プロローグ
月曜日の朝というものは、どうしてこうも体が重いのだろうか。
昨夜までの休日が嘘だったかのように、駅前には無表情の会社員と眠たげな学生が溢れ返っていた。改札を抜ける人波は信号が青へ変わるたびにゆっくりと動き出し、照り返しの強いアスファルトへ黒い影を落としていく。梅雨は数日前に明けたばかりだというのに、朝の空気は既に真夏の熱を含み始めており、じっとしているだけでも首筋に汗が滲んだ。
天城ユウはそんな人の流れから少しだけ距離を置くように歩いていた。急ぐ理由はない。始業まではまだ十分ほど余裕があるし、誰かと待ち合わせをしているわけでもない。肩から提げたスクールバッグが歩調に合わせて揺れ、その中では昨夜買ったばかりの文庫本が小さく音を立てる。
結局、最後まで読んでしまった。
ページを開く前は「一章だけ」と決めていたはずだった。だが、主人公が異世界へ召喚され、最弱と呼ばれながらも未知の力へ目覚めるところまで読んでしまえば、そこで本を閉じられる人間はそう多くないだろう。あと少しだけ。区切りのいいところまで。そう自分へ言い訳を重ねているうちに時計の針は午前二時を回り、気付けば目覚まし時計が鳴るまで三時間ほどしか眠れていなかった。
我ながら馬鹿だと思う。
それでも後悔はしていない。
面白い物語には、人から睡眠時間を奪うだけの価値がある。
少なくともユウはそう思っていた。
校門をくぐると、グラウンドから威勢のいい掛け声が響いてきた。朝練を終えた野球部がランニングを始め、金属バットの乾いた音が校舎の壁へ反響する。体育館からはバスケットボールを突く規則正しい音が聞こえ、吹奏楽部はまだ音合わせの最中なのか、トランペットが一音だけ大きく外れて部員たちの笑い声が風に乗って流れてきた。
そんな、どこにでもある高校の朝。
今日という日が、自分の人生を根底から覆す一日になるなど、このときのユウは夢にも思っていなかった。
昇降口で上履きへ履き替え、三階へ続く階段を上る。廊下には朝の陽射しが窓から差し込み、ワックスがけされた床を淡く照らしていた。まだホームルーム前ということもあり、あちこちの教室からは笑い声や机を引く音が漏れ聞こえ、廊下を走る生徒を教師が注意する声まで混じっている。どこの学校にもある、ごくありふれた朝の風景だった。
二年二組。
教室のプレートを一瞥すると、ユウは慣れた手つきで引き戸を開けた。
賑やかな声が一斉に耳へ飛び込んでくる。
「だから昨日の配信見たって!」
「いや、あれ絶対ヤラセだろ」
「今日の英単語テスト終わったわ……」
教室の後ろでは男子がゲームや動画配信の話で盛り上がり、窓際では女子たちが週末に遊びへ行ったショッピングモールの話で笑い合っている。教壇の前では委員長が朝のプリントを配り、部活帰りなのか汗を拭きながら制服のネクタイを締め直している男子もいた。誰もが思い思いに朝の時間を過ごし、始業のチャイムが鳴るまでの短い自由を楽しんでいる。
ユウは小さく「おはよう」とだけ口にし、自分の席へ向かった。何人かが軽く手を上げて挨拶を返してくる。それ以上会話が広がることはない。別に嫌われているわけではないし、避けられているわけでもない。ただ、自分から輪へ入ることが少ないせいで、自然とそういう距離感になっただけだ。高校へ入学してから一年と少し。その関係が変わることもなく、ユウ自身も変えようとは思っていなかった。
自分の席は窓際から二列目、一番後ろ。
教室全体を見渡せるその場所は、静かに本を読むにはちょうどいい。
椅子を引いて腰を下ろそうとした、そのときだった。
「おはよう、天城くん」
隣の席から、鈴を転がしたような澄んだ声が聞こえてくる。
聞き慣れたその声に視線を向けると、一人の少女が教科書を机へ並べながら微笑んでいた。
肩まで伸びた黒髪が朝日に照らされて柔らかく揺れ、整った横顔にはどこか落ち着いた雰囲気がある。派手に目立つわけではない。それでも彼女が笑うと、不思議とその場の空気まで穏やかになるような気がした。
ユウは一瞬だけ目を細め、それからいつものように力の抜けた笑みを返す。
「……おはよう。」
「……おはよう」
ユウの返事に、神代詩織は小さく目を細めた。
朝日を受けた黒髪が肩の上で揺れ、その拍子にふわりと柑橘系のシャンプーが香る。強く主張するような匂いではない。窓から流れ込む夏の風に混じって初めて気付く程度の、淡く柔らかな香りだった。
詩織は教科書を机へ並べ終えると、頬杖をつきながらユウの顔をじっと見つめる。
何か言いたげな視線だった。
ユウはその意味に心当たりがありすぎて、思わず目を逸らした。
「……また夜更かししたでしょ」
やはり、というべきか。
その一言に苦笑しながら、肩からバッグを下ろす。
「そんな顔してた?」
「うん。すぐ分かる」
「寝癖もないし、ちゃんと顔も洗ってきたんだけどな」
「そういう問題じゃないよ」
少し呆れたように笑う詩織だったが、その声音に責めるような色はない。
小学校から数えて十年近い付き合いになる。
毎朝顔を合わせ、同じ教室で過ごし、時には一緒に帰ることもある。互いの性格くらい、とっくに知り尽くしていた。
ユウが眠そうな日は、大抵理由が決まっている。
本だ。
漫画、小説、設定資料集、時には図鑑まで。
一度読み始めると止まらない悪癖があることを、詩織は昔から知っていた。
「昨日、新刊だったよね」
「……知ってたのか」
「駅前の本屋さんでポスター見たから」
それだけ言って、詩織はくすりと笑う。
別にライトノベルが好きというわけではない。
ただ、ユウが好きだから覚えている。
それだけだった。
「今回はどうだった?」
訊かれた瞬間、ユウの眠たげだった目が少しだけ輝いた。
その変化に、詩織は「やっぱり」と心の中で笑う。
昔から変わらない。
本の話になると、この幼なじみは少しだけ饒舌になる。
「面白かったよ。」
「へぇ」
「異世界に召喚された主人公がさ――」
そこまで言って、ユウは言葉を止めた。
いつもの癖だ。
話し始めれば止まらなくなる。
だから自分から切り上げる。
「……ごめん。また長くなる。」
「私は聞くけど?」
「いや、たぶん退屈する。」
「しないよ。」
即答だった。
詩織は机へ肘をついたまま、小さく首を横へ振る。
「天城くんが好きなものの話してるとき、楽しそうだから。」
その言葉に、ユウは返事を詰まらせた。
そんなことを言われるとは思っていなかった。
照れ隠しに視線を窓の外へ向ける。
グラウンドでは朝練を終えたサッカー部がボールを抱えながら校舎へ戻っていくところだった。吹き抜ける風がカーテンを揺らし、開け放たれた窓から蝉の鳴き声が教室へ流れ込んでくる。
教室の後ろでは男子生徒たちが昨夜配信されたゲーム実況の話で盛り上がり、前の席では女子たちが来月の夏祭りについて楽しそうに話している。笑い声が重なり、机を引く音や椅子の軋む音が混ざり合い、ホームルーム前特有の賑やかな空気を作り出していた。
そんな喧騒の中でも、ユウの席だけはどこか穏やかだった。
決して周囲から浮いているわけではない。
誰かに避けられているわけでもない。
ただ、自分から輪の中心へ入っていく性格ではないだけだ。
本を読み、静かに過ごし、必要なときだけ話す。
その距離感が心地良かった。
だからこそ、隣で当たり前のように話しかけてくる詩織の存在は、ユウにとって数少ない「変わらない日常」の一つだった。
いいですね。
このトーンを崩さず、そのままホームルームから異世界召喚まで繋げてみます。
⸻
廊下から革靴の音が近づいてくる。
それだけで教室の空気は少しずつ変わり始めた。
さっきまで席を立っていた生徒たちが「やべ、先生来た」と笑いながら自分の席へ戻っていく。教室の後ろで騒いでいた男子も、慌てる様子はないものの話を切り上げ、机へ腰を下ろした。
ほどなくして前方の扉が開く。
「おはよう」
担任の浅野が出席簿を小脇に抱えながら教室へ入ってきた。三十代半ば、黒縁眼鏡がよく似合う社会科教師で、このクラスの担任でもある。
「はい、おはようございまーす」
返事は揃わない。
それでも浅野は慣れたもので、「元気がないなぁ。月曜日だからか」と苦笑しながら教壇へ立った。
出欠確認。
連絡事項。
夏休み前の提出物。
進路希望調査。
どれも今すぐ困る話ではないせいか、教室にはどこか気の抜けた空気が流れていた。
「それと今日の放課後、進学説明会の資料を配るから帰るなよー」
誰かが「えぇー」と露骨に嫌そうな声を漏らす。
教室に笑いが起きた。
そんな他愛もないやり取りを眺めながら、ユウは欠伸を噛み殺す。
三時間睡眠。
眠くない方がおかしい。
隣では詩織が「ほら」と言いたげな目を向けてきた。
見なかったことにした。
一時間目は現代文だった。
教科書を開き、教師の話を聞きながら板書を写す。
真面目でも不真面目でもない。
居眠りをするほどではないが、積極的に発言することもない。
そんな、どこにでもいる一人の高校生。
時間だけがゆっくりと流れていく。
英単語テストでは案の定ひどい点数を叩き出し、昼休みには詩織から「だから言ったのに」と笑われた。
購買へ走る生徒。
弁当を広げる生徒。
スマートフォンで動画を見る生徒。
ユウは図書室へ行こうか迷った末、結局教室で文庫本を開いた。
昼休みなど四十分しかない。
図書室へ移動する時間が惜しかった。
「また読んでる」
向かいへ座った詩織が呆れたように笑う。
「少しだけ」
「その少しが長いんだよ」
「否定できない。」
そんな会話をしていると、近くを通りかかったクラス委員の朝倉蓮が苦笑した。
「天城は相変わらずだな」
「褒め言葉?」
「半分くらい」
朝倉は明るく笑うと、そのまま男子たちの輪へ戻っていく。
学級委員らしく誰とでも話し、自然と輪の中心にいる男だった。
ユウとは正反対だ。
だからといって嫌いではない。
向こうも必要以上に踏み込んではこない。
その距離感が心地よかった。
午後の授業が始まる。
窓の外では入道雲が少しずつ大きくなり、グラウンドの向こうで陽炎が揺れている。
昼食を終えたせいか、教室にはどこか気だるい空気が漂っていた。
教師の声も、黒板を走るチョークの音も、遠くで鳴く蝉の声も、眠気を誘う子守歌にしか聞こえない。
あと二時間。
それが終われば帰って、新刊の続きをもう一度──
そんなことを考えていた。
だから最初は、目の錯覚だと思った。
黒板の下。
教師の足元で、小さな光が揺らいだ気がしたのだ。
蛍だろうか。
いや、この季節に教室の中で飛ぶはずがない。
瞬きを一つ。
次の瞬間だった。
床一面へ白い光が音もなく走った。
「……え?」
誰かが小さく声を漏らす。
その一言を合図にしたように、光は机の下を縫うように広がり、教室全体へ複雑な紋様を描き始めた。
円。
幾何学模様。
見たこともない文字列。
まるで物語でしか見たことのない――
魔法陣。
誰も動けなかった。
教師も。
朝倉も。
詩織も。
そしてユウも。
教室を包む光は、一瞬ごとにその輝きを増していく。
眩しい。
思わず目を細めた、そのときだった。
世界が、白く塗り潰された。




