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柔らかな午後の日差しが木々を斜めから照らしていた。
夏はもう過ぎようとしており、午後の日差しも柔らかく長い。ただ、影はいまだはっきりとしたコントラストを木々に描いていた。地に落ちた淡い緑の影に、白黄色と灰色の葉影がちらちらと重なり、いつかの夜に視た喫茶店のステンドグラスのようにも視える。
上条謙太は、帽子のつばに手をかけ、深くかぶりなおした。帽子から覗く短い髪が、陽の光に透かされ金色に光る。
謙太はこの白澤大学法学部に通う2年生だ。故郷から離れての一人暮らしも、そろそろ2年になる。
大学生活は特に問題なく過ごしている。この大学には高校時代の友人も多く通う。そうでなくとも、人見知りでもなく、一人でも特に気に病むこともない彼にとっては、毎日が友人と一人の繰り返しで常に「自由」だ。広い構内は木々が多く、池もある。郊外にある大学のせいか、時に全く別の空間のように感じられる。それも謙太がこの大学を選んだ理由だった。
謙太は大学の正門まで来ると、門柱に寄り掛かった。
切れ長の二重、すっきりとした鼻立ちとしっかりした顎、首筋、そして幅広の肩。彼について、友人の陽介いわく「人寄せパンダ」だそうだ。
彼自身は人が集まる場は好きでも嫌いでもないし、人集めの為に呼ばれても特に気にもならない。陽介たちお目当ての女の子が来ても来なくても、酒代は陽介たちが出してくれる。それに、これまでお目当ての女の子たちが来なかったことなど無い。全勝なのだ。
「よお、謙太。待ったか?」
桜井陽介がひょっこり門柱の後ろから顔を出した。飯塚 明も一緒だ。
この二人とは高校も同じ同級生で、陽介は経済学部、明は教育学部に在籍している。
「今日は参加ありがとな。お前、ゆきちゃんには何て言ったんだ?」
「……別に、合コンの人数合わせ。人寄せパンダって」
「ごめんな、お前彼女持ちなのによ」
「ゆきもお前らに彼女早く出来たらいいねってさ」
「うわー、余裕こいてる」
羨ましそうな顔で、陽介が謙太をこづいた。
「まだ時間あるから、タワレコ寄ろうぜ」
日は傾き始めていた。3人はてんでに喋りながら、歩き始めた。
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「初めましてー。君、謙太君?」
店内は柔らかなオレンジ色の明かりが広がり、談笑する男女の影でざわめいている。それを背に、誰かが話しかけてきた。
艶やかに光る柔らかそうな茶色の髪、意志のはっきりとした瞳。甘い香水の香り。首から下のまろやかな曲線。
「そうだけど」
曖昧な返事を聞くと同時に、彼女は謙太の隣に身体をねじ込んできた。
「わたし、経済学部2年の吉岡花音っていうの。初めてだよね。よろしく」
ノースリーブから伸びる上腕部から目を離し、謙太は斜めに花音の顔に目をやった。合コンが始まったから1時間以上は経っている。自己紹介から始まり、すでにテーブルのあちこちで、グループが出来ていた。
謙太は、あぶれた男性メンバーや友人が集まるテーブルに座っていたが、そこに不意に割り込んできた花音に、面々がてんでに話しかけた。
「かのんちゃんて言うの? 俺は教育学部の飯塚です!」
「かのんちゃんの名前って、どういう漢字なの?」
あちらこちらからの質問をあっさりと受け流し、花音は謙太の顔を覗き込んできた。酒の席のせいか、顔が近い。謙太は少し居心地が悪くなって軽く身を引いた。
「謙太君、法学部だっけ。結構名前聞くから、今日は楽しみだったんだ」
「……名前聞くって言われても、俺、君のこと全然判んないんだけど」
面倒くさい、とグラスに目を落としながら、酒を一気に飲み干した。
人寄せパンダとしては、ここで目立つのはご法度である。チラと視線を上げると、花音に相手にされない連中が全員俺を見ているではないか。
まあ、飯も食ったし酒も飲んだ。頃合いだしそろそろ抜けるか。
「ごめんね、俺用事があるからさ。あいつらも面白い奴らだから、話してみたら」
「えー、そうなの? 謙太くん来るって言うから、来たのになぁ」
「悪い、彼女と約束しててさ」
「彼女、いるの?! えー、がっかりー。いるかもとは思ったけど」
天を仰いで悔しがる花音に軽く笑顔を見せて、謙太は立ち上がった。
「ちょっと待った! 謙太君、メアド交換しようよ! 折角だからさ」
俺、飯塚です!と突き出されたスマホを押しのけ、花音が謙太へスマホを差し出した。
「いや、急いでいるから次の機会でいい? まじ彼女待ってるからさ」
「えー! いいじゃん、すぐ交換出来るから!」
このコ、意外と粘るな。だんだんと鼓動が高くなる。周りを見ると、高くなるかのんの声に反応して、ちらちらとこちらを気にする者も出てきた。
いつもは一通り話した後、席替えのタイミングで抜けるのだが、今日は少し遅かったかもしれない。アルコールが入って大胆になっているのか、花音も引く様子は無い。
陽介と明はというと、はらはらした様子でこちらを見ている。見てないで、助けに来てくれ。
「じゃあさ、彼女待ってるなら仕方ないから、次みんなで呑もうよ。だから、交換しよ?」
楽しそうな笑顔で花音が提案するので謙太も笑顔で返すが、そろそろ限界だ。本来、謙太自身は目立つのが好きじゃない。特によく知ってる訳でもない女の子に絡まれても好かれても迷惑だ。周りで笑い声が弾ける。その声で花音や周りの同級生達の声が砕かれはじき飛び、目の前がぼんやりと霞んできた。
謙太は、強引に陽介たちに声を掛け、花音が居た辺りに適当に笑顔を向けて帰ろうとした。花音が何か一生懸命話しかけてきているが、もう面倒くさい。
「すいません、ちょっといいかな」
その声が聞こえた一瞬、頭の中に光が入ったようだった。
それとも、直接頭の中で声がぱっと立ち上がったような妙な感覚。
慌てて回りを見回すと、目の前に白い面影と黒い髪、大きな眼が見えた。
目も大きいが、瞳も大きい。黒い瞳に見えるが、その中に光があるようだった。
「ほら、花音。呑み過ぎ、迷惑かけてる。酔い醒まさないと」
頭の中に立ちあがる声は、涼やかな、という表現が似合う。声と大きな黒い瞳をぼうっと見ていた次の瞬間、黒い瞳がはたとこちらを正面から見据えた。その途端、海の底で聞いてるかのような室内の喧騒が一気に輪郭をあらわにする。
「ごめんなさい、この子、いつもはお酒失敗しないんだけど、今日は疲れてたみたい」
「……いや、いいよ。俺は大丈夫だから、その子見てあげて」
黒い瞳は大きく、吸い込まれるようだ。すっと通った鼻筋、形のいい唇。輪郭をかたどる肩までの黒い髪は、柔らかにうねっている。
「あー、咲ちゃん。どこにいたのよぉ」
「はいはい、隣のテーブル。さっきまで一緒だったでしょ。ほら、外に出るよ」
騒ぎが収まったことで飲み会の空気も元に戻り、ざわざわとした声と人の感覚が弾けぶつかり合う。その中で「咲ちゃん」の声は妙に明晰に謙太の中で響き合っていた。
「謙太、どしたのさっきは」
気になったのだろう、陽介と明が側に寄ってきた。
「うん、……まあ絡み酒かな」
「珍しいね、お前いつも抜けるタイミングはいいのに」
そういやそうだ。
今日は心が何だか一枚見えない布で覆われてたみたいで、いつのまにか「その場」に居合わせてしまったようだ。
「次は気をつける。今日は、これで帰るよ」
謙太は、花音と『咲ちゃん』が出てった扉に目をやった。
「おお、気を付けてな。今日はありがとう」
「謙太姫、出る時気をつけろよ。吉岡さん達まだ近くにいると思うぜ」
「うるせえ」
ふざけて頭を撫でてくる手を振り払い、謙太は店の扉からそっと外を覗く。
店に面した道はまだ明るく多くの人が行きかっている。意外にも吉岡花音と『咲ちゃん』の姿は無い。近くを歩きながら酔いを醒ましているのだろう。
ホッと一息つき、謙太は帰路についた。