第1話 アマミヒメ
【島・西側の森】
背後で、巨大な獣が動く気配を感じる。
だが振り返る余裕はない。
密集する木々が自分を隠してくれることを祈りながら、アマミヒメは森を走っていた。
腕を振り、足を前に出す。
身体中に酸素を送りこもうと、息は荒くなり、心臓の鼓動が速くなる。
熱を少しでも逃すため汗が吹き出る。
新たな命を得たこの身体を、こんなところで終わらせるものかと、全ての細胞が叫んでいる。
(やっぱり…)
アマミヒメは確信する。
これは、私の身体だ。
でも、なぜ?
私は死んだはずなのに。
今、再び肉体を得ている。
私がもっとも強く生きていた、あの頃の姿で。
***
数分前。
太古の密林を思わせる鬱蒼とした茂みの中で、アマミヒメは目を覚ました。
外見は20歳前後。腰まで流れる長い黒髪に、白を基調とした古代日本の巫女風の衣装。
翡翠の勾玉の首飾りと金の髪飾りは、彼女がいた社会での身分の高さを示している。
湿った土の匂いで自分が横たわっていることに気づき、身体を起こす。
視界が徐々に焦点を結んだ。
(ここは…?)
目に入ったのは、見たことのない植物だった。
シダのようだが、アマミヒメの知るシダより大きく、葉も分厚い。
見上げると、木々の隙間から青い空が見える。
日は昇っているようだが、木がところ狭しと生えているため、森の中は薄暗い。
次にアマミヒメは、自分の身体に注意を向けた。
手。足。感覚がある。
顔の前に手を持ってきて、見つめる。
一度握って、開いてみる。動く。
息を吸うと、湿気を含んだ空気が肺に広がる。
その中にかすかに潮の香りがした。海が近いのだろうか。
(生きている…?)
たくさんの疑問が浮かんでは消えていった。
だがそれは前方の茂みが揺れる音で突如中断された。
目をやると、そこには巨大な生物がいた。
(ーー逃げなければ!)
その生物の風貌は、瞬時にアマミヒメにそう決断させた。
鮮やかな羽毛に包まれた鳥のような姿で、アマミヒメの背丈を超える大きさがある。
巨大な嘴と鋭いカギ爪は、明らかに捕食者のそれだ。
アマミヒメを見ている。
丸腰のアマミヒメが勝てる相手とは思えなかった。
アマミヒメはその巨大な鳥から視線を離さず、ゆっくりと下がっていく。
そして、茂みに飛び込み走り出した。
***
走っている。
そのことにアマミヒメは小さな感動を覚えていた。
私は病に冒され死んだ。動くこともできず、苦しかった。
なのに今は体が軽い。やはり若返っている。
まるであの頃ーー邪馬台国の女王だった頃に戻ったみたいだ。
邪馬台国。
かつて倭国と呼ばれていた日本に存在した、代々女王が鬼道を持って治めていた国。
歴史に消えたその国の、アマミヒメは最後の女王だった。
国が滅びた後も生き延びて、最後は病で死んだ私が、なぜここにいるのか。
そもそも、ここはどこなのか。
分からないまま、アマミヒメは走る。
「キイカ…」
口をついて出たのは、邪馬台国最後の日に、自分を逃がしてくれた友の名だった。
キイカ。
私のたった一人の友達。
そして、私が見捨てた友達。
もしここが死後の世界なら、あなたに会えるかしら。
***
森が途切れると、そこは海に面した砂浜だった。水平線の向こうには何も見えない。
波は穏やかだったが、アマミヒメは胸の奥に冷たいものを感じた。
この海は、外に出るためのものではない。
私はこの地から逃げられない。
確信だった。
走ってきた道を振り返ると、巨大な鳥の姿はなく、アマミヒメは安堵する。
先程までいた森の向こうには山があり、その中腹には建造物のようなものが見える。
遠くて判然としないが、倭国にはない造りの建物のように思えた。
ーーアマミヒメ…
突如、頭の中に声が聞こえた。
アマミヒメは息を呑む。
「誰?」
ーーアマミヒメ、聞いて。僕はあなたの味方。ここは、あなたが元いた世界とは異なる世界にある島だ。あなたは一度死んだ。けど、魂がここに呼ばれて、新たな肉体を得た。
「異なる、世界…?」
ーーこの島の中央に、歴史を変える力を持つ『書』がある。ある条件を満たせば、その『書』を1行だけ自由にできる。書き加えることも。消すことも。歴史を書き変えることも。
(歴史を…)
アマミヒメは頭の中で反芻する。
(変えられる…?)
「あの、歴史を変えるって…」
アマミヒメは問おうとして、口をつぐむ。
許される問いなのか、自信がなかった。
だが、声はその問いに答えた。
ーーうん。できるよ。邪馬台国を勝利させることも。キイカの、死の運命を変えることも。
ドクン。
アマミヒメの心臓が大きく跳ねる。
キイカ…。
今でも分からない。あの日、決めたことは、正しかったのか。
「どうすればいいの?条件って…?」
アマミヒメの問いに、一拍置いて、声が応えた。
ーー条件は、殺すこと。あなたと同じくこの島に呼ばれた、5人の亡国の王女を。




