妄想の瞬き
生きているというのは意識の妄想であり、死というものは一時の瞬きのようなもの。自我は連続しているという確信の無い妄言を信じ、ただ歩むことが人生というのだろうか。確たるものなど何もない、先に進む事がどうしてできるだろう。
一瞬、一瞬の電位が意識であり、人間であるのならば、まぶたを開くその瞬間、その瞬間こそ生きているという事だ。高まりを感じて、発火し、伝達されるのであれば、それが意識でありその人なのだろう。一体どうして、自身が維持されることを確信しているのか。
提唱、定義、再認識。脳は新たに意識を生じ、生じ、生じて行動となる。それの何処に人がある、認識さえも出来ぬ意識があり、ただ操られるのみ。分離脳により、意識が統合さえされなかったとして、それすらも認識していないでは無いか。それの何処に己が在り、人が有ると言えるのか。
瞬き生じ、瞬き生じ、そして瞬き生じ。それを繋がっていると誤認して、人は生きていると妄想する。眼の小さな視界を継ぎ接ぎで、盲目的に見えていると同じ事。目を閉じたその瞬間、瞬間に人は死にゆくのだ。
だから、何を心配するべき事もあるだろうか。過去にとっての思い込みの他人であり、未来もまた思い込みの他人なのだろう。この苦痛も、迷いも、刹那の傷となるだけだ。
私たちは妄想の中に生きている。一時の、瞬きと瞬きの刹那の中に生きている。生じゆく意識は連続していると錯覚しているが、その証明が出来る事は無いのだろう。確たるものなど何もない、今も先など無いように、消えてしまうことに恐れる必要なんて無いだけだ。