シリウスと月はピアノの上で戯れる
一 シリウスは月の出を待つ
風星が何でもない段差につまずいたり、教科書を逆さまに見てたりするのに気づいたのは確か小学二年生の秋だった。そのことをお母さんに伝えたら、その日のうちに教えてくれた。
「風星ちゃんのお母さんに訊いたら、目の病気なんですって」
お母さんが晩ご飯の片づけが終わって、お茶を飲みながら言ったのをよく憶えている。
「よくなるんでしょ? すぐに」
「……それがね。ダメらしいの」
「ダメって?」
嫌な予感ってこういうのを言うのかなって思った。
「だんだん視力を失っていくんだって。おそらく失明するってお母さん泣いてたわ。誰にも言えなくて苦しかったんだって。よくあんたが気づいてくれたって、これからも友だちでいてって」
ぼくは言葉を失ってしまった。気づいたってどうもなりゃしない。風星はどんな気持ちなんだろう。失明って考えるだけで怖い。その日は早くお布団に入ったが、暗闇の中で喉を締めつけられて、深い穴に落とされるような恐怖を覚えて、何度も目が覚めた。……お母さんもお父さんも泣きやまないぼくを心配して、質問にいろいろ調べたりして丁寧に答えてくれた。
次の日、風星の顔を見るのが申し訳ないように感じたけど、頑張って声を掛けた。
「おはよう!」
「うん、おはよう」
風星はぼくの口調の微妙な変化を聴き取って、その原因も察したと思う。風星はそういうやつなんだ。
たぶん彼女の母親から、ぼくのお母さんに失明するって話をしたのを聞いていたはずだ。その顔は引きつっていたが、彼女も平静を装って返事してくれた。今、思い出してもこれまでどおりでいてくれようとした風星の勇気には驚きを禁じ得ない。
それからぼくは風星の友だちであり続けるために努力を始めた。行き帰りに付き添うのはもちろん、どんなに同級生に冷やかされてもノートを取ってあげたり、音楽のリコーダーの時間に小さな声で「次はソ、ファ、ラ」と教えてあげたりした。彼女はとても音感がよかったから、すぐにリコーダーの補助は必要なくなった。
風星の家ではノートいっぱいの字で太い油性ペンで宿題を書いたりした。自分でもあの頃のぼくはなかなか大したものだったと思う。小学校を卒業する前に風星は失明した。
「いいんだ。十年以上も世界を見れたから。この記憶を大切にして生きていくの」
涙をぼろぼろ流してるくせにと思ったけど、もちろんそんなことは言わない。鼻をすすり上げないように用心するだけだった。
風星が視覚特別支援学校の中等部を受験することになったので、ぼくも近くの同じ大学の附属中学を受験した。偏差値が相当高いところだけど、勉強は嫌いじゃないし、過去問を見てコツがわかったのであまり苦労せずに合格できた。お母さんは風星ちゃんのお蔭で受かったのよと誰彼なしに言っていた。正直なんだろうが、子ども心にもちょっと配慮がなさすぎると感じた。
ぼくがブレザーの制服を着ていると聞いて、風星は異常に関心を持った。
「ねえ、どんなのよ。詳しく教えなさい」
無遠慮にべたべた触るのも中学生なんだからやめて欲しいけど、触ることが見ることの代替だから我慢する。
「ふつうのブレザーだよ。風星だって着ればいいじゃん」
彼女の学校は服装は自由だから、なんちゃって制服を買えばいいだけだ。
「はん! 何言ってんの? 本物だから萌えんじゃない」
こら、ネクタイを引っ張ると苦しいって。
「そういうものか」
「決まってんじゃん」
中学二年生になってぼくらは思春期になったらしい。
「この服、似合ってる?」
「似合ってるよ」
似合ってないなんて言ったら何をされるかわかったもんじゃない。
「ちゃんと見てる?」
「ちゃんと見てる」
風星はめちゃくちゃ勘がいいから視線を逸らしたらこれまた大変だ。しかし、女の子を凝視するのは無性に恥ずかしい。
そんな拷問の時間の最後に、これでも見てセンスを磨きなさいと言われてJCが読む雑誌を何冊も渡された。言われたとおり家に帰ってからしばらく読んでみた。
「ふざけんな! 付録のポーチって、こんなぺらっぺらな変な色のなんか要らねえよ! ただでさえ、盲導犬ってバカにされてんのに使えるかよ! 何が専属モデルだよ。風星の方が何万倍もかわいいじゃないか!」
雑誌と付録を本棚に叩きつけた。いつも伏せ目がちな風星は文句なしにかわいらしかった。ちょっかいを掛けようとするぼくの同級生は何人もいたけど、視覚特別支援学校だと知ると黙って去って行った。もちろんそれは仕方ない。変な揶揄いや誹謗中傷を浴びせたりしないだけ受験勉強を頑張った甲斐があったというものだ。
風星は幼い頃は「とっても大事な人、将来のお婿さん」と言ってくれてたのに、中学校の同級生には「よくある幼馴染みよ」としか紹介してくれなくなった。同級生には弱視の子もいて風星の肘を突っついてひそひそ話をしていた。
「やな感じ。ぼくの顔を見ながら笑ったりして、あれなんだよ」
「ああ、あれね。あんたって割とイケメンだって話よ」
そんなにあっさり言われると信憑性があるのか、ないのか。しかし、迂闊なことは言えない。
「全盲だって女の子はイケメンが好きなの」
「そうなの?」
さっぱりわからない。
「うん。だって、いい匂いがするじゃない」
病気が始まって間もなく始めたヴァイオリンは上達が早かった。週に一回のレッスンにもちろんぼくは付き添ったが、CDを一、二度聴くだけで記憶し、難なく弾きこなせるようになるのにはびっくりさせられた。ぼくもクラシックをつられて聴くようになった。
「ヴァイオリニストになったら? それがいいよ」
そういう話は彼女の両親や先生からもあったらしく、即座に答えが返って来た。
「ならないよ。わたしは器用なだけ。それを勘違いしてヴァイオリンの道を進もうなんて考えたら、絶対痛い目に遭う。だから、わたしは音楽科なんかには行かない」
「別に音楽科でも普通科でもいいよ。そんなことじゃなくて、努力してみないとわからないって言ってるだけだよ」
「わかるよ、それくらい。……ヴァイオリンとは仲良しでいたいの。才能もないのに無理したらきっと嫌いになる」
その時は風星に似合わず、弱気だなとしか思わなかった。
高校に進学した。建て前はともかく二人とも内部進学のようなものだから出席日数と定期テストをクリアしてればOK。ぼくも私服でいいことになったけど、かえって毎朝の服選びが面倒になった。
敷地が近いとは言え、ぼくの高校から彼女の高校まで十分少し掛かる。その時間はぼくが一人で考え事のできる貴重な時間だった。でも、その日ぼくがどんなことを考えながら彼女の高校へ行ったのかは覚えていない。ただ二〇一九年の少し肌寒い春の日だったことは間違いない。
二人で視覚特別支援学校の敷地を散歩していたら、不意にピアノの演奏が聞こえて来た。それは素人のぼくでも上手だなと思わせるのに十分だったが、風星に与えたショックは只事ではなかった。
痙攣したように身体を震わせ、涙腺が決壊したように涙を流し続けた。音楽が彼女の耳と脳を苛んでいるのかとさえ思った。……ふだんは冷静すぎるくらい冷静な彼女が少し落ち着いてから、なおも喘ぐように言った。
「あの、バッハに連れて行って」
二 シリウスは月に出会う
バッハのパルティータを弾いていたのは高校音楽科二年の本城月麗だった。学校中で知らない人はいなかったらしいが、演奏を聴くのも、その艶やかな姿に接するのもぼくらは初めてだった。風星にせがまれて、身体を縮こませるようにして、音楽科のピアノ室に入る。キリのいいところまで(後で訊いたら前奏曲の終わりまで)弾き終えると月麗さんは静かに言った。
「そこでこそこそしてるのは誰? どうして入って来たの?」
「すみません。普通科一年の百武風星です。あの、先輩のバッハが凄くて。いえ、バッハが弾いてるって思ってしまって」
「バッハの頃にこんな便利なピアノなんかないわ。あともう一人いるわね」
ぼくはおずおずと挨拶と自己紹介をした。
「で、風星はヴァイオリンがけっこう上手なんです。だから、さっき先輩の演奏を聴いて失神しそうになっちゃって」
風星に脛を思いきり蹴られたが、ここで売り込んでおこうと思ったんだ。
月麗さんは「へえ」という顔をして言った。
「わかったわ。罪滅ぼしに今度あなたのヴァイオリンを聞かせて。あたしとデュオをしてもらいましょ。一人で弾いてると煮詰まっちゃうの。曲は何がいい?」
話が急展開する。しばらく風星が考えている。頑張れ! この人と弾いてみたい曲はたくさんあるはずだ。恥ずかしがらずに、失敗を恐れずに前に出ろ! 無言の声援を送る。
「……ドビュッシーのヴァイオリンソナタではどうでしょうか?」
「いいね! あの曲好きだよ。うん、とってもいい! あれが弾けるのか。すっごい楽しみ」
かえってこの子にはプレッシャーになるからあまり言わないであげて。
「あ、ちょっと待って。あなたの顔を見たいな」
帰り際にそう言って月麗さんは風星の顔を指で触り始めた。
「ああ、いい顔ね。美少女だね。……生まれながらの全盲には美醜はないって言う人はいるけど、あたしはそう思わない。顔を触って、声を聴いて、匂いを嗅げば美人かどうかなんてすぐにわかる。あたしって、頭の中に3Dプリンターがあるの」
「あの、わたしもいいでしょうか? 月麗さんを見たいです」
風星がそんなことを言ったのは初めてだから、びっくりした。
「もちろん、いっぱい見て」
少し背伸びをするようにして風星は月麗さんを触るのを見ているうちにぼくは目を背けた。それはとても美しく、妖しく、でも心が締めつけられるような切なさに満ちていたから。
駅に向かう道で風星はぼくに言った。
「CD買いたいから池袋に付き合って」
「いいけど、ドビュッシーは持ってるんじゃないの?」
「ジネットヌヴーのが欲しいの。十五歳でヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールで第一位を取って、三十歳で航空機事故であっけなく亡くなった天才。第二位が巨匠ダヴィッドオイストラフよ! 凄すぎる。彼女がドビュッシーを弾いたのがあったはず。聴いてみたい。打ちのめされるかな。でも、いいんだ! 今日はもう月麗さんに打ちのめされたから。今度は当たって砕けろよ。……」
興奮しながら話す風星を見つめながら、ああ、そうかとぼくは思った。風星はあの頃、ヌヴーの演奏を聴いたんだ。
二、三日経ってピアノ室を訪れた。月麗さんはぼくらを歓迎してくれて、コーヒーまでご馳走してくれた。
「先輩は寄宿舎に入ってるんですよね。どうですか?」
「どうって毎日楽しいよ。二人で一部屋なんだけど、あたしみたいな人間でもすぐに仲良くなっちゃうし、それに時々部屋替えがあって友だちがどんどん増えるの。あ、それから先輩はくすぐったいからやめて。月麗でいいよ」
「了解です」
月麗さんは実家が群馬で、地元の高校に進学するつもりだったと言う。
「それがさあ、あちこちのコンクールに出始めて、なんとかの一つ覚えみたいに『全盲の美少女天才ピアニスト』って報道されるようになったの」
「なるほど、『全盲の天才ピアニスト』ってありきたりですね」
「なんで美少女抜くわけ? それでそれまでうまく行ってた中学校でいじめみたいになっちゃって、あたしもとことんやっちゃう方だから。それでこっちに来たわけ」
ぼくは邪魔にならないよう静かにしてるけど、つい口を挟んでしまうことがあった。
「あの、二人とも星と月って名前に入ってていいですよね」
「え? そうなの?」
そうなのだ。迂闊にも『かざほ』『るな』という音でしか伝えていなかったから、特に風星の方はわからないのは当然だ。お互い緊張していたのかもしれない。
「カゼボシというのは石川県でのシリウスの別名なんだそうです。夜空で最も明るく輝く星の名前をもらってながら目が見えないなんて、すっごい皮肉です」
「それを言えば月麗なんてキラキラネームそのものだよね。名前を付ける時にはまだ視力がないってわかってなかったみたいだけど。……あのね。シリウスは明るいそうだけど、月の明るさ、麗しさに比べればねえ」
「本当です。月麗さんほど名前に相応しい人なかなかいないです。あの後でまたお顔を見させてもらっていいですか?」
「今でもいいよ」
月麗さんから先に手を伸ばして、風星の顔に触れる寸前に風星が火照った頬を近づける。
「……ふうん。今日は緊張してる。でも、期待もしてる」
くすくす笑いながら言う。
「そんなこと何でわかるんですか?! 占い師ですか?」
「そりゃあ、匂いがね」
二人とも照れたのか黙ってしまった。
肝心の演奏だが、風星がとても緊張していたのを月麗さんがうまくほぐしていってくれたようだった。次第に滑らかにドビュッシーらしいニュアンスに富んだ演奏になった。
「次回は第二楽章でいいよね? 三回で一曲仕上がっちゃうじゃない」
お互い顔を触りながら言う。昨日より親密さが増して顔が近くて抱き合うようにすら見える。
「デュオ、続けるんですか?」
「そうよ。あたしの気晴らしに付き合ってって言ったじゃない。それにピアノ弾く時に風星の匂いを嗅いでたら落ち着いていられそうなんだよ。変態っぽい?」
「変態なんて、そんな……」
彼女の才能が十年に一度のものであることは音楽関係者の多くが言うことだから、その精神的サポート(?)を断るなんて許されないだろう。
「わかりました。またよろしくお願いします」
頭をぺこりと下げると足早に立ち去る。慌ててぼくもお辞儀をして、風星を追う。
「どうしたの? 何かあったの?」
「どうしたのって。傍で聴いてたのにわからない?……そうか、そうね。ごめんなさい」
どうしてそういう反応になるのかぼくにはさっぱりわからなかった。後でSNSで説明するからと言われて、入力するの大変だから携帯を嫌がってたくせにと思いながら家に帰ると早速メッセージが送られて来る。
『今日の演奏ですごく迫られちゃったの』
『え? どういうこと?』
『音楽で伝えてくるわけよ』
『そんなことできるの?』
『月麗さんはできるの。それが凄いところ』
『迫るって? どんなふうに?』
『好きだって』
『そんな曲だっけ?』
『違うわ。でも、抱きしめられて、お互いじっと見つめ合うの』
え? 二人とも全盲なのに? 顔を「見る」って触るのとは違うよね。
『どういうこと?』
『そういうイメージをバンバン送って来るの。直接。……だから、君に直接言うのが恥ずかしかったの』
『どっちが障碍者なのか、わからなくなったよ』
『月麗さんの瞳はすごく深い色をしてるの。もっと一緒にいたいって思わされる』
『にわかには信じがたいってやつだな』
『信じなくたっていいわよ。わたしたちだけの問題だから』
じゃあ、なぜぼくに言うんだよと思ったが、盲導犬にも伝えておくといったところなんだろう。くそっ!
第二楽章の日、あんなことを聞いたせいで二人が素知らぬ顔で演奏している間、そわそわしてしまう。月麗さんがどんなことを風星に言っているのか。風星が返事をしているのかさえわからない。疎外感というものを初めて実感した。
「楽しかったね」
月麗さんが意味ありげに笑う。
「ですね。この楽章にぴったりでした」
これが普段の会話なら美少女二人の微笑ましいやり取りだということになるが、裏があるに決まってる。
またSNSで解説が来る。
『今日はね、君のことなの。どういう関係?とか、いろいろ訊かれた』
『そんなバカな! なんで第三者のぼくを楽器で表現できるのさ?』
『伝わってくるんだからしょうがないじゃない。悪口じゃないから気にしないで』
『エスパーかよ! 笑われてる気しかしない』
『そんなことより聞いて、聞いて』
『なんだよ』
『キスしたいって』
『嘘でしょ。そんなピアノはやらし過ぎるだろ』
『嘘じゃないもん。さっきメールで確認したもん。恥ずかしかったけど』
『なんと?!』
『あたし上手だよって』
『そういうこと年頃の男の子に言う?』
『盲導犬だし。これからもよろしくね』
そう言われると弱い。尻尾を丸めてしまう。
第三楽章の日はぼくにとって人生最悪の日だった。いきなり月麗さんから冬の凍りついた月のような声で宣告されたのだった。
「これからあたしたち神聖なことするから、十五分間その辺を散歩して来て。演奏は聴かせてあげるから心配は要らない」
何が心配は要らないだ。風星は黙っていた。ぼくが見放したりしないと確信があるんだろう。そのとおりなのが悔しくてたまらない。ぼくは見返りを期待していた訳じゃない。キス欲しさに十年間も彼女の世話を焼いたりするものか。……
少し怒りが収まって、なぜキスと言わずに神聖なことって言ったのか訝しく感じた。何百年に一度の星と星が接近する「会合」みたいな感じ? 大袈裟な。……でも、盲目の美少女同士のファーストキスはこの世で稀な神聖なものなのかもしれない。
十七分経って、戻って来ていいと連絡が来た。頬をピンクに染めた風星はどこか違って見えた。
「あんまり見ないでよ」
他人の視線に敏感なのはいつものことだけど、更に研ぎ澄まされているようだった。混乱していたぼくには演奏が耳に入らなかったけれど、二人が神妙にしながら喜びに満ち溢れているのだけは否応なしに感じ取れてしまったが。
演奏が終わって、スポーツをした後みたいな表情で月麗さんが言った。
「次は同じドビュッシーの『レントより遅く』で息抜きしましょう。元はピアノのソロ曲だけど、ハイフェッツのヴァイオリンとのデュオのCDがあるから貸してあげる」
ハイフェッツはどんな難曲もするする弾いてしまうヴァイオリニストだったそうだ。でも、この曲はとてもゆったり、のんびりした弾き方で和ませてくれる。『レントより遅く』って直訳すると『遅くより遅く』っていうまるでサティにありそうなタイトルだ。
わざわざ追い出したんだから当然だけど、第三楽章でどんな会話が繰り広げられたかはぼくには詳しい報告がなかった。
『わたしも抵抗したんだけど、月麗さんの強引さと魅力には勝てないの』
その置き手紙のようなメールだけが送られてきた。
たぶんぼくの目には見えないところで、二人の仲は進んでいたのだろう。『レントより遅く』の演奏でそれを垣間見ることができた。二人はその曲をバックに午後の陽だまりの中で永遠に抱き合っているように見えた。鍵盤と弦に触れることでお互いの心の敏感なところに触れていくようだった。月麗さんがため息を吐くと風星が背筋を震わせ、風星が身体をくねらせると月麗さんが唇を噛む……。
三 月はシリウスに求愛する
本当に二人は仲が良かった。気が合うだけでなく、お互いをいたわり合っていた。彼女たちなら病める時も健やかなる時も……ずっと愛し合っていけるんじゃないかと思っていた。それはぼくだけじゃなく、周囲の人たちの多くもそう思っていた。
ところが、それでも感情のすれ違い、気持ちの行き違いというのはあるものだ。簡単に言ってしまうと焼きもち・嫉妬で、その対象がぼくだというのだからバカバカしい。
「先輩、何を言ってるんですか? ぼくのことを盲導犬とか言っておきながら、犬に嫉妬するんですか?」
「あんたのそういうところが油断ならないの。自分を貶めといて、まんまとご主人様を拐かそうとしてるんでしょ?」
「風星をどこに連れて行くって言うんですか?」
たぶん月麗さんは誘拐と誘惑を間違えている。
「そうよ。犬座にそんな知恵はないわ」
犬座というのはもちろんぼくの本名ではない。シリウスがおおいぬ座にあって、『おお』は生意気だということで二人に名付けられた。シリウスにはとても小さな伴星があってシリウスBと呼ばれている。それも呼び名の案だったが、つまらないという理由で却下された。
「じゃあ、こいつ抜きにあたしとだけ付き合ってよ」
「そんなこと言っても、この子を簡単に手放すわけには。動物愛護法に反します」
「こいつがあんたの身体を見放題に見てるって思うと我慢がならないの!」
「あんた! そうなの?」
「誰がそんなことするかよ! 風星の身体をじろじろ見たりしたらすぐに気づくだろ?」
「うん。まあ、そうね」
「ともかく嫌なものは嫌なんだ! 風星はあたしを……あたしと一緒にいてくれればいいの!」
その子どもっぽい月麗さんの言葉に風星は最悪の言葉で返してしまった。
「わたしを独占しようとしないでください! わたしの手を無理やり引っ張らないで! もっと暗いところに引きずり込まれそうで、怖くて仕方ないんです……」
「それって失明した時のことを思い出すって言うの? あたしが生まれながら全盲だからその怖さを知らないと?」
先天性か、中途かなんて晴眼者のぼくからすると大した違いに思えないけれど、心がゼロ距離の二人には大きかったのかもしれない。
「そんなことじゃないです。月麗さんはわたしのことがわからないんです」
「どういう意味だよ」
「わたしはあん摩マッサージ指圧師の道に進むことを考えています。誰も表立っては教えてくれないですけど、視覚障碍者へのセクハラってひどいらしいです。鍵盤だけ触ってればいい月麗さんにはわからないんです」
冷静さを欠いた言葉を投げつけ合ってしまったお互いの傷は思った以上に深かった。
ピアノ室への訪問は途絶えてしまった。それが一か月になり、二か月に差し掛かって周囲も心配し始めた。というのも十月にはオール・ドビュッシーのリサイタルが予定されていたからだ。それは彼女が真の天才なのか、ただの早熟な物珍しい女の子なのかを占う節目だった。もっとはっきり言えば売り出せるか否かの吟味の場だった。
その年齢から言っても、障碍者だということから言っても仕方ないのだが、月麗さんが精神的に不安定なところがあるのは衆目の一致するところだった。ぼくらにいろんな大人が懇願しに来たのは驚いた。九月に音楽プロモーターの女性がわざわざ校長室まで来た。風星のたっての頼みでぼくも同席した。
「本城さんが嫌いになったということじゃないですよね? ちょっとした行き違いだと思いますが」
「それはそうなんですが……」
「お願いします。彼女はああいう性格だから自分から折れたりできないんです。不器用なんです」
「なぜ年下のわたしが考えてあげなきゃいけないんですか? わたしが本城先輩にとって大事な人間だとは思えないです」
「そんなことはありません。……月麗さんの精神状態が心配なんです。先日はこんなことを言うんです。『もし全人類が視力を失ったらどうなると思う?』わたしには見当もつきません。『そんなパニック小説があったらしいけど、わたしの考えは単純。何も変わらないのよ。見えても見えなくても全員がそうなら結果は同じ』彼女の言っている意味がわからなかったです。『だからさ、深海で視力を捨てた魚がいるじゃない。あんなふうに進化するのよ。それで何の不便もないのよ』ぞっとしました。……少なくともその発想は健全じゃないです」
プロモーターは助けてくれ、考え直してくれと何度も頭を下げ、悲しそうな顔で帰って行った。
風星がこんなに意固地になったのは初めて見た。帰り道で思わずため息を吐いてしまった。
「ため息吐くな!」
「そんな。無茶苦茶言うなぁ。……ピアノ室に行けば万事元通りだと思うけどなぁ」
「でしょうね。でも」
「でも、何さ」
「月麗さんは大事な人だから、変な妥協はしたくないの」
「でも、あの話は確かに病んでるように思えたけど」
「表現の仕方はともかくああいうことわたしも考えるよ」
「……コンサート行かないの? ドビュッシー大好きでしょ? 月麗さんの演奏聴きたくないの?」
「うっさい! 聴きたいに決まってるでしょ!」
地下鉄の駅の階段で涙を流し始めてしまった。周りの人に誤解されるから、やめて欲しい。
リサイタルの二週間前にぼくのところにチケットが送られて来た。手紙はないが、二枚入ってたから風星を連れて来て欲しいということだろう。その頃、リサイタルのホームページに飛んでもない告知が掲げられた。
『演奏者本人の堅い意志により、オール・ドビュッシー・プログラムをオール・バッハ・プログラムに変更させていただきます。これによるチケットのキャンセルは手数料なしで行わさせていただきますので、よろしくお願いいたします。直前のお知らせとなりましたことを深くお詫び申し上げます。なお詳細につきましては……』
ドビュッシーとバッハなんて百八十度違うし、だいいち多くの人は月麗さんのバッハを知らない。ぼくが風星の家まで伝えに行くと、彼女もしばらく言葉が出ない。
「わたしのせいだ。そんな無茶をして! 止めなきゃ。使う筋肉から違うんだよ。失敗したら……」
「月麗さんは風星が来てくれればそれでいいんじゃないかな。あの日みたいに来て欲しいんだよ」
「犬座! 連れってって。月麗さんのところに。お願い。わたし、あの人が笑い者になるのは耐えられない」
「そんなことにはならないって。あのプライドの高い月麗さんが勝算のないことはしないよ」
「そう言いきれる? 間違いなく成功するって言える?」
「いや、まあ。そうだといいなって。……えへへ」
「あんたねえ。そんなんだから、女の子にモテないのよ。ああ、どうしよう。どうして意地を張っちゃんだろう」
モテないのは事実だけど、そういう理由じゃないと思う。
クラヲタの評判はひどいものだった。『ドビュッシーにもバッハにも失礼』というのはまだいい方で、『ヤンデレもこれで目が覚めるでしょう』、『自分が見えないのは困ったもの』、『暗中模索してこれ?』といった彼女の障碍に引っ掛けた中傷がいくら削除されても後を絶たなかった。
しかし、書き込みの関心は一点に集中していた。『一体バッハの何を弾くんだ?』しかし、すべてが名曲と言っていいバッハのクラヴィア曲のどれを弾くのか全く知らされなかった。プログラムの構成に悩んでいるのか、サプライズにしてもあんまりだ。……
会場は満員だった。前から五列目のほぼ真ん中という最高の席だった。このホールは前に来たことがある。いつも使ってる駅の隣駅から十五分足らずというおあつらえ向きのホールだった。明かりが落ちて会場が静まり返り、介添えとともに真っ赤なドレスを着た月麗さんが現れた。
「勝負服ね」
ぼくが伝えると風星は確信したように言った。一礼して盛んな拍手が鳴りやむと座り、すぐにゴルドベルク変奏曲のアリアを弾き始めた。聴衆が息を飲む。こんな難曲を? ありとあらゆる変奏曲の頂点に立つこの曲を? しかも前半に?
早くもなく、遅くもない、ごくふつうの演奏だ。この曲は誰もが変人の天才グレングールドの演奏を意識してしまう。しかし、彼の二回目の録音のような粘るような演奏ではなく、さらっと弾いている。
変奏曲に入ってもさほど工夫した様子もなく、しかしとても楽しげだ。後で聞いたところによるとあのプロモーターから風星が来ていると聞いて、「じゃあ、いいとこ聴かせないと」と言ったそうだ。でも、気負いはなく、戯れるようなタッチで弾いている。
軽く肩の凝らない演奏? それは一九三三年のワンダランドフスカのチェンバロによる演奏を彷彿とさせる。だが、変奏が進んで行くにつれて感じ始める、このザワザワする感覚はなんだ?
第十六変奏から始まる後半に入って何かが見えたような気がした。まるで登って来た道を振り返ると広い風景が見えるように。隣に視線を向けると風星が興奮したような表情をしている。また、テレパシーで二人だけに通じるメッセージを受信しているのだろうか。
全曲の最後にもう一度アリアが繰り返されると聴衆は夢から覚めたような顔をしていた。
「みんな寝かしちゃうから、二人だけで遊びましょだって」
全曲が終わって風星は瞼を閉じてそう言った。
「ホント飛んでもない人だ。どう答えたの?」
「楽器がないのに返事できるわけないじゃないって」
そりゃそうだ。ということは今日は月麗さんのラブコールをひたすら受け続けないといけないわけか。
後半は予想どおりパルティータだった。全六曲を演奏すると百分ほど掛かるから、あの出会いの第一番、悲劇的な第六番、内省的な第三番の順に演奏した。バッハがそこにいるのかはわからないが、ひたひたと感動が押し寄せて来る。
海の潮は月の潮汐力で生まれる。まるで潮が足元から心臓まで満ちて来るような演奏。風星の表情は至福と言ってもいいようなものだった。
演奏が終わり、パラパラと拍手があって、やがてそれが大きな拍手とこの国ではめずらしい激しいブラーヴォとスタンディングオベーションに変わった。それが収まるのを待って月麗さんは静かに立ち上がり、よく通る声で言った。
「今日は本当に勝手ばかりして申し訳ありませんでした。ごめんなさい。みなさまへの感謝を込めて三曲のアンコールを用意してありますので、聴いていただければうれしいです。一曲目はバッハで、カンタータ『暁の星のいと麗しきかな』からソプラノのアリアをあたしが編曲したものです。後の二曲は今日お聞かせできなかったドビュッシーで、『月の光』と『レントより遅く』です」
超有名な『月の光』が自身に因むことは誰でもわかるけれど、他の二曲がどうして選ばれたかはぼくらしかわからない。風星は顔を真っ赤にしてうつ向いてしまった。三曲のアンコールで麗しい星と月がゆったりと愛し合うのを表現するなんて、音楽家はずるい!
終演後、まだ熱が残っている楽屋に行く。
「いい演奏でした。でも、暁の星って金星のことじゃないですか?」
「つまんないこと言うね。あたしにとって星はシリウスしかないの!」
仲直りの握手がいつの間にか恋人繋ぎになって、風星を抱き寄せている。
有無を言わさぬ名演奏とアンコールの時の神妙な態度が好印象を与えたのか、月麗さんへの批判はパタリとなくなった。美人は得だ。
四 太陽は星たちを苛む
月麗さんは暮れにかけて苦手なマスコミ各社のインタビューをこなしながら、次のリサイタルに向けた準備を進めていた。プログラムは次こそはオール・ドビュッシーとして、前奏曲集の第一巻と第二巻を一挙に演奏する企画が立てられた。
「えー! そんなのみんな寝ちゃうよ。だめだめ!」
「そんなことないですって。一回は耳にしたことのある曲が多いからちゃんと聴いてくれますよ。だいいちこの前のリサイタルで何をやるつもりだったんですか?」
「別に考えてないよ。オール・ドビュッシーってカッコよさげじゃん。ノリだよ」
こんな人が誰しも認める新進気鋭のピアニストなんだから、嫌になっちゃう。
「ドビュッシーばっかりが嫌なら誰のをやりたいんですか?」
「犬座もたまにはいい質問をするね。ペトルーシュカからの三楽章だよ」
「え?! あの、やたら難しい曲を?」
めちゃくちゃだよ、この人。何が難しいって、まず手が三本あるように聞こえる。高いところから鍵盤に指を叩きつけ続けるのに、ちょっとのミスが素人だってわかってしまう。人形小屋のサーカスそのもの。びっくりした風星が訴える。
「そりゃ月麗さんなら弾けると思います。ある意味でドビュッシーに近い音楽かもしれません。でも、あれだけのバッハを弾いた人がストラヴィンスキーなんて、みんなを失望させないでください」
「みんななんてどうでもいい。風星、あんたは聴きたいのか、聴きたくないのか、どっちなんだ?」
難しげな表情でしばらく考え込んだ風星は、辛そうな、しかしどこか恍惚とした顔で口を開いた。それはまるで愛しい男となら地獄に堕ちるのも厭わない遊女のようだった。
「……聴きたいです。月麗さんの弾くピアノならどんな曲でも聴きたいです。そんなの決まってるじゃないですか!」
「おうよ! いくらでも聴かせてやんよ」
それから翌年の四月八日のリサイタルに向けて猛練習が続いた。二〇二〇年の年が明けた。……しばらくは何もない、せいぜいが他の国の出来事だったり、不運なクルーズ船の話だった。ところが予感は悪い方、悪い方へと転がっていった。新型コロナウィルスに世間はうろたえ、消毒薬やマスクが手に入らず、トイレットペーパーもスーパーから消えた。
リサイタルは三月初めに中止になった。「まあ、横並びというやつだ」と、月麗さんが憤懣やるかたない風星を宥めるように言った。
電子顕微鏡映像が太陽のコロナに似たウイルスの感染が都市で急速に拡大している事態を受けて、政府は七都府県に『緊急事態宣言』を発し、四月十六日に全国に拡大された。ぼくの高校も彼女たちの視覚特別支援学校も休校になった。
街から人が消え、地下鉄の乗客も減って、寄宿舎の月麗さんに会いに行くぼくらに冷たい視線が向けられるようになった。直接、言われることもあった。
「おい! おまえら学生だろ? うろうろして感染源になったらどう責任取るんだ? 家でおとなしくしてろ!」
ぼくは風星を庇うだけで精一杯だった。
本当は寄宿舎も入ってはいけなかった。しかし、あんなに意気込んでいた月麗さんの精神の安定を保つためには風星に会わせるしかない。それは風星も同じだった。
ぼくらは情報を交換しながら、感染を防ぐための対策が視覚障碍者にとっては新たな困難や戸惑いを生んでいるかを嘆いた。換気を良くするために入口を開けっ放しにするようになって、お店を見つけられなくなってしまった。視覚障碍者はほんの数メートルでも手がかりを失うと途方に暮れてしまう。
信号待ちをしていて助けてくれる人が減った。階段やエスカレーターの手すりを触るのが躊躇われる。視覚障碍者にとっては触ることが見ることだったのにリモートやソーシャルディスタンスと言われても困ってしまう。
学校の近くのコンビニに従業員に感染者が出たという貼り紙があった。対応した内容も書いてあって好感が持てたので、写真に撮って二人に伝えた。今更ながら視覚障碍者は情報に接するのにハンデが多い。例えば時間を知るのにどうするのか。ボタンを押すと声で時刻を知らせてくれる時計もあるけど、手っ取り早いのが一一七に電話することだ。ところが、電車の中の優先座席でこれをやると怒鳴られたりする。スマホを含めた携帯電話が心臓ペースメーカーに影響を及ぼすことはほとんどないのは今や常識だと思うのだけど。
夏頃に『Go To キャンペーン』というのがあった。実施するまでは反対する人が多いと言われていたが、ふたを開けてみると『お得なんだから旅行しない手はない』ということであちこちの観光地は賑わっていた。ぼくらにはいくら戻って来るのかさえわからなかったが、そういう損得計算が瞬時にできる人たちの需要をかき立て、連日ニュースで取り上げられた『Go To トラベル』に対し、劇場でクラスターを発生させたせいなのか、ぼくらが期待した『Go To イベント』は行われなかった。自粛の対象ですらないはずなのにリサイタルの企画はなかなか具体化しなかった。
ある夏の日、月麗さんが立ち上がって言った。
「緊急弾きたい宣言! ストリートピアノ弾きに行くよ。犬座! アレンジして」
ネットで調べて、小さくともグランドピアノのある立川に向かう。ストリートピアノは都庁にもあるらしいが、使えるのは五分だけのようで、十五分弾ける立川の方がいいだろう。
地下鉄で池袋まで行って、新宿に山手線、中央線快速に乗り換えて立川へというわかりやすい経路。人は減っているけど、やっぱり多い。サングラスにマスクというコロナ前なら不審者の格好で月麗さんは出掛けた。
「あたしは有名だから変装しないと」
「クラシックの演奏家の顔はそんなに売れてないから、大丈夫ですよ」
立川駅北口から十分足らずでホールに着く。平日の十一時からの予約だから人は少ない。
まずシャブリエの狂詩曲『スペイン』を弾く。これは元々は管弦楽曲で、ピアノの場合は二人で演奏されるが、それを月麗さんは一人で軽々と弾いてみせた。風星が興奮してぴょんぴょん飛び跳ねる。驚くべき技巧なのに集まって来る人は少なく、スマホで動画を撮るくらいで大した反応はない。
もう一曲はラヴェルの『逝ける王女のためのパヴァーヌ』だった。弾むようなリズムの狂詩曲から一転して優雅なゆったりとしたパヴァーヌ。この曲は元がピアノ曲で後にオケ用に編曲された。この辺のひと工夫した選曲もおしゃれだ。
「あー、すっきりした。帰るよ」
いいストレス解消になったようだ。
この二回の緊急事態宣言に挟まれた期間でいちばん良かったのは、動画を上げたことだろう。立川の演奏をぼくが撮っていたのをアップしたら、最初の一週間で五万回の視聴になった。
「もっと動画を上げましょうよ。みんな月麗さんの演奏を聴きたいんですよ」
「そうなのかなぁ。……あ、そうだ。風星と一緒ならやる!」
「え? わ、わたしですか?」
「一緒に演奏するの嫌なの?」
「嫌じゃないです。そういうことじゃなくて、動画に出るのが抵抗あるというか」
「いいじゃん、どう映ってるのかなんて見えないんだから」
晴眼者にはとても言えないことだ。
二人のデュオに月麗さんのソロをたまに挟んだ≪星月夜≫というチャンネルを始めた。
「星月夜って星の光が月のように明るい夜のことで、月は出てないんです」
「そんなぁ」
二人が口を揃えて言う。
「待ってください。星月夜という言葉はゴッホの絵"The Starry Night"の訳語として知られてると思うんですが、その絵には三日月もちゃんと描かれています」
「じゃあ、いいんじゃない。何が言いたかったの?」
「星の光が月のように明るいってありえないんですけど、風星が月麗さんと同じくらい輝くっていうのはありえるのかなって……」
二人とも黙ってる。
「どうしました? またまずいこと言っちゃいました?」
「よくもまあ、そんな恥ずかしいこと言えるなあって。ねえ、風星」
「はい。すごいですね」
ドビュッシーを始めとした多くのヴァイオリンソナタが動画サイトに次々とアップされた。コメント欄には驚きの声が寄せられた。
『モーツァルトもベートーヴェンも片っ端から暗譜しちゃうって(絶句)』
『本城さんはもちろんだけど、バルトーク弾いてるヴァイオリニストは誰? 若いよね。すごいよね』
『間違ってたら全力で土下座するけど、ヴァイオリンの子も視覚障碍者? 二人ともお美しい!』
『ご学友ではないかとの情報が。詳細求む』
『我々は美しい月と星を愛でておればいいのでは?』
五 月とシリウスは高みを目指す
二〇二一年の年明け早々、二回目の緊急事態宣言が出された頃のことだった。
「うちの親がぐだぐだしてないでコンクールでも受けたらっていうのよ」
月麗さんは毎朝、群馬の両親と話をしているらしい。感染状況は前よりずっとひどくなってるのに人びとは落ち着いている。とは言え、レッスンも思うように受けられないから、そういう話が出るのはわかる。
「いいと思います。具体的に決まってるんですか?」
「お母さんは浜松国際コンクールがレベルも高いし、日本国内だから安心だって」
「コロナのせいで中止や延期になってるところが多いみたいですけど、浜松はやるんですか」
風星が顎で命令するから、ぼくがスマホで検索する。
「やるみたいです。応募期間も来月からです。応募だけでもしましょうよ」
「そだね。他は何かある?」
「ショパン国際コンクールはどうですか?」
「ちょっと待ってください。今年に延期? えーと……」
いろいろ検索してみる。スマホじゃ見づらいサイトもあるから、月麗さんのパソコンも借りて調べる。
「去年の五月に延期が決定したみたいですね。それまでに予選出場者が決まってたからそのままスライドするみたいです」
「じゃあ、出れないんですか?」
「風星は月麗さんに出て欲しいの?」
「はい」
「風星が出て欲しいって言うなら出るよ。でもなんでショパンコンクールなの?」
この人なら本当にやりそうで、できそうだから怖い。
「他のコンクールと違って、ショパンを愛し、演奏してくれるピアニストを育てるためのものだからです。コンクールが始まった第一次世界大戦後は今だと信じられないですが、ショパンって忘れられそうになってたそうです。ひどい目に遭い続けてきたポーランドが国の拠り所にしようと始めたって思います」
ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクールもポーランドによるもので、同じような想いがあるのだろう。少なくとも風星の熱意はポーランド繋がりのような気がする。
「でも、それだけに際立った特徴というか、過酷なところがあって。……課題曲すべてがショパンなんです」
「うっへえ! あたしショパンは苦手だよ。なんか好きになれない男って感じで」
「だめですか?」
「弾いて欲しいの?」
「ぜひ! 月麗さんのショパン聴きたいです。特にマズルカを」
「わかった! ショパン弾くよ。犬座! 名演奏とか最近の受賞者とか、参考になりそうな音源集めてくれ! まずはマズルカな。洒落じゃないぞ」
ホント風星にお願いされるとちょろいんだから。しかし、マズルカなんていちばんポーランドっぽくて、他の国の人間が表現するのが大変な曲を挙げるとは策士だなぁ。
それから月麗さんは猛練習を始めた。一日十時間はショパンだけを弾き、腕を痛めないか、先生に心配されるほどだった。
「リサイタルの前はもっと弾いてたし、あたしの腕は丈夫なんだよ」
「あの時はわたしと疎遠になってたから止めれませんでしたけど、今度は許しませんよ。一日五時間までです。いいですか?」
「しょうがないなぁ。……言うこと聞いたらいいことしてくれる?」
「しょうがないですね。今日だけですよ。……で、何をして欲しいんですか?」
風星の耳にぴったりと口をつけて、こそこそ言ってる。風星の顔が真っ赤になる。外に出てましょうかとぼくが言う前に濃厚なキスが始まってしまった。息もできない。あ、舌が……。
しばらく絡み合って、かすれ声で風星が言う。
「もう、こんな大人なことダメですよ。ファイナリストになってからですって言ったじゃないですか」
月麗さんの右手の甲に唇をつけて叱る。
「悪い。つい」
風星の髪を愛おしそうに撫でている。風星は月麗さんの手をくるっと返して、中指に唇をつけた。
「そんなところ舐めちゃ汚いよ。汗ばんでるし」
しかし、月麗さんに拒む様子はない。風星は親指を口に含む。いつの間にかこんなエロいことができるようになったんだろう。
「塩味が効いてますね……。この指で月麗さんが奏でてきた音楽が聞こえます。まるで月が美しい海辺で潮騒を聴いているみたいです」
春の雨の降る日にブラームスのヴァイオリンソナタ第一番『雨の歌』を二人はしっとりと演奏した。月麗さんは幼い頃を思い出すように話し始めた。
「人は外界の情報の八割を視覚によって得ているそうなの。だから、それがないあたしは二割しか外の世界ことがわからないってお母さんに言われた。そんな深い意味はなかったみたいだし、中学生の時に問い質したら、『あら? そんなこと言った?』だって」
「二割だなんて……」
「もちろんそんなことないわ。でも、あたしは不十分な人間じゃないと証明しないといけない。だからあたしをピアノを武器にした。表現力? 違うわ。創造力よ。八割の世界を創り出すの」
「だから、あんなバッハが……」
風星が切なげに言葉をかける。
「でも、もういいの。無理する必要はない。あたしは神様じゃない。世界を創造しなくても風星の恋人でいられればそれで幸せ」
「わたしもです。月麗さんの、あの、その、よき伴侶でいられれば何も要らないです」
月麗さんはよき伴侶という言葉にびくっと身体を震わせ、優しく微笑んだ。
「ありがと。何も要らないか。……でも、もし神様が一つだけあたしの願いをかなえてくれるなら、風星の顔が見たい。他の何も見えなくてもいい。青空は吸い込まれるように綺麗で、海も涙が出るほど綺麗だっていうけど、別にいいや……」
「あの、特定のモノだけ見えるなんて変なことを神様はしたりしないですよ」
「犬座、おまえってシラけるやつだなぁ。じゃあ……あたしは風星が見えるようになって欲しい」
「それはわたしの願いです。月麗さんにこの世界を見て欲しいです。世界は本当に美しいんです。失明する前に視力がどんどん衰えて、靄がかかったようになってものの形がわからなくなりましたけど、それでも今日みたいな温かい雨に濡れた新緑が視界いっぱいに広がって、それだけで安心できて神様に感謝していました」
果たしてその後、月麗さんがショパンコンクールに出場することができたのか、あるいは他の二〇二〇年からスライドしてきたコンクールや元々二〇二一年に予定されていたコンクールに出たのか、そもそもコロナ禍をどのように乗り切ってピアニストとしてのキャリアを築いていったのかをここで語ることはやめておこう。しかし、一つだけ言えることは風星と月麗さんをぼくはその後も見守っていたのだけれど、甘ったるくてこれ以上何も言いたくないということだ。
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