ、女の頬が不自然に持ち上がる。歯茎が露わになり、顔全体が歪んだ笑顔のような形になった。
女はそれでも、声を出そうとした。閉ざされた扉の向こうには、もう娘はいない。
それでも女は、何度も、何度も、同じ言葉を繰り返そうとした。
引き広げられた口から、かすれた息が漏れる。
女は残された力を振り絞るように舌を動かした。
「あれ……が……くる」
誰にも聞き取られないその言葉は、部屋に響くこともなく、女の唾液とともに床へ落ちた。




