「お前の刺繍など指の戯れ」——盲目の辺境伯が、令嬢の縫い目の凹凸を指で読んだ夜
婚約破棄を告げられた夜、王宮南の客間に、わたくしは伝令の馬車で連れ戻された。
帰り道の途中だった。
邸の屋根が遠く見え始めた頃、街道の松林の手前で、白い旗を掲げた伝令が手綱を引いた。
「ファロウェイ嬢、宮中までお戻り願います」
伝令の声は若く、息が乱れていた。
わたくしは膝の上で揃えていた両手を、もう一度組み直した。
指の腹に、銀糸を扱うときの硬い角質が当たる。
十年、それだけが、わたくしの肉体に残った唯一の証だった。
王宮の南の客間は、賓客のための部屋だった。
わたくしは中央階段ではなく、回廊の脇の階段から二階へ案内された。
扉の前で、案内の侍従が一度足を止めた。
「客人は、五年前にお目を悪くされた方でございます。室内に手すりが渡されておりますので、お気をつけて」
わたくしは頷いた。
祖母の最後の数年も、視力がおぼろげになっていた。
手すりの位置と扉の角は、覚えがあった。
扉が開いた。
部屋の中央に、長机が一つ据えられていた。
その上に、小箱が並んでいた。
小箱の蓋が、すべて開いていた。
中には、絹の切れ端が——わたくしの記憶の通りの色合いと織りの——五十枚、整理して並んでいた。
長机の向こうに、男が立っていた。
背が高く、肩幅が広く、短く整えた黒髪のこめかみに白い筋が一本走っていた。
目はわずかに灰色の薄い膜を張ったように見え、視線が一点を見つめていなかった。
盲目の辺境伯ロタール・カーランダール——名前だけは、王宮の名簿で知っていた。
「ファロウェイ嬢」
男の声は低く、語尾を引き伸ばさなかった。
部屋の空気が、わたくしの呼吸を待っているように静かになった。
「お呼び立てして、申し訳ない。私の都合で、夜のうちにお会いしたかった」
わたくしは長机の手前で立ち止まった。
小箱の絹の切れ端が、上から照らされた灯の下で、わたくしの十年を反射していた。
王宮の祝祭で公開された戴冠衣装の、袖口の余り、襟の裏地の細片、肩当ての縁取り——どれも、自分の手で縫ったものだった。
「五年」
と、ロタールは言った。
「五年、毎晩あなたを指で読んでいました」
わたくしは、息を一度止めた。
夜の長旅で固くなっていた肩が、その一文で、ゆっくりと前に倒れた。
誰かに自分の十年を読まれていたという想像を、わたくしは十年で一度も持たなかった。
持たないように努めてきた、と言うべきかもしれない。
祖母から教わった針目を、誰にも問われずに刺し続ける時間の中で、わたくしは「読まれない」ことに慣れすぎていた。
「あなたが刺していたのは」
ロタールの声が、ほんの少し低くなった。
「私の母の祖国の紋章でした」
わたくしの膝が、長机の縁に当たった。
そこで初めて、わたくしは自分が前に進んでいたことに気づいた。
——時を、七日遡る。
ファロウェイ子爵邸の二階の北向きの刺繍室で、わたくしは朝の光の角度を測っていた。
この部屋の窓は、わざと朝の直射が入らない造りになっている。
祖母が「絹の色は、一日中均等な光で見るもの」と決めた配置だった。
作業台の上に、王太子妃戴冠衣装の表絹が広げてある。
十年目だった。
十四歳の春から、わたくしはこの絹に針を入れ続けてきた。
毎年、祝祭ごとに異なる図案を一着ずつ仕立て、その十番目が、戴冠の日のための一着だった。
作業台の端に、祖母の手帳を置く。
革表紙の角が、十年の使用で柔らかく擦れていた。
手帳の中身は、祖母が一筆ずつ描いた図案集だった。
五弁の花、葉脈の三本筋、縁取りの粒目——その三つを必ず一着に組み込むように、と祖母は教えた。
「ばあやさま、これは何の花でしょうか」
と、十四の頃のわたくしは尋ねた。
「花でなくとも、花にしておきなさい」
祖母の答えは、いつもそれだった。
意味を尋ねる代わりに、わたくしは針を覚えた。
祖母の手は、わたくしの手に、針の角度と糸の張りを少しずつ移していった。
二年前に祖母が亡くなったとき、わたくしの右手の中指の腹には、針穴が浅く一列に並んでいた。
わたくしは、糸箱を引き寄せた。
三十二色の絹糸が、かせ車に巻かれて並んでいる。
今日の図案には、銀糸を一本、薄藤色を三本、深い緑を二本選ぶ。
祖母の手帳の余白に書かれた「春には藤、夏には麦、秋には葡萄、冬には常盤」——その配色の規則に従って、選ぶ。
選び終えた糸を、左の親指の腹に巻きつけて張りを試す。
張りが弱ければ針目が崩れる。
張りが強ければ絹が引きつる。
十年で覚えた指の感覚が、糸の中点を一度で当てる。
光が、窓を一段あがった。
わたくしは針を持った。
昼を過ぎた頃、絹の上には五弁の花が二つ、咲き始めていた。
わたくしの針法は、サテンステッチを基底に置く。
隣り合う糸を平行に密に並べることで、絹の表に光沢の面を作る。
そして、要所——花の中心と、葉の付け根と、縁取りの一点——にだけ、カウチング技法を混ぜる。
太い糸を上に置き、細い糸でそれを押さえる、凹凸の最も明確な針法。
この組み合わせを、祖母は「読める針目」と呼んだ。
「読む人がいる、ということでしょうか」
十四の頃のわたくしは、また尋ねた。
「いるかどうかは、刺す人が決めることではないのです」
祖母は、そう答えた。
わたくしは、その答えを十年抱えてきた。
いてもいなくても、わたくしは、祖母に教わった通りに刺す。
それだけが、十年のわたくしのすべてだった。
凹凸の差を、わたくしは0.5ミリ刻みで五段階に統制する。
花弁の中心が最も高く、外縁にかけて段階的に低くなる。
指の腹で読めば、花が「立っている」のがわかる。
目で見れば、平らな面に見える。
十年、わたくしはその両方を成立させる針目を、一日も休まずに刺してきた。
日が傾いた。
わたくしは針を一度置いた。
右手の中指を、絹の表面から一ミリほど浮かせて、ゆっくりと泳がせる。
祖母の教えだった。
「縫った絹は、目ではなく指で読み返しなさい」
指の腹が、今日刺した二輪の花の凹凸を順に拾っていく。
一輪目の中心が、わずかに低い。
明朝、糸を一本足して補正する、と頭の中で決めた。
窓の外で、子爵邸の中庭の紫陽花が、薄紫の蕾を膨らませていた。
婚約破棄の宴は、その三日後の夜だった。
王宮の大広間に、装飾の柱が左右に十二本並んでいた。
奥の高座に、王太子レーヴェが座っていた。
金髪を額に流し、礼装の襟を高く立て、装飾の重さで肩が下がっていることに本人は気づかない様子だった。
わたくしは、刺繍枠を手に広間の中央に立った。
婚約者として、戴冠衣装の最終仕上がりを王太子に見せる慣わしの場だった。
枠の中の絹には、十年目の図案——五弁の花を中央に、葉脈の三本筋を左右に、縁取りの粒目を四隅に——が、ほぼ完成していた。
王太子は、わたくしの差し出した枠を、ほんの一瞥した。
「お前の刺繍など、指の戯れだ」
と、王太子は言った。
「下女に代えればよい。今宵、私はエリーゼ嬢を娶る」
広間の左の列に、銀色の髪を編み込んだ娘が座っていた。
隣国アルベリヒ王国の第二王女エリーゼ——名前は知っていたが、顔は初めて見た。
彼女の胸元に、銀のブローチが光っていた。
そのブローチの紋様が、わたくしの刺繍枠の中の図案と、輪郭の半分まで重なっていた。
気づいたのは、わたくしだけだったかもしれない。
わたくしは、刺繍枠を、ゆっくりと足元の床に置いた。
枠の四隅が床石に当たる音が、広間に小さく響いた。
礼を、一つだけ返した。
腰を折る角度は、十年慣れた角度——王宮を辞すときの、子爵令嬢の礼。
わたくしは、振り返らずに広間を出た。
回廊の長い廊下に、わたくしの靴の音だけが続いた。
誰も、追ってこなかった。
十年、誰もわたくしの針目の意味を尋ねなかったのと同じ静けさだった。
馬車に乗り、邸への帰り道で、街道の松林の手前で——白い旗の伝令に、止められた。
話を、客間に戻す。
長机の上の五十枚の切れ端を、ロタールは、ひとつずつ取り上げた。
いずれも、王宮の祝祭ごとに儀礼後の試し布として下げ渡される、装飾局の正式な払い下げ品だった。盲目の辺境伯であり紋章学者でもある彼は、五年前から装飾局へ閲覧申請を出し、年に十数回の祝祭ごとに袖口や襟裏の試し布を、辺境邸の研究棚に取り寄せていた——後でわたくしは、装飾局長の朱印が押された五年分の申請書綴りを、彼の書棚の一角に見ることになる。
彼の指は、爪を短く切り揃えてあった。
指の腹で凹凸を読みやすい、いつでも読める状態を保ってある——後で彼は、そうわたくしに教えた。
「これは、去年の春の祝祭の袖口」
と、ロタールは最初の一枚を、灯のすぐ下に置いた。
「あなたは葉脈の三本筋の二本目を、半呼吸長く撫でた」
わたくしは、その一枚を覚えていた。
去年の春、祖母が亡くなって最初の祝祭の衣装だった。
祖母のいない最初の春に、葉脈の二本目を刺すとき、わたくしは確かに針の上で指を一拍長く置いた。
祖母の手を思い出したからだった。
誰にも言わなかったし、誰にも見えなかったはずの、一拍だった。
「これは、二年前の秋の儀礼の襟」
ロタールは、二枚目を取り上げた。
「あなたは縁取りの粒目を、十二の倍数で揃えていた。あなたの祖母が二年前まで生きていたのは、その粒目の数が示しています」
わたくしは、息を二度しか吸えなかった。
十二の倍数は、祖母の歳に呼応していた。祖母が亡くなる前年、その齢は十二で割り切れる七十二だった。
わたくしは、祖母の歳を十二の組で数えなおして、縁取りに縫い込んだ。
祖母の長寿への、わたくしの一筆だった。
祖母が亡くなった年から、粒目の数は変わった——その変化を、ロタールは指で読み取っていた。
三枚目、四枚目、五枚目——ロタールは、絹の細片を順に灯の下に並べ、それぞれの「凹凸の癖」を語った。
「これは、あなたが指を切った日の絹。針目の張りが、左寄りに偏っている」
「これは、あなたが祖母の墓参りから帰った晩の絹。花の中心の高さが、いつもより0.2ミリ高い」
「これは、あなたが熱を出した翌日の絹。糸の張りが、いつもより緩い」
わたくしの十年が、絹の凹凸となって、長机の上に並んでいた。
誰も尋ねなかった意味が、誰も触れなかった輪郭が、目の見えない男の指によって、ひとつひとつ言葉にされていく。
わたくしは、長机の縁を、両手で握りしめていた。
指の関節が白くなるまで、握りしめていた。
「——どうして」
わたくしは、ようやく声を出した。
「どうして、ご存じなのですか」
ロタールは、灯のすぐ下に置いた五枚目の切れ端の上に、指を一度だけ静かに乗せた。
彼の指が、絹の凹凸を撫でる動きは、わたくしが祖母の手帳を撫でるときの動きと、よく似ていた。
「視力を失ったのは、五年前です」
と、ロタールは言った。
「辺境の砦の崩落で、頭を打ちました。視野は、徐々に灰色になり、最後には、夜が一日中続くようになった」
彼は、ひとつ呼吸を置いた。
「直後、私は、自分が読めるものは何かを、毎日問い続けました。文字は、人に読んでもらうことができる。庭の花の名は、香りで覚え直せる。けれど——」
彼の指が、五枚目の切れ端の縁を、もう一度撫でた。
「母が遺した刺繍布だけは、自分の指で読むしかなかった。母は、私が十二の年に亡くなりました。手元に残ったのは、母の祖国アルベリヒから持参した紋章手帳と、母自身が刺した小さな布が数枚だけだった」
わたくしは、灯の下のロタールの指を見ていた。
彼の指の腹は、十年わたくしの中指の腹に並んだ針穴の跡と、おそらく似た硬さをしていた。
読む指と、刺す指が、長机を挟んで向かい合っていた。
「私の母は、アンナリーゼと申しました」
と、ロタールは続けた。
「結婚と同時にカーランダール姓を名乗りましたが、生家の姓は、アルベリヒ王国の旧紋章院の家系に連なります」
彼は、長机の脇の革袋から、一冊の手帳を取り出した。
革表紙の角が、わたくしの祖母の手帳と、同じ角度で擦れていた。
「これが、母の遺した紋章手帳です」
ロタールは、手帳を長机の中央に置いた。
そして、覚えていた位置で、迷わず一頁を開いた。
指の腹が、頁の上を泳ぐ。
彼は、その頁の中身を、見ずに、語った。
「アンナ家系図紋。五弁の花を中央に、葉脈の三本筋を左右に、縁取りの粒目を四隅に。粒目の数は、家系の年数を示します」
わたくしは、長机の前で、立ったまま、自分の鼓動を数えていた。
「あなたのお手帳を、見せていただけませんか」
と、ロタールは言った。
わたくしの祖母の手帳のことを、彼はどうして知っていたのか——その答えは、後で知ることになる。
この夜、ファロウェイ子爵邸から、わたくしの侍女が、祖母の手帳を運んできた。
長机の上に、二冊の手帳が並んだ。
わたくしの祖母の手帳と、ロタールの母の手帳。
革表紙の擦れ方が、よく似ていた。
わたくしは、自分の手帳の表紙を、ゆっくりと開いた。
最初の頁に、祖母の若い頃の筆跡で、一行だけ書かれていた。
——「アンナ・フォーゲル、アルベリヒ王国紋章院附属針子工房卒、ベルクハイム王国へ嫁ぐ」
わたくしは、その一行を、二十四年生きて、初めて読んだ。
祖母の旧姓が「フォーゲル」であったことも、紋章院の針子工房に属していたことも、わたくしは知らなかった。
祖母は、嫁いでから亡くなるまでの二十有余年、自分の出自を口にしなかった。
わたくしは、祖母の手帳の最初の頁を、十年、開いていなかった——図案だけを覚え、文字には触れていなかった。
「アンナ・フォーゲル」
と、ロタールは、その名を低く繰り返した。
「私の母の、二十六年前の同期生です」
彼の指が、母の手帳の頁の余白を、撫でた。
余白に、母の筆跡で、何かが書かれていた。
「同期生のうち、ベルクハイム王国へ嫁いだ二人——アンナ・フォーゲルと、アンナリーゼ・カーランダール。母は、自分以外にもう一人、王国に同じ針目を持ち込んだ者がいることを、最後まで気にかけていた」
わたくしは、長机の縁から、ようやく手を離した。
指の関節が、わずかに震えていた。
「祖母は、わたくしに、針目を残しました」
わたくしは、自分の祖母の手帳を、両手で胸の前に持ち上げた。
「意味は、教えてくれませんでした。ただ、こう刺せ、と」
「あなたの祖母は」
と、ロタールは、わたくしの方へ、半歩、長机を回り込んできた。
「読まれることを、信じていらしたのだと、私は思います。読み手がいるかどうかは、刺す人が決めることではない——その諦めと希望を、同時に、お孫さんに渡されたのでしょう」
わたくしは、頷くことができなかった。
祖母の手帳の革表紙が、わたくしの胸の前で、温かく重かった。
カーランダール辺境伯領まで、王都から馬車で七日かかった。
わたくしは、ロタールの招きで、辺境へ向かう馬車に同乗した。
子爵家からは、長く祖母に仕えた侍女が一人と、辺境までの道のりを家令が後見役として同行した。父からの一筆——「娘の十年を、紋章院附属の様式に正式に戻されるのであれば、家門として異存はない」——が、家令の懐に収められていた。
「失われた紋章の手帳」を編纂したい、というのが彼の申し出だった。
王国の戴冠衣装の主縫い手が、王太子の婚約破棄宣言で職を失った——その事実を、彼は宮廷から正式に伝え聞いていた。
わたくしの十年を引き継ぐ場所として、彼は辺境を選ばせてくれた。
街道沿いに、矢車菊が咲いていた。
初夏の風が、馬車の窓から入った。
三日目の朝、街道沿いの宿で、わたくしは早く目を覚ました。
宿の中庭で、ロタールが、すでに起きていた。
椅子に座り、膝の上に、母の紋章手帳を開いていた。
指で頁を、ゆっくりと、撫でていた。
わたくしは、彼の対面の椅子に、静かに座った。
「ファロウェイ嬢」
と、ロタールは、わたくしの位置を、空気の動きで察した。
「ヴェロニカと、お呼びくださいませ」
わたくしは、初めて、自分の名前を、彼に渡した。
「ヴェロニカ嬢」
彼の声は、低く、丁寧に、わたくしの名を一度だけ繰り返した。
「あなたの頬の輪郭を、指で読んでもよろしいでしょうか」
わたくしは、すぐには返事ができなかった。
息を整える時間が、一拍、長くなった。
膝の上で揃えた両手の、左の親指の腹が、自分でも気づかぬうちに右の手の甲を一度押した。針を持つ手の癖だった——けれども、いまその癖が出た意味を、わたくしは、自分で測りかねていた。
ロタールは、わたくしの返事を、急がなかった。
彼の手は、膝の上の手帳の上に、置かれたままだった。
「——どうぞ」
わたくしは、頷きながら答えた。
声は、自分の耳に、低く落ち着いて聞こえた。
わたくしの内側で、十年動かなかった何かが、ゆっくりと位置を変えた。
ロタールは、椅子から立ち上がり、わたくしの座る椅子の側面まで来た。
膝を折って、椅子の高さに目線を合わせた。
わたくしは、その動作を、初めて視覚で確かめた。
彼の動作には、無駄がなかった。
視力を失った五年間、彼はこの動作を、暗闇の中で繰り返してきた人だった。
彼の左手が、わたくしの右頬の高さまで、ゆっくりと上がった。
触れる前に、彼の指は、肌から一センチほどの距離で一度止まった。
「触れます」
と、低く告げた。
彼の指の腹が、頬の頬骨の最も高い位置に、軽く乗った。
そこから、彼の指は、頬の輪郭を、絹の上の凹凸を読むように、ゆっくりと下に移った。
頬骨から顎の角まで——彼の指は、わたくしの絹の縁取りを撫でるときと同じ速さで、進んだ。
「五弁の」
と、彼は、わずかに目を細めた。
「あなたの頬の輪郭は、私が読んだ針目の五弁の花と、同じ角度を持っている」
わたくしは、目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、祖母の手の温度が、二年ぶりに戻った。
祖母も、わたくしの頬を、こう撫でた。
「お前は、針を持つために生まれた手をしている」と祖母は言った。
わたくしの十年は、祖母の言葉を裏付けるための時間ではなかった。
ただ、祖母の手帳を裏切らないための時間だった。
ロタールの指は、顎の角で、止まった。
首筋の縫い代までは、撫でずに、止まった。
彼は、わたくしの返事を、待っていた。
「——ありがとうございます」
わたくしは、目を開けて言った。
「わたくしの十年を、初めて、誰かに読んでいただきました」
カーランダール辺境伯邸は、王都から北方へ馬車で七日の場所にあった。
城門の高さは、辺境の砦らしく実用本位で、装飾は控えめだった。
屋敷の中に入って気づいたのは、すべての室内に、手すりが渡してあったことだった。
盲目の領主のために、五年かけて改装されていた屋敷だった。
わたくしの部屋は、本邸の南棟の二階に用意されていた。
南の窓から、庭の薔薇の蕾が見えた。
初夏の薔薇は、まだ一度目の咲き始めだった。
カーランダール家の庭の薔薇は、初夏と秋、年に二度咲くのだと、案内の家令が教えた。
応接の間の南の窓辺に、長い机が一つ据えられた。
わたくしの祖母の手帳と、ロタールの母の手帳が、机の中央に並べられた。
そして、両側に、絹と糸と、針が用意された。
「失われた紋章の手帳」を、二人で編纂する日々が、ここから始まった。
わたくしが針を持つ。
祖母の手帳の図案を、ロタールに渡される絹に、一枚ずつ刺し直す。
凹凸の五段階を、いつもの通り0.5ミリ刻みで統制する。
ロタールが、わたくしの完成した針目を、指で読む。
長机の隣の椅子に座り、絹を手のひらに乗せ、指の腹でゆっくりと撫でる。
撫で終わると、彼は、補正の指示を出す。
「五弁の花の中心、わずかに左に傾いています。次は、右の親指で糸の張りを決めてみてください」
「葉脈の三本目、二本目より0.1ミリ高い。これは、母の手帳のこの頁の図案では、逆の高さです」
「縁取りの粒目、十二で揃っています。母の同じ図案では、十三です。家系の年数が一つ進んだ証です」
わたくしは、彼の指示を、一つずつ針に反映した。
祖母の手帳の図案を、母の手帳の規範で補正していくと、五弁の花が、二十六年前の紋章院の様式に、少しずつ近づいた。
夏が深まった。
庭の薔薇が、一度目の盛りを終え、矢車菊が満開になった。
わたくしたちは、毎朝、応接の間の長机に並んで座り、夕方まで紋章を編纂した。
ある日の午後、わたくしは針を一本、指から落としてしまった。
床の絨毯の上で、針が音を立てずに消えた。
わたくしが探すより前に、ロタールが椅子から立ち上がり、絨毯の上に膝をつき、手のひらを、ゆっくりと、扇形に動かした。
彼の左の中指の腹が、針の先に、軽く当たった。
「ここに」
と、彼は静かに言った。
そして、針の頭を二本の指で挟み、わたくしに渡した。
わたくしは、針を受け取りながら、彼の手のひらの傷を、初めて近くで見た。
指の腹に、針を探した跡の浅い傷が、いくつもあった。
五年間、わたくしの絹を読むときに、ついた傷だったかもしれない。
彼の指は、わたくしの十年と、同じだけの時間を、わたくしの絹に費やしていた。
「ロタール様」
と、わたくしは、彼の名を呼んだ。
初めて、敬称をつけずに、ただの名前で呼びそうになり、敬称を一拍遅れて足した。
「五年、毎晩、わたくしの絹を読んでくださっていたとのことでしたが——どうして、お会いになろうと、なさらなかったのですか」
ロタールは、絨毯の上に膝をついたまま、わたくしを見上げた。
見えない目で、わたくしの方を、正確に向いていた。
「会いに行く理由を、私は、自分の中で、長く探していました」
と、彼は答えた。
「ただ読みたかった、というのは、あなたに何も差し出さない関係です。読み手は、刺し手に何も返さない。だから、私は、母の手帳をきちんと整理し終わるまで、お会いしてはならない、と決めていました」
彼は、ひとつ、息を置いた。
「整理が、今年の初めに、ほぼ終わりました。あなたの祖母の同期生が、私の母であったと確信したのは、ちょうどあなたの戴冠衣装の最終仕上げが始まる頃でした」
ロタールは、ひとつ、息を置いた。
「あなたが祖母の手帳を継いでいることは、母が生前、手帳の裏表紙の余白に書き残しておりました。——『同期のアンナ・フォーゲルにも、針を継ぐ孫娘がいると人伝に聞いた。その娘の手元に、わたくしと対になる手帳が一冊、残されているはずである』——母の最後の一筆でした」
わたくしは、客間の長机で「あなたのお手帳を、見せていただけませんか」と尋ねられた夜の、自分の鼓動を思い出した。
彼が祖母の手帳の存在を「知っていた」のではなく、母の遺した一文を、長い夜のあいだ、何度も指で読み返してきたのだと——その答えが、いま、辺境の応接の間で、わたくしに渡された。
わたくしは、針を、左の手のひらに握り込んだ。
針の頭が、わたくしの掌の硬い角質に、軽く食い込んだ。
「お会いになる前に、王太子の婚約破棄が、起きてしまったのですね」
「はい」
と、ロタールは答えた。
「あなたが宮中を辞す前に、間に合いたかった。馬車を、夜のうちに走らせました」
わたくしは、しばらく、答えなかった。
応接の間の南の窓から、薔薇の蕾の二度目の膨らみが見え始めていた。
「ありがとうございます」
と、わたくしは、ようやく言った。
声は、低く、けれども、隠さない声だった。
王都からの便りが、初めて辺境に届いたのは、夏の終わりだった。
カーランダール辺境伯邸の応接の間に、王宮の伝令が立っていた。
伝令は、わたくしの顔を見て、一度言葉を躊躇った。
そして、ロタールに向かって、王宮からの報告を、声に出して読み上げた。
「ベルクハイム王太子レーヴェ殿下の戴冠は、無期延期となりました」
伝令の声は、平らだった。
報告の文面を、感情を交えずに伝える訓練を受けた声だった。
「理由は、戴冠衣装に、王国法第十四条が定める系譜紋章が、一目も刺されていなかったためでございます。隣国アルベリヒから贈られた伝統紋章も、同じく欠落しておりました。宮廷儀礼委員会の決議により、当該戴冠は無期延期と決しました」
わたくしは、長机の前の椅子に座ったまま、針を一度、台の上に置いた。
針先のわずかな振動が、机の上で止まるまで、わたくしは息を整えた。
「新しい戴冠衣装は、誰が縫いましたか」
と、ロタールが、低い声で尋ねた。
「下女出身の刺繍師、と聞き及んでおります」
伝令は、ためらいながら、続けた。
「彼女は、ヴェロニカ嬢の祖母の様式を真似ようとされたそうですが、凹凸の刻みを統制できず、女官たちが裏地を検めた段階で、儀礼に値せぬと判断されたとのことでございます」
わたくしは、針の頭を、指の腹で軽く撫でた。
下女出身の彼女に、罪はなかった。
祖母の針目は、二十六年かけて、わたくしの手の中にしか継がれなかった——その事実を、王国の宮廷は、十年経ってようやく知った。
「もう一つ、ご報告がございます」
と、伝令は、声を一段下げた。
「アルベリヒ王国第二王女エリーゼ様が、王太子レーヴェ殿下との婚約交渉を、本日付で取り下げられました」
伝令は、エリーゼの公開の場での発言を、書面の写しから読み上げた。
——儀礼を守れない王太子と、わたくしの国は同盟を結ぶことはできない、という旨。
書面の末尾には、隣国の外交府の朱印が押されていた。短い、けれども、社交界の宮廷雀たちが一斉に翼を広げるに足る一文だった。
わたくしは、その一言を、心の中で二度読み返した。
エリーゼ嬢は、知っていた。
わたくしの刺繍枠の中の図案が、自国の伝統紋章であることを、彼女は、最初から知っていた。
知っていて、王太子に伝えなかった。
「エリーゼ様は」
と、わたくしは、伝令に尋ねた。
「アルベリヒへ、お戻りに?」
「はい、本日の午後、馬車で発たれました」
わたくしは、頷いた。
エリーゼ嬢が、王太子の儀礼違反を黙していた理由を、わたくしは、責める気にはなれなかった。
彼女もまた、自国の紋章が「読まれない」場所で十年伏せられてきたことを、黙して見守った一人だった。
十年が過ぎ、紋章が一目も刺されない衣装が宮廷で却下された日、彼女は静かに自国へ帰った——それは、わたくしの十年とは違う形の、ひとつの抵抗だったかもしれない。
「もう一点」
と、伝令は、最後に告げた。
「下女出身の刺繍師の方は、ご自身の意志で、刺繍師の職を退かれました。半年で、廃業されたとのことでございます」
わたくしは、針を、もう一度、左の親指の腹で確かめた。
下女出身の彼女のために、わたくしは、ひとつ祈った。
祖母の針目は、誰かに真似される性質のものではなかった。
二十六年前のアルベリヒから王国に渡った二人のアンナのうち、わたくしの祖母にだけ、孫娘の右手があった。
それは、彼女の罪ではない。
伝令が去ったあと、応接の間に、長い沈黙が戻った。
「王太子の交代が、議論されているそうです」
と、ロタールは、わたくしの隣の椅子で、低く言った。
「儀礼違反を、王太子自身の判断で起こした以上、王位継承の見直しは避けられない、と」
わたくしは、頷きながら、針を、針箱の所定の位置に戻した。
王太子レーヴェの転落の三層——戴冠延期、婚約交渉の引き下がり、王位継承の見直し——を、わたくしは、辺境の屋敷の長机から、静かに見届けることになる。
わたくし自身は、もう、振り返らない。
秋の初めの朝、庭の薔薇が、二度目に咲き始めた。
わたくしは、応接の間の南の窓辺の長机で、針を持っていた。
祖母の手帳と、ロタールの母の手帳の編纂は、すでに、最終頁に差し掛かっていた。
残るのは、二冊を統合した「アンナ家系図紋」の完成稿——アルベリヒ王国紋章院への献本の一冊だった。
ロタールは、長机の隣の椅子に座っていた。
彼の膝の上に、わたくしが前日に刺し終えた一枚の絹が、広げられていた。
彼の指が、絹の上を、丁寧に泳いでいた。
五弁の花の中心、葉脈の三本筋、縁取りの粒目——彼の指は、それらを、順に、読み上げていった。
「完成しています」
と、ロタールは言った。
「二十六年前の紋章院の様式に、寸分の違いなく揃いました」
わたくしは、針を、絹の上に置いた。
針先の銀色の光が、朝の窓から差した薄い光で、わずかに反射した。
十年の終わりに、わたくしの十年が、二十六年前の紋章院の様式に、ようやく、追いついた。
「ヴェロニカ嬢」
と、ロタールが、わたくしの名を呼んだ。
いつもより、声が、半呼吸長かった。
「左の手を、お貸しいただけませんか」
わたくしは、左の手を、長机の上に静かに置いた。
ロタールの右の手が、わたくしの左の手の上に、ゆっくりと重なった。
彼の指の腹が、わたくしの手の甲に、絹の凹凸を読むときの速さで、止まった。
「あなたの薬指の関節を、読ませてください」
わたくしは、頷いた。
声を出す前に、頷いてしまった。
彼の指は、わたくしの薬指の根元の関節から、第一関節、第二関節へと、順に、ゆっくりと撫でていった。
関節の凹凸を、一つずつ、確かめるように。
わたくしの指は、十年で、針穴の跡で硬くなっていた。
彼の指が、その硬さを、丁寧に確かめていく。
「あなたを」
と、ロタールは、わたくしの薬指の第二関節の上で、指を一度止めた。
「私の妻として、迎えたい」
わたくしは、すぐには答えなかった。
十年、誰にも問われなかった針目の意味が、この瞬間、彼の指の下で「読まれた」のと同じ重さで、彼の言葉が、わたくしの薬指の上に置かれていた。
わたくしの返事を、ロタールは、急がなかった。
彼の指は、わたくしの薬指の関節の上で、静かに、止まっていた。
わたくしは、息を、ひとつ、整えた。
祖母の手帳が、長机の上で、薄く開いていた。
手帳の最初の頁の——わたくしが二十四年生きて、初めて読んだ一行——「アンナ・フォーゲル、アルベリヒ王国紋章院附属針子工房卒、ベルクハイム王国へ嫁ぐ」——その上に、わたくしの安堵の涙が、一筋だけ、落ちた。
紙の上で、文字の輪郭が、わずかに滲んだ。
「はい」
と、わたくしは、ようやく答えた。
声は、低く、けれども、震えていなかった。
十年分の沈黙が、その短い言葉で、ほどけた。
ロタールの指は、わたくしの薬指の上で、静かに、もう一度止まった。
そして、彼は、わたくしの手の甲を、もう一度、ゆっくりと撫でた。
撫でる動きは、絹の上を撫でるときと同じ、静かな速さだった。
けれども、その指の下にあるのは、もう、絹ではなく、わたくしの手だった。
彼の指は、十年を読み終え、いまは、わたくしを読み始めていた。
秋の半ば、わたくしたちは、アルベリヒ王国の紋章院へ、完成した手帳を献本した。
紋章院からは、半月後に、一通の書状が届いた。
わたくし宛ての書状だった。
差出人は、紋章院の現院長——ロタールの母アンナリーゼの、二十六年前の同期生の、最後の一人だった。
書状には、簡潔に、こう書かれていた。
——「アンナ・フォーゲルの孫娘、ヴェロニカ・ファロウェイに、祖母の家系を継ぐ針子の称号を贈る」
わたくしは、その一行を、長机の上で、二度読み返した。
祖母の旧姓「フォーゲル」が、初めて、わたくしの名前と並んで書かれていた。
二十六年、王国の宮廷で誰にも呼ばれなかった祖母の名が、紋章院の正式な書状の上に、孫娘の名と並んで戻った。
ロタールは、わたくしの隣の椅子で、書状の文面を、わたくしの読み上げで聴いていた。
読み終えると、彼は、ひとつ、深く息を吐いた。
「あなたの祖母は」
と、低く言った。
「孫娘の右手を、紋章院に戻されました」
わたくしは、頷いた。
祖母が二十六年抱えて沈黙してきたものを、わたくしの右手が、ようやく、紋章院に届けた。
祖母は、わたくしに針目を渡したとき、おそらく、そこまで考えていた。
「読み手がいるかどうかは、刺す人が決めることではない」と祖母は言った——その言葉の意味が、二十六年越しに、わたくしの中に、ゆっくりと落ちた。
カーランダール辺境伯邸の応接の間で、わたくしは、いまも、長机に向かって座っている。
祖母の手帳と、ロタールの母の手帳——二冊は、長机の中央に並べて置いてある。
わたくしの右手の中指の腹には、いまも、針穴の跡が並んでいる。
左の親指の関節は、糸の張りを測るときの癖で、わずかに角張っている。
十年で身体に残った輪郭は、辺境に来てからも、変わっていない。
ロタールは、わたくしの右隣の小机で、紋章学の論文を口述している。
口述筆記の侍従が、彼の言葉を、丁寧に書き写している。
時折、ロタールの左の手が、長机の縁を渡って、わたくしの右の手の甲の上に、ゆっくりと乗る。
わたくしの指の上に、彼の指が、覆うように重なる。
彼の指が、わたくしの指の関節を、もう一度、読む。
わたくしは、針を、止めない。
祖母の手帳の図案を、わたくしは、いまも、毎日、一頁ずつ、絹に刺している。
庭の薔薇の二度目の盛りが、もうすぐ終わる。
けれども、わたくしたちの編纂は、まだ、終わらない。
——半月ほど前、王宮の伝令が、もう一度だけ、辺境邸を訪れた。王位継承の見直しが議会で正式に発議された、という報告と——王太子レーヴェ殿下からの、書状一通。封を開けたのは、ロタールだった。文面を、わたくしには読まずに、彼は静かに暖炉の脇の書架へ収めた。「読まずに、置いておきます」と低く言った。読まれない手紙が、辺境の書架で、一冊、増えた。
わたくしは、振り返らない。
わたくしの右隣で、ロタールの指が、わたくしの指の上に、覆うように、置かれていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この短編は、「見えない仕事は、見えない目で読まれていた」という一つのテーマを、十年と五年という二つの時間で交差させたかった作品でした。
令嬢の十年は、誰にも意味を尋ねられない刺繍の時間でした。祖母から教わった針目を、ただ「祖母がこう刺せと言ったから」だけを支えに続ける時間は、報われない種類の労働だったかもしれません。一方で、盲目の辺境伯の五年は、視力を失った夜から、自分の指が「読めるものは何か」を問い続ける時間でした。母の遺品の刺繍布から、王宮の祝祭で公開される戴冠衣装の切れ端まで、彼の指は、夜ごとに、誰かの十年を撫でていました。
二人の時間は、視覚を介さずに、ようやく一つの長机の上で重なります。刺し手の指と、読み手の指。二十六年前にアルベリヒ王国から王国へ嫁いだ二人のアンナの紋章手帳が、孫娘と息子の手の中で、ようやく再会する夜。祖母の沈黙と、母の遺品が、二十六年越しに、紋章院に戻る秋。視覚を介さない関係は、十年の沈黙より深いところで、互いの輪郭を確かめ合えるのではないか——という、わたくし自身の小さな問いを、この短編に込めました。
祖母の「読み手がいるかどうかは、刺す人が決めることではない」という一言が、この物語の中心にあります。読まれなくとも、刺す。けれども、読み手は、いる。その両方を抱えて生きる人の手を、わたくしは、いつか書きたかったのだと思います。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
▼ 公開中
・「お前の授業など読み書きだけ」——十年前の生徒が辺境伯となって訪ねた朝(N3164653)
・「薬草など雑草の見分け」——薬師令嬢が消えた夜、学者が「庭は私が守る」と現れた朝(N3164652)
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