桃
外はひどい雨である。
私は母のむいた桃を摘まみながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。人間、こういう時には物思いに耽ってしまうものらしい。
窓から見える針葉樹の葉が雨の雫をたらしながら、私の古い記憶を少しずつ蘇らせた。
彼女はいつも泣いていた。私は彼女の笑顔を見たことがなかった。
私達が出会ったのは、私が六つで彼女がたぶん十五だったと思う。小学校の帰り道、公園のベンチで彼女が泣いているのを見かけたのだ。その時私は見てみぬふりをして通り過ぎたが、それからも毎日彼女はそこで泣いていた。
ある日、私は彼女に声をかけた。きっかけなど覚えていない。小学校一年生が、何を思ったのか泣いている中学生に声をかけたのだ。
夕方の公園は人通りも少なく、遊んでいる子供達もまばらだった。
交わした言葉も覚えていないが、私が差し出したハンカチを握り「ありがとう」と笑った顔だけは、妙に記憶に焼きついている。
その日をきっかけに、私達は毎日その公園で話をするようになった。といっても、私はほとんど聞き役で、彼女の話にウンウンと頷くだけだった。
彼女はひどく悩んでいた。
学校では友達と上手くいかず、家では両親が喧嘩ばかり、そうして確か進路のことでも悩んでいた。
「もう、どうしたらいいのか……分からないんだ」
話の最後に必ずそう言って、彼女は泣いた。
まだ幼い私にも理解できぬ話ではなかったが、どうしてあげる事もできず、ただ話を聞いていた。別れ際、彼女はいつもにっこり笑い「ありがとう」と言った。
しかし、私は彼女が本当に笑うのを見たことはなかった。
夏休みが始まり、私は彼女と会うことがなくなった。休みの間、私は何故か彼女のことを一度も思い出さなかったのだ。学校の宿題や家族旅行、仲良しの友達ともたくさん遊んだ。
しかし、公園には全く足を向けなかった。
私は本当に楽しいひと夏を過ごした。
二学期が始まった。学校の帰り道、私はふたたびあの公園へと足をふみ入れた。
しかし、彼女はどこにもいなかった。
ベンチにも、ブランコにも、ジャングルジムにも、すべり台にも……。
彼女がいないのなら、さっさと家に帰ろうと、私はきびすを返して公園を出ようとした。
そうして、見たのだ。
西の空に、真っ赤な夕陽を。
それは、彼女と見たどんな夕焼けよりも美しく、悲し気だった。まわりの雲を朱色に染めて、美しく、美しく、燃えていた。
「あっちよ、あっちに天国があるの」
いつか、彼女が指差したのは西だった。夕陽だった。
「私たちは皆、死んだらあそこへ行くの」
彼女とは、二度と会うことはなかった。
外の雨は少し落ち着いて小降りになった。母が桃の皿を流しへと運んでいく。
私は追憶から覚め、高校生の自分を確認した。もう、ずっと昔の話だ。彼女はどうしたのだろう、どうなったのだろう。
そうして、私は……。
今の私には悩みなどない。どうすればいいのかと思い悩むことが、ない。
ただ、苦しむだけ。逃れようとするだけ。泣くだけ。耐えるだけ。
彼女はなぜ悩んでいたのだろう。悩んで、考えて、自分が出した結論に、納得できるとでも思っていたのだろうか。悩んで決意し行動すれば、何かを変えることができるとでも思っていたのだろうか。
私も一時はそう考えた。そう信じていた。けれど、今はもう……。
ただ、諦めてしまう。
また雨がひどくなってきた。
私は久しぶりに「泣きそうな気分」というのを味わったような気がした。