「私だって傷つくよ!」――幼なじみに捨てられた聖女ですが、メイドのエナメルは私の人生を守ってくれました
エリューシオン教会。
そこには、幼いころに家族を失い、教会へ引き取られた一人の少女がいた。
名はメリン。
聖処女神エリューシオンに聖女として認められた、小さな女の子だった。
そして私は。
「今日から、メリン様のお世話をさせていただきます。エナメルと申します」
彼女の専属メイドとして雇われた。
「エナメル?」
「はい」
「ずっといてくれる?」
まだ幼かったメリン様は、少し不安そうに私を見上げていた。
私は笑った。
「メリン様がお望みになる限り」
「ほんと?」
「はい」
するとメリン様は嬉しそうに笑った。
それから私は、彼女の成長をずっと見てきた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
メリン様には、同じ教会で育った幼なじみがいた。
ケイザー。
同い年の男の子で、子供のころから二人はいつも一緒だった。
「メリン!また転んだのか?」
「転んでないもん!つまずいただけ!」
「同じだろ」
「違う!」
そんなやり取りを、私は何度見たことだろう。
やがてメリン様は成長し、中級聖女となった。
聖女には、初級、中級、上級という階級がある。
そして、その上に立つ大聖女はただ一人。
初級聖女として学びを重ね、聖処女神エリューシオンへの信仰と、人を思いやる心を認められた者が中級聖女となり、初めて各国へ正式に派遣される資格を得る。
上級聖女ともなれば、その数はさらに少ない。
これは単に本人が持つ魔力の強さによって決まるものではない。
聖女が扱う聖属性魔力は、祈りを通して聖処女神エリューシオンから与えられる。
女神とのつながりが深い聖女ほど多くの聖属性魔力を受け取り、より強い聖属性魔法を扱うことができるのだ。
とはいえ、魔法を使うのは聖女本人。
流れ込んできた魔力を操り、祈り、身体を使う以上、当然ながら疲れもする。
聖女だからといって、無尽蔵に働けるわけではない。
そんな中級聖女になったメリン様と同じころ、ケイザーも神官騎士の試験へ合格した。
ある日。
二人が嬉しそうに私のところへ走ってきた。
「エナメル!」
「はい?」
「聞いて!私、ブルー王国へ派遣されることになったの!」
「まあ」
「それでね!」
メリン様は隣を見る。
ケイザーが胸を張っていた。
「俺も護衛として同行することになった」
「まあまあ」
「やったね、ケイザー!」
「お前もな、メリン」
二人は笑い合っている。
仲がよろしいこと。
見ていて、ほっこりしますね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ブルー王国へ到着すると、まず行われたのは正式な契約の確認だった。
聖女は国へ譲り渡されるものではない。
エリューシオン教会から、一定期間派遣される。
今回の契約期間は十年。
国王陛下と教会側の代表が契約を確認する。
メリン様の居宅。
報酬。
食事。
安全。
業務内容。
一日の業務時間。
そして十年後の更新について。
私は一つずつ確認した。
「エナメル、細かいよ」
メリン様が小声で笑う。
「大切なことでございます」
「私、大丈夫だよ」
「大丈夫なときに確認するから契約なのでございますよ」
「う」
隣でケイザーが笑った。
「メリン、エナメルには勝てないぞ」
「知ってる」
結局、私はそのままメリン様付きのメイドとしてブルー王国に残ることになった。
護衛には神官騎士ケイザーも加わった。
こうして三人での新しい生活が始まった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
最初の一年は、とても順調だった。
メリン様は聖属性魔法を使い、負傷した兵士を治療した。
魔物討伐へ向かう騎士たちには、
「皆さんが無事に帰ってこられますように」
そう祈りながら祝福をかける。
祈りに呼応するように、聖属性の魔力がメリン様へ流れ込んでいく。
その流れは、私にも感じ取ることができた。
澄んでいて。
柔らかく。
そして強い。
中級聖女となったメリン様と、エリューシオン様とのつながりがしっかり結ばれている証なのだろう。
祝福を受けた騎士たちは力を増し、魔物討伐で大きな成果を上げた。
民からも。
兵士からも。
メリン様は愛された。
本人も嬉しかったのだろう。
どんどん仕事を引き受けるようになった。
「次の方、どうぞ!」
朝から治療。
昼から騎士への祝福。
夕方には教会行事。
そのあと貴族から治療依頼。
「メリン様」
「なに?」
「本日はここまでにいたしましょう」
「え?でも、まだ三十人くらい――」
メリン様が次の騎士へ手を伸ばす。
その瞬間、私は彼女の身体を流れる魔力を見た。
私は長い年月をかけて、魔力を細かく制御する技術を身につけている。
熟練すれば、自分だけでなく、他人の身体を流れる魔力もある程度感じ取れるようになる。
今のメリン様には、エリューシオン様から十分な聖属性魔力が流れ込んでいる。
だが、それを扱っている身体の方が疲れていた。
魔力の流れがところどころ乱れている。
これは魔力不足ではない。
使いすぎだ。
「ここまででございます」
「でも」
役人も困ったように言う。
「聖女様。できれば残りの者にも祝福を――」
「本日の契約上の業務時間は、すでに終了しております」
「ですが、あと少しですぞ」
私は笑った。
「聖女様のお身体は、契約に含まれる消耗品ではございませんので」
「……」
役人は何も言えなくなった。
メリン様が頬を膨らませる。
「私、まだできたのに」
「できることと、やってよいことは別でございますよ」
「むう」
「さあ、お部屋へ戻りましょう」
その夜、私はメリン様へ茶を淹れた。
「今日は、いつもと違う?」
「少し疲れておいでですので、軽めにしております」
「やっぱりエナメルって、なんでも分かるね」
「何でもは分かりませんよ」
「でも、私が疲れてるの分かったじゃん」
「身体は正直ですから」
メリン様は茶を飲み、
「おいしい」
と笑った。
それで十分だ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
おかしくなったのは、メリン様が15歳になったころだった。
ブルー王国の王子には、以前から婚約者がいた。
この国でも大きな力を持つ公爵家の令嬢。
二人の婚約は、家同士の結びつきも含む重要なものだった。
そんな中、ある日。
魔物討伐へ向かった王子が負傷した。
命に関わるほどではないが、それなりに深い傷だった。
メリン様が治療することになった。
「動かないでくださいね」
「すまない」
メリン様が傷口へ手をかざす。
聖属性魔法の光。
傷が塞がる。
「これで大丈夫です」
「ありがとう、メリン」
王子は笑い、自然にメリン様の手を取った。
ただ、それだけだった。
しかし、それを見ていた人間は多かった。
翌日。
ウワサが広がった。
聖なる力で国を助ける聖女。
その国の王子。
二人はやがて結ばれるのではないか。
誰が言い始めたのか。
誰も知らない。
だが、ウワサだけはどんどん大きくなった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「なあ、メリン」
ある日、ケイザーが聞いた。
「ウワサ、知ってるか?」
「王子様の?」
「ああ」
「知ってるよ」
「どう思ってる?」
「どうもこうもないよ。王子様には婚約者がいるし。私もそんなつもりないもの」
「そうか」
「何?」
「いや」
ケイザーは少し安心したように見えた。
王子自身もウワサを否定した。
「メリンとは、そのような関係ではない」
だが、公爵令嬢は、そう簡単には安心できなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「王子殿下は、本当に聖女様を何とも思っていないのでしょうか」
公爵令嬢がケイザーへ尋ねた。
最初は、本当に相談だった。
「メリンは否定しています」
「でも、皆が言っています」
「ウワサです」
「でも」
公爵令嬢は唇を噛んだ。
「怖いのです」
「……」
「私は幼いころから、王子殿下の婚約者として生きてきました。勉強して、礼儀を身につけて、王妃になるための教育も受けて」
「はい」
「それなのに、ある日突然、聖女様が現れて。皆が、王子殿下には聖女様の方がふさわしいと言い始めた」
涙がこぼれた。
「全部なくなるのではないかと思うと、怖いのです」
ケイザーは放っておけなかった。
「大丈夫ですよ」
「……」
「メリンは、あなたから王子を奪うような奴じゃありません」
「本当に?」
「はい」
それから、公爵令嬢はたびたびケイザーへ相談するようになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ねえ、エナメル」
ある夜、メリン様が私へ尋ねた。
「最近、ケイザー、私のそばにいてくれないの」
「そうでございますね」
私は知っている。
ケイザーは最近、公爵令嬢のところへ行くことが増えている。
「公爵令嬢様が不安になっていらっしゃるそうで、相談を受けておられるようですよ」
「そっか」
メリン様は笑った。
「ケイザー、昔から優しいからね」
「はい」
「……」
少しだけ沈黙。
「メリン様?」
「なに?」
「寂しいのでございますか?」
「ち、違うよ!」
分かりやすい。
「ケイザーは私の護衛なんだから!いないと困るだけ!」
「さようでございますか」
「そう!」
「では、そういうことにしておきましょう」
「エナメル!」
私は茶を淹れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
メリン様は王都近郊の治療所へ向かった。
本来ならケイザーも同行する予定だった。
だが、公爵令嬢から急な相談を受けたため、別の神官騎士に護衛を交代してもらったという。
「ケイザー様は?」
護衛兵が尋ねる。
「少し遅れるそうです」
理由は私は知っていた。
公爵令嬢から急に呼び出されたのだ。
メリン様は、
「仕方ないよ」
と笑った。
だが、少し寂しそうだった。
治療所へ向かう途中、魔物が現れた。
「魔物だ!」
護衛兵が剣を抜く。
数は多くない。
だが、一頭の大型魔物が護衛の間を抜けた。
まっすぐメリン様へ向かう。
「メリン様!」
私は前へ出た。
魔物が腕を振り上げる。
肩。
腕。
手首。
魔力が一気に流れる。
力を込める瞬間、流れが一点へ集中する。
ならば、そこをほんの少しずらす。
私は手首へ触れた。
魔物の拳が私の横を通り過ぎる。
勢いを失えず、そのまま地面へ叩きつけられた。
身体が崩れる。
「今です」
護衛騎士が剣を振り下ろす。
魔物は倒れた。
「……」
メリン様が、ぽかんと私を見る。
「エナメル」
「はい」
「強いね」
「ありがとうございます」
「普通のメイドって、魔物を素手で転ばせたりする?」
「さあ、どうでしょう」
「しないと思う」
しばらくしてケイザーが駆けつけてきた。
「メリン!」
「……ケイザー」
「無事か!?」
「うん」
「悪かった。遅くなった」
「ううん」
メリン様は笑った。
「大丈夫だよ」
だけど、以前の笑顔とは少し違った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そのころから、もう一つ、気になることが起こり始めた。
「……あれ?」
治療を受けていた兵士の傷を見て、メリン様が首をかしげた。
「どうなさいました?」
「いつもなら、もう塞がってるはずなのに」
もう一度、祈る。
淡い光が傷口を包む。
傷は確かに治っている。
だが、遅い。
「最近、疲れておいでなのでは?」
役人が尋ねる。
「そんなことないです。前より仕事も減らしてもらってるし」
それは本当だった。
私はメリン様の魔力を見る。
そして眉をひそめた。
違う。
以前とは。
まったく違う。
働きすぎていたときは、エリューシオン様から流れ込んでくる聖属性魔力は十分だった。
ただ、それを扱う身体が疲れ、流れが乱れていた。
今は、流れそのものが細い。
エリューシオン様からメリン様へ届く聖属性魔力が、以前より明らかに減っていた。
「メリン様」
「なに?」
「最近、お祈りをされるとき、何か気になっていることがおありですか?」
メリン様の肩が小さく揺れた。
「……どうして?」
「少し、聖属性魔力の流れが以前と違いますので」
「私……弱くなったの?」
「それはまだ分かりません」
「でも」
メリン様は俯いた。
「最近ね」
「はい」
「祈ってても……ケイザー、今どこにいるんだろうって考えちゃう」
「……」
「また公爵令嬢のところかな、とか」
声が小さくなる。
「治療しているときだって、今日もケイザー来なかったなって……」
「……」
「私、最低だよね」
私はメリン様を見る。
「何がでございますか?」
「だって!目の前に怪我をしてる人がいるのに、私はケイザーのことばっかり!」
「それは、よろしいことではございませんね」
「……」
メリン様はさらに俯いた。
私は、その頭へそっと手を置く。
「ですが」
「え?」
「ケイザー様をお好きなことまで、悪いことにはなりませんよ」
「……」
「聖女であっても、人でございます」
「でも、エリューシオン様への信仰が」
「信仰とは、誰かを好きになることを捨てることなのでしょうか?」
メリン様が顔を上げた。
「私はただのメイドではございますから、エリューシオン様のお考えは分かりません」
少しだけ笑う。
「ですが、悲しいものを悲しくないふりをして、嫉妬しているのに嫉妬していないふりをして。それで本当に心から祈れるのでしょうか?」
「……」
「まずは、ご自分の気持ちを認めて差し上げてくださいませ」
「自分の?」
「はい」
「私……ケイザーが好き」
「はい」
「公爵令嬢のところに行ってほしくない」
「はい」
「寂しい」
「はい」
ぽろり。
涙が落ちた。
私はその涙を拭った。
「それでよろしいと思いますよ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そして、公爵令嬢とケイザーの距離はさらに近づいた。
ある日。
公爵令嬢の馬車が魔物に襲われた。
近くにいたケイザーが彼女を助けた。
「ケイザー様!」
恐怖に震える公爵令嬢が、ケイザーへすがりつく。
「もう大丈夫です」
ケイザーは彼女を支えた。
それが決定的だったのだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ある夜。
メリン様は少し嬉しそうだった。
「エナメル」
「はい」
「今日ね。ケイザーが来たの」
「まあ」
「最近そばにいられなくて悪かったって」
「そうでございますか」
「うん」
メリン様は笑った。
「やっぱり、ケイザーは変わってないね」
そう言った。
私は何も言わなかった。
少しだけ、嫌な予感がしたからだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その予感は当たった。
公爵令嬢が王子へ告げた。
「殿下」
「何だ?」
「婚約を破棄させていただきます」
「……何?」
「あなたから破棄される前に、私の方から破棄いたしますわ」
王子は立ち上がった。
「待ってくれ。どうしてそんなことを言うのだ。私はそんなことを考えたこともない」
「でも、皆が聖女様と――」
「ウワサだ!」
「もう無理です!」
結局、婚約は解消された。
そして間もなく、さらに驚くべき知らせが広がった。
公爵令嬢とケイザーが婚約した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……」
メリン様はしばらく何も言わなかった。
「メリン様」
「……そうなんだ」
「はい」
「ケイザー、公爵令嬢のこと、好きになったんだ」
「そのようでございますね」
「そっか」
笑った。
でも、目には涙がたまっている。
「よかったね」
「……」
「好きな人と結婚できるんだもんね」
「メリン様」
「よかったよね」
私は何も言わず、メリン様を抱きしめた。
それで彼女は泣いた。
そして、メリン様の聖属性魔法は、さらに弱くなっていた。
中級聖女としての位が剥奪されたわけではない。
だが、祈ろうとしても、心が痛みでいっぱいになる。
エリューシオン様へ心を向けようとしてもケイザーの顔が浮かぶ。
聖属性魔力の流れは、以前の半分ほどにまで細くなっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
ケイザーがメリン様へ会いに来た。
「メリン」
「うん」
「公爵令嬢と婚約した」
「知ってる」
「……」
「おめでとう」
「ありがとう」
沈黙。
そして。
ケイザーは言ってはいけない一言を言った。
「お前なら分かってくれると思ってた」
「……」
「昔から俺たち、何でも話してきただろ。お前は聖女だし。優しいし」
「……私なら?」
「ああ」
「私なら、傷つかないと思ったの?」
「いや、そういう意味じゃ」
「私だって傷つくよ!」
メリン様が初めて声を荒らげた。
ケイザーが固まった。
「ずっと一緒だったじゃない!」
「……」
「私、ケイザーのこと好きだった!」
「メリン……」
「公爵令嬢を好きになったなら、それは仕方ないよ!」
涙がこぼれる。
「でも、私なら分かってくれるって勝手に決めないで!」
「……」
「私だって悲しかった!」
ケイザーは何も言えなかった。
やがて頭を下げた。
「……ごめん」
メリン様は涙を拭った。
「今はまだ、許せない」
「うん」
「でも……好きになったことを責めるつもりはないよ」
「……ありがとう」
「だから」
メリン様は顔を上げた。
「もう行って」
ケイザーは黙って去っていった。
私はその間、何も言わなかった。
これはメリン様自身が言わなければならないことだったから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その翌日。
一人の小さな男の子が治療所へ運ばれてきた。
魔物に襲われたという。
母親が泣きながら叫ぶ。
「お願いします!聖女様、この子を助けてください!」
メリン様が駆け寄った。
深い傷。
顔色も悪い。
以前のメリン様なら治せた。
だが。
今の自分にできるのか。
一瞬だけ、メリン様の顔に不安が浮かぶ。
それでも男の子の手を握った。
「大丈夫だよ」
震える声だった。
「絶対、大丈夫だからね」
そして目を閉じる。
「聖処女神エリューシオン様……どうか、この子をお助けください」
私はメリン様へ流れる魔力を見た。
最初は細い。
だがメリン様の意識は、もうケイザーへ向いていなかった。
公爵令嬢にも。
自分の悲しみにも。
目の前の子供だけを見ている。
助けたい。
ただその願いだけ。
その瞬間だった。
聖属性魔力の流れが一気に太くなる。
「……まあ」
思わず声が漏れた。
暖かな光が男の子を包む。
傷がみるみる塞がっていく。
やがて男の子が目を開いた。
「お母……さん?」
「!」
母親が泣きながら抱きしめる。
メリン様はその様子を見て。
ほっと笑った。
「エナメル」
「はい?」
「今、何か言った?」
「いいえ」
「でも」
私は微笑んだ。
「とても綺麗に流れておりましたよ」
メリン様は一瞬きょとんとして。
やがて何のことか分かったらしい。
「……そっか」
目元を拭った。
「よかった」
私は思う。
恋をしたから聖女として失格だったわけではない。
悲しんだから信仰を失ったわけでもない。
心があまりに傷つき祈る余裕を失っていただけなのだろう。
そして自分の悲しみを認めたうえで再び誰かを思うことができた。
それで十分なのだ。
少なくとも私はそう思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
だが問題はそれで終わらなかった。
公爵令嬢との婚約を失った王子。
そして以前から広がっていた、
「王子と聖女が結ばれる」
というウワサ。
国の一部ではならば本当に二人を結婚させればよいという声が出始めた。
聖女と王族の婚姻。
民衆も喜ぶ。
教会との関係も強くなる。
政治的にも悪くない。
そしてついに王子本人がメリン様へ尋ねた。
「メリン」
「はい」
「私と結婚してくれないか」
「……」
メリン様は固まった。
王子は続ける。
「君が嫌なら断ってくれて構わない。ただ、この騒動を収めるには一番穏当な方法だと思っている」
「……」
「私も君を嫌っているわけではない」
メリン様は答えられなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その夜。
「エナメル」
「はい」
「私、王子様と結婚した方がいいのかな」
「なぜでございますか?」
「だって」
メリン様は膝を抱えた。
「みんな、それが一番いいって」
「メリン様は?」
「え?」
「メリン様ご自身は、どうなさりたいのです?」
「……分からない」
「では」
私は言った。
「お決めにならないでくださいませ」
「え?」
「分からないときは、無理に決める必要はございません」
「でも、私は聖女だから」
「そうでございますね」
「国のために」
「メリン様」
私は静かに遮った。
「聖女である前に、あなた様はメリン様でございます」
「……」
私は机の引き出しから、一冊の書類を取り出した。
「これ、覚えていらっしゃいますか?」
「契約書?」
「はい」
ブルー王国へ来たとき国王と教会が交わした契約。
「メリン様は、ブルー王国へ派遣された聖女でございます」
「うん」
「ブルー王国へ差し上げられたわけではございません」
「……」
「婚姻も、契約の変更も、メリン様ご本人の意思と教会側との協議なく決められるものではございません」
メリン様は契約書を見た。
「私、断っていいの?」
「もちろんでございます」
「でも、わがままじゃない?」
「自分の人生を自分で決めることは、わがままとは申しません」
「……」
「それに」
私は少し笑う。
「先日、メリン様が王子殿下との婚姻など一言も考えず、あの子供を助けようとされたとき」
「うん」
「聖属性魔力は、とても強く流れておりましたよ」
「……」
「聖女だからといって、自分の幸せを捨てなければエリューシオン様に見放される、ということではないのでしょう」
メリン様は目を見開いた。
「そっか」
「はい」
「私、聖女だからって、何でも我慢しなくていいんだ」
「そのように思います」
「エナメル」
「はい」
「ありがとう」
私は笑った。
「どういたしまして」
「私、明日、自分で王子様に言う」
「はい」
「断る」
「はい」
「私、まだ誰とも結婚したくない」
「はい」
「ちゃんと聖女として、この10年をやり切りたい」
私は頭を下げた。
「かしこまりました」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日。
メリン様は王子へ自分の言葉で答えた。
「申し訳ありません。お断りします」
「そうか」
「私は今、誰かと結婚したいわけではありません」
「……」
「私は聖女として、この国へ来ました。残りの任期を、ちゃんと聖女として過ごしたいです」
王子は少し黙ったあと、
「分かった」
と頷いた。
「すまなかった」
「え?」
「君なら受け入れてくれるかもしれないと、私も都合よく考えていた」
王子は苦笑する。
「私も、人の気持ちをちゃんと見るべきだったな」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
後日。
公爵令嬢もメリン様のもとへやってきた。
「聖女様」
「はい」
「謝りに参りました」
「……」
「私は、あなたが王子殿下を奪うと思い込んでいました」
「私はそんなこと」
「はい」
公爵令嬢は俯いた。
「今なら分かります」
「……」
「あなたは一度も、そんなことをしていなかった」
「……」
「ごめんなさい」
メリン様は少し考えた。
「公爵令嬢様」
「はい」
「私、ケイザーのことはまだ少し許せてません」
「……」
「あなたのことも、全部平気ってわけじゃありません」
「……はい」
「でも」
メリン様は笑った。
「二人が好きになったことまで責めるつもりはありません」
公爵令嬢は深く頭を下げた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから年月が流れた。
王子は、自分が婚約者の不安を軽く考えていたことを反省したという。
後に新たな婚約者を迎えた際には、言葉を交わし、相手の不安を聞き、できる限り寄り添うことを心がけたそうだ。
一方。
ケイザーと公爵令嬢は結婚した。
だが。
優秀な神官騎士であることと、公爵家を支えることはまったく別の話だった。
平民として育ったケイザーには、領地経営も、貴族社会の交渉も、家臣団の統率も、知らないことが多すぎた。
公爵令嬢も。
好きな人と結婚すれば、それだけですべてうまくいくと思っていた。
二人は何度も衝突した。
夫婦仲は、決して順風満帆とはいえなかったという。
それでも。
自分たちで選んだ人生だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そして。
メリン様。
彼女はその後、生涯を聖女として歩んだ。
エリューシオンへの祈りを捧げ多くの人を癒し。
ときには迷い。
ときには泣き。
それでも自分自身の人生も大切にしながら。
彼女が婚姻をしたのかどうかそれをここで語る必要はないだろう。
ただ一つだけ確かなことがある。
その長い生涯の最後まで。
メリン様のとなりには、いつも一人のメイドがいた。
エナメル。
幼いころ。
『ずっといてくれる?』
そう尋ねた小さな少女へ。
『メリン様がお望みになる限り』
と答えた。
その約束を私は最後まで守った。




