第1話
夏に入り、気温と湿度の高さのせいで乾かない汗を袖で拭いながら萩原修汰は駅から伸びる大通りを歩いていた。
数年前に再開発された駅前には今どきの店が軒を連ねる。だが修汰には無縁の世界で、再開発されてからどこかの店に入ったことなど一度もなかった。
暑さのせいでいつも重い足取りが一段と重々しく、鉛でもついているのではないかと錯覚するほどだった。それでも一歩一歩歩いていると前方から甘くて香ばしい香りが修汰の鼻をくすぐった。
この香りは知っている。この香りは前方にある空色のワゴン車から発せられていた。あの車はいわゆる移動販売を行っている車で、不定期でここに店を開いている。修汰はよくこの店で買い物をしていて店主とも顔なじみだ。横が大きく開いた特殊な形の車の中を覗くと人当たりのよさそうな顔と目が合い修汰は微笑んだ。
「こんにちは、佐藤さん」
「こんにちは。今日も仕事かい?」
「はい、こんな暑いならもっと朝から出てくればよかったです」
「確かに今が一番暑い時間帯だね」
佐藤は額に汗を煌めかせながら笑顔を見せた。整った顔で笑顔を向けられる度修汰は同性なのにドキリとしてしまう。修汰は顔を背けるためにショーウィンドウに視線を向けた。ショーウィンドウの中でメロンパンが太陽の光を反射させている。この店で売られているのはこのメロンパン一種類だ。こんな暑い日でもこの香りと見た目は購買欲をそそられる。
「今日も買っていってくれるかい?」
佐藤がわざとらしく首をかしげる。そんな顔をされるとつい買ってしまう。
「はい、お願いします」
修汰がそう言うと佐藤は嬉しそうな顔をしながらメロンパンを当たり前のように二つ取り、紙袋に入れた。いつも修汰はメロンパンを決まって二つ買っているからだ。今回も二つ買おうと思っていた修汰はそれを止めようとしない。いつもと同じ料金を払い紙袋を受け取った。
「じゃあ、お仕事がんばってね」
「はい、ありがとうございます」
佐藤の見送りを受けながら修汰は事務所を目指した。
きらびやかな大通りも一本道に入ると輝きを潜める。そこからまた二回、角を曲がるとコンクリートむき出しの年季の入った建物が現れる。ただ通りかかっただけでは廃墟だと思われるようなボロさだ。修汰はコンクリートに囲まれた薄暗い階段を上った。するとこれまた年季の入った扉が目の前に現れる。修汰はそれをゆっくりと押した。
中は外観と違ってしっかりとしている。元が小さな企業のオフィスだったこともありなかなかの広さだ。ただ二人しかこの事務所を使わないため少々持て余している節もある。依頼者が来たときに使うソファーと机、一番奥には資料に覆いつくされた棚とデスクがある。二人のうちのもう一人が椅子に座り修汰に背を向けていた。
「セルクさん、おはようございます」
修汰がその人物に声をかけるとゆっくりと椅子が回り声をかけた人物と修汰の視線がぶつかった。真っ黒の髪、長い前髪から覗く鋭い目はクマに縁どられ更に目つきを悪く見せる。セルクさん、と声をかけられたその人物はもともと細い目を更に細めた。
この男は修汰の上司であり、居候先でもある。名前は東浜貴弘。だがこれは本当の名前ではない。五年間一緒にいる修汰ですら本当の名前は知らない。ある世界ではベルセルク、と呼ばれている。というのを知って修汰は『セルクさん』と呼んでいる(なんで後ろを取ったのかと貴弘はいつも不思議に思っている)。
「遅い」
貴弘はそれだけ言ってまた椅子を後ろに回した。なにやら資料に目を通しているようだ。机の上には大量の資料が乱雑に積み上げられている。またこれを片付けなきゃいけないのか……と修汰は苦笑いを浮かべた。
修汰はここで貴弘の手伝いをしている。修汰が来るまでの貴弘の暮らしはひどいもので、整理整頓はおろか食事すらもインスタントで済ますような生活をしていた。修汰が家に上がり込んでからは私生活面や仕事面でも貴弘が出来ないこと(というかやらないこと)を修汰がしている。
修汰はメロンパンの入った紙袋を机の上に置いた。それを見た貴弘がわかりやすく顔を歪めた。
「また佐藤のところにいたのか」
「おいしいじゃないですか」
なぜか貴弘は佐藤のことが苦手らしい。
「あいつの嘘くさい笑顔を見てると鳥肌が立つ」
「そこまで言わなくても……」
そうは言うもののメロンパン自体は食べたいようで紙袋から一つ取り出すと空になったマグカップを持って立ち上がった。
「それ、片付けといて」
立ち上がった貴弘は机の上の書類の山を顎で指した。
「わかりました」
修汰が書類の山から一つ書類を取ったところでドアベルが来客を知らせた。
「すいません」
ドアが開いた隙間から覗いていたのは二十代の女だった。金に近い茶髪を垂らしその身には体の線がわかりやすいショッキングピンクのワンピースを纏っている。
派手な格好をしている割に顔には疲れが見えていた。
「はい」
修汰は持ち上げた書類をまた同じように置き、扉に向かっていった。きっと道を尋ねに来たんだろう、と考えながら。事務所と言えどもここを訪れる人は滅多にいない。六割宅配便、三割は道を尋ねに、そして一割程度が依頼人、である。
修汰が近づくとその女は口を開いた。
「あの、ここって頼んだら人を殺してもらえるって聞いたんですけど
どうやら今回は一割の方だったらしい。