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作者: 秋月 周

 いつもの仕事帰り、私はある道に入った。一本の道から大量に派生している道の内の一つ。大樹の幹から分かれた枝のような道。その道は上から俯瞰すると、美しく、しかし間違えた方向に曲がっていた。曲がって、曲がって、曲がって。ぐるぐるに捻れて、果てには元の進行方向とは逆──大樹の頭から地面に向かう方向──に伸びてゆく、長い、長い道。

入ってはいけない道だ。


 道をしっかり見据えると、大学の友人の姿が見えた。皆で昼食を取っている。その場に私はいない。どこにいるのだろうと考えて探して、とある講義室に辿り着いた。そこで、いつもの窓際の席で、一人ぼーっと、その友人達を眺めている男が一人いる。

中庭がよく見える講義室だ。

女が一人、ドアを押し上げて入ってきた。ドアはキィィと鳴った。どうやら窓際の席の男はその音に気づいたようで、女の方を見る。見目麗しい女だ。長い黒髪はよく手入れが施されていて、絹のような光沢を放っている。後ろで結い、全体的に毛先を遊ばせている髪型は、女の美しくあどけない童顔を際立たせている。フェミニンなファッションに、唇には真紅のリップという出で立ちであった。


 この女は、大学時代に私がよく一緒に飯を食っていた女だ。


 女が男に近づく。徐々に、徐々に。階段を一段降りて、また降りる。二十メートル、十五メートル、十メートル。五メートルの時点で、女は立ち止まる。何やら決心がつかない様子で、その場で黙って俯いてしまった。男は、女に聞こえないように

「はぁ」

と一息ついてから足を踏み出す。女に近づく。女は男の様子に気づいた様子で、少しばかり顔をあげる。腕を伸ばせば触れられる距離に至った途端、女は顔を上げて、男を見つめた。一分ほど見つめた末に、女は小さく口を動かした。男は何も言わずに更に近づく。女の手に触れた。先程よりも目元に涙を溜めながら上目遣いで男を見る。男はまたもや何も言わずに、腰に手をあてがい、ゆっくりと顔を近づける。

二人の男女は共に大学を抜け出した。昼下がりの終わり際、男女は男の家に居た。電気を消して、カーテンを閉めて、お互いにベッドの上で体を密着させる。纏っていたフェミニンは、カーテンの隙間から漏れる光によって床で照らされている。翌日、大学構内に男女の姿はなかった。


 もう少し道を歩く。途中、サッカーボールが落ちていた。拾い上げる。六角形のど真ん中には「桜木悠」と書かれている。誰のものだろう、そう思い周囲を見渡すと、道の遥か先に人影が見えた。

あの子の物に違いない。私は駆け出した。

人影の肩を叩く。振り向きざまの顔から察するに、どうやら男子高校生らしい。高校生に無機質にボールを差し出すと、彼は満面の笑顔で受け取った。瞬間、彼はその場を物凄い速さで離れた。


 なぜだろう。


彼が遠のいてからもじぃっと見やっていると、その理由は明らかになった。彼はサッカー部で、なんと試合の途中だったらしい。

 アディショナルタイム終了五分前、これ以上の延長はありえない。ふっとコート外に降り立った私は、周囲を観察する。得点版には「城ヶ崎」と「宮下」と書かれていた。四対四で互角の勝負である。

背番号1を背負う宮下高校の彼は、必死に食らいつこうと意地でもボールを保持する。彼には分かるのだろう。たかが五分。されど城ヶ崎高校の生徒は、その五分があれば得点できる気力と体力と、情熱を持っているのだと。

「ピピィィー!」

と審判がホイッスルを鳴らす。アディショナルタイム終了の合図だ。

全員、空を見上げて大きく喘ぎながらも、ペナルティキックの体制に入った。宮下高校の一人が蹴る。ボールはキーパーの手を掠めて、ネットに収まる。城ヶ崎高校が蹴る、入る。交互に四人目まで、互いに外さない。

 五人目の宮下生、それは彼だった。一段と緊張した様子で、サッカーゴールを睨む。彼の心臓の鼓動はサッカーコートに、いや、全国大会優勝を賭けた会場全体に響き渡っていた。その場の全員が静まる。彼が地を蹴る。ボールに向かって、闘志に滾ったその左脚を思いきりぶつける。左で蹴ったはずのボールは、なんと大きな孤を描く軌道でゴール左上に収まった。

「うぉぉぉおお!!」

会場がドッと沸く。チームメイトも彼に集まる。三年キャプテンの彼は、一瞬の歓喜の後

「油断はいけない。それは勝った後にしよう。俺も堪えるから」

と、チームメイトを宥めた。

ついに、城ヶ崎高校五人目のキッカー。キッカーは自信に満ちた様子で、サッカーゴールを見据える。蹴った。ボールは綺麗な真っすぐの線を描いて、ゴール右上へと吸い寄せられる。

キーパーは追いつこうと、既に限界の脚を無理やり動かし、左の拳を突き出す。

ボールは拳に当たらなかった。

ゴールポールに当たった。

ボールは弾かれる。大きく、大きく弾かれた。そのままネットには入らず、城ヶ崎高校のボールはコートの端で死んだ。

 会場は歓声で包まれた。選手たちの雄叫びは、会場のみに留まらず、地球全体へと響き渡った。高校サッカー日本一、宮下高校誕生の瞬間だった。

閉会式、写真撮影、打ち上げ…全てが終わった後、彼は私に向けて特大の笑顔を放った。


 さらに道を歩く。道は中学校の図書室に繋がっていた。私の母校、文田中学校だ。

貸出受付カウンターに最も近いテーブルの椅子に座り、しぃんと静まり返った周囲を見渡す。そこで私は気づく。図書室中央の長テーブルの椅子に、たった一人でぽつんと座っている生徒が一人いる。


 桜木悠だ。そう、あそこにいるのが、私だ。


この道に入ってから、私は初めて目を見張った。図書室のスライドドアが、がらがらぁと開いたかと思うと、ある一人の女生徒が入ってきたからだ。絹よりも美しい光沢を放つ長い黒髪を持ち、あどけなさが抜けきらない、可愛らしい童顔の女性徒、柊優だ。


 ああ、そうか。優ちゃんとの待ち合わせか。それでいて、卒業式直後だから図書室には人がいないのか。そうかそうか、あの日か。


いつの間にか二人は隣合っていた。いつものように会話が繰り広げられる。

やがて二人は席を立つ。私は自制が効かなくなり、優ちゃんの腕に手を伸ばす。

「あっ…。えっ、あぁ」

間抜けな声だ。きっと顔も間抜けだろう。すり抜けさえしなければ、こんな醜態は晒さずに済んだのに。やはり道は残酷だ。入ってはならなかった。

いつもの帰り道、二人の後ろをついていく。今から家に向かうのだ。


 優ちゃんの家だ。久しぶりだな。


家の直前、最後の信号で二人は立ち止まる。私も立ち止まる。

「悠君!車来てないし、渡っちゃお!」

「え、だめだよ優ちゃん。もう目の前なんだし、ちゃんと待とうよ」

「むぅ…悠君のケチ」

会話は続く。信号は青になる。二人は歩む。

家に辿り着き、ドアに手をかけ、開けた瞬間、優ちゃんが言う。

「今日…ね。私のお母さんとお父さん、いないの」

 私は、玄関横の庭で座り込んでいた。今の柊宅に入る勇気が、私にはなかった。


 スーツが汚れてしまうだろうか。


午後四時頃、二人は家から出てきた。

 

 なんていうか、大人になったな。


互いに気恥ずかしそうにしている。玄関前の階段で二、三分、二人は密着して、それから優ちゃんが顔を上げた。

「悠君っ、こっち、向いて…?」

私が顔を上げながら言う。

「なんていうか、今日はありがとう。今度は僕の家に──」

言いかけて、「僕」は気づいた。優ちゃんの顔が近い。

 

 近い、近い近い近い近い!


そのあと、優しく押し当てられたソレは、ものの数秒で離れてしまった。

 

 幸せだ。死んでもいい。


「…えへへ、なんでだろ。恥ずかしいね」

僕は無言を返す。

「さっ、帰ろっか。信号まで送るよ」

「…うん…ありがとう、優ちゃん」

そして、二人同時に立ち上がり、二人同時に歩を進める。

 優ちゃんは信号前で、大きく声を張り上げて言った。

「悠君、私、今、世界で一番幸せー!」

「僕もだよ」そう言いかけた時、優ちゃんは飛び出していた。

道路の真ん中で、くるくると、バレエを踊っているかのように回っていた。


ああ、なんて愛らしいのだろう。


そうして優ちゃんは、大好き、と大声をあげている。だめだよ、と優ちゃんのもとへ駆け寄ろうと、歩み寄る。すると音がした。

ゴムの擦れる音。

ギュルギュルギュルッ、とゴムが削れる音。

ガガガガッ、とコンクリートが削れる音。

僕は青ざめた。優ちゃんは気づいていない。どうしよう、どうしよう、どうしよう、どう─






 一瞬だった。五トントラックが、優ちゃんの身体を数十メートル先の壁まで押し出すのは。

ぐちゃぐちゃだ、何もかも。頭も、首も、胴体も、腕も、脚も。

片方の目玉が道路に転がっているし、うなじからは頚椎が飛び出していた。

髪が何本も抜けている。

全身から血がだらだらと止まらない。後頭部は激しく打ち付けられ、陥没している。

右腕の肘が九十度逆に曲がり、左腕は肩から先がない。脚は両方とも、どこかに吹き飛んだ。たぶん、歩道沿いの家のどこかだと思う。

 トラックが後ろにさがる。ドサッと優ちゃんが落ちてくる。同時に、もう片方の目玉も落ちてきた。背中が曲がって、顔面がコンクリートの地面に叩きつけられる。ぶちゃっと、そんな鈍い音が鳴った。赤く染まった歯が、僕の足元に転がってきた。

 壁があったから、いけなかったのか?僕がしっかり優ちゃんを静止できたなら、こうはならなかったのか?それとも、トラック運転手のいいかげんな運転がなければ…?

「私」はふと我に帰った。私は、膝から崩れ落ちた私のことを、一歩後ろから見下ろしていた。なんの躊躇もなく全力で優ちゃんを抱きしめる私からは、圧倒的な若々しさを感じた。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

私は、私の絶叫を聞いた。そうして静かに、目を閉じた。


目を閉じた先は我が家の玄関だった。

「柊」

表札にはそう書かれている。

私は、籍を入れていた。子供もいる。大学時代の女のお腹の中だ。二ヶ月目である。私は楽しみで仕方がない。


名前は「優」だ。


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