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プロ野球なんか嫌いだ

作者: べんけい

     プロ野球なんか嫌いだ


 秋の昼下がり、僕は人いきれのする人込みの中をナゴヤドームに向かって歩いている。人込みの中にいると、自分も集団組織化の波に呑まれたような気がして嫌になる。そもそも人口密度が高すぎるのがいけないのだ。日本も江戸時代まではこんなにせせこましくなかっただろうに・・・と明治時代に産業革命が起こって以来人口が激増した以前のいにしえの日本が偲ばれる。

 さあ、一塁側スタンド一階席にやって来た。中日は近年、すっかり低迷して人気も下火だから櫛の歯が欠けたように空いている。だから割とゆったりプロ野球観戦が出来る。さてサラリーマン並に集団組織化されつつあるプロ野球選手を観察しながら物思いに耽ってみるか。

 最近の選手は出塁した時、その塁に関わる野手や塁審に一々挨拶する様になったが、昔の選手はそこまで相手に構っていなかったし、そこまで気を遣う必要は無かったし、そこまで歓心を買う為にさもしい真似はしなかった。全くこれだけ見ても野球選手がこせこせ周りに気を遣うサラリーマンの様になってしまっているのが分かる。

 大体、試合前に或る程度、挨拶は済ませているのだろうし、試合中は敵同士なんだから挨拶する必要は無い筈だ。全くこの儘、時が変遷すると、その内、打者と投手が投球前に挨拶する様になるのではないかと思い遣られる。そう憂慮しないといけない位、野球界に限らず集団から爪弾きにされないように、相手に嫌な奴と思われないように気に入られようと日々頻りに周りの顔色を窺い、空気を読むというさもしい真似をしなければいけない世の中になって来ている。だから礼儀正しく見せて相手に気に入られようとする儀礼的な挨拶が増えて来る訳だが、最近の野球選手の気に入らない事に挨拶ばかりして礼儀正しく振る舞っている癖に映像文化に育った弊害だろう、試合中にカメラの前で相手に失礼な喜びを露わにする派手なパフォーマンスをする様になった。而もそれを餓鬼みたいに複数で喜び合って遣りたがるのだ。亦、それを観ているファンも喜ぶから始末が悪い。全く遣る方も観る方も礼儀を心得ていない。実に嘆かわしい有り様だ。

 それと普段のプレー中でも軽々しく矢鱈に喜びを表現する選手が増えて来ているのが気になる。男は三年に片頬と言って男は滅多に笑わない方が威厳を保てて良いとする考え方が昔は有ったのだが、最早、この格言は死語にとなっていて現代日本ではへらへらしている位な方が良いとされてしまっているのだ。何しろ現代日本は笑ったもん勝ちみたいな事になっていて自尊心と羞恥心が欠如した者ばかりだから本来、笑ったら相手に失礼な恥を掻かせる場合でも笑ってしまう失礼千万な事が罷り通る様になってしまったのだ。成程、これでは礼儀を心得ようにも心得られる筈がないし、相手のプライドを尊重しようにも尊重出来る筈がないから選手もファンも本来、相手に失礼な派手なパフォーマンスをする事を良しとする訳だし、本来、相手に失礼な矢鱈に喜びを表現する事も良しとする訳だ。嗚呼、相手に恥を掻かせても掻かされても恥じる感受性を失った日本人達・・・嗚呼、仮令、笑ったら失礼だと思っても感情を抑えられなくなった日本人達・・・嗚呼、喜怒哀楽を面に出す事をどんな場合でも良しとする様になった日本人達・・・嗚呼、『直情径行は夷狄の道なり』という言葉の意味すら分からなくなった日本人達・・・

 それに引き替え、メジャーリーグでは余り喜びを表現すると、相手に報復されるという理由もあるが、個人主義に則って相手のプライドを尊重するから相手に失礼な派手なパフォーマンスをする事は以ての外だとして喜びの表現を控える実に大人な美風が有るのだ。と言ってもメジャーも大分堕落したが、今時の日本人は自尊心と羞恥心が欠如しているだけにそういったベースボール道の第一義を学ぼうとせず上辺の明るさを重視して軽薄なアピールを良しとしてしまっている。その辺りは如何にも現代日本的で、その弊風の所為で女は愛嬌だから女は兎も角、本当に最近の男どもはへらへらしていて僕から見ると、底気味悪くていけねえが、現代日本では僕から見てへらへらしている位でないと暗いと嫌われるみたいなのだ。

 そう言えば、中日なんかも近年、暗いと言われる様になったので監督自ら明るくやろう!なぞと少年野球チームを指導する様な事を標榜し、選手もそれに応えてちょっとしたことでも餓鬼みたいに矢鱈に喜んで見せて、へらへらする様になった。而もチームが低迷している時にだ。そんな選手を見たら、軽々しく喜んでる場合じゃねえ!と叱咤して然るべきだ。然るに猫も杓子もへらへらするのを良しとしているから叱咤する骨のある奴なぞ人っ子一人いやしない。へらへらもそうだが、最近の野球選手の気に入らない事を取り立ててもう一つ挙げるとすれば、綺麗事を濫用してチームという集団組織、延いてはプロ野球界、延いては現代日本社会に安住しようとする事だ。

 思えば僕は中日ファンになり始めの小さい頃、中日が試合中に逆転されリードを奪われようものなら悔しくて泣いてしまう位、向きになって中日を応援していた。そんな時、父は、『野球選手はお前の為にやっているんじゃなくて自分の為にやっているんだから泣く程、向きになって応援したって何にもならんぞ』と言ったものだ。すると、僕は、『そんな事ない。ファンの為にやってるんだ』と反論したものだが、歳を重ねる内に分別が付いて来ると、この時の会話に於ける父の言葉が核心を突いた言葉で自分の言葉が間違っていたと気づくに至り、爾来、父の唯一核心を突いた言葉として僕の心に刻まれる事となった。

 が、今時の野球選手は昔の選手に比べて野球をする事に余り頭を働かさなくなった代わりに情報化社会で育っている所為でマスコミを利用して好感度を上げる事に掛けては、よく頭が働くので仮にAという選手がいるとすると、Aはヒーローインタビューを受ける場合、父の言葉とは裏腹に誰某の為にやったと直接的には余り言わないものの、ファンの声援に応える為に頑張った様な事を言葉の端々に仄めかして然も自分がファンの為にやった様な事を言って自らを称えファンに好感を持たれようとし、また、ファンの声援のお陰で頑張れた様な事を言葉の端々に仄めかして然もファンがAの為にやった様な事を言ってファンを称えファンに好感を持たれようとし、また、頑張っていた選手のお陰で頑張れた様な事を言葉の端々に仄めかして然も他の選手がAの為にやった様な事を言って他の選手を称え他の選手やファンに好感を持たれようとし、また、頑張っていた選手に応える為に頑張った様な事を言葉の端々に仄めかして然も自分が他の選手の為にやった様な事を言って自らを称え他の選手やファンに好感を持たれようとし、決して自分の為にやったとは言わないのだ。

 好感を持たれようとするという事は自分の為にしているのと一般だからAは偽善者に違いなく、自分のプレーについても誰某の為にやった事にしているから偽善者に違いなくAの為にやったとされたファンや他の選手も自分の為にやったのにAの為にやった事にするAを肯んじてAに好感を持った訳だから偽善者に違いないのだ。

 確かに大事なゲームや特別なゲームで興奮して私情を忘れたり熱に浮かされたりして選手もファンも一体になって誰某の為に、となることもあるだろうけど、大体に於いて突き詰めれば、自分の為にやっているのであってファンにしたって選手の為に応援したのではなくて自分の贔屓の選手が活躍してチームが勝てば、自分が喜べるから応援したのであって自分の為にやっているのだ。況して選手は常に誰が勝つか負けるか、誰が生き残るか御払い箱になるか、誰がポジションを奪うか奪われるか、誰が這い上がるか蹴落とされるか、誰が儲かるか儲からないか、誰が食うか食われるかという弱肉強食の世界で生きているのだから自分の為にやっているのに違いないのだ。そんな事は推して知るべしなのに皆、誰某の為にやった事にする選手に誰もが好感を持つという事は如何に現代日本は偽善が持て囃され罷り通っているかという証拠だ。

 元来、俗人は真実を言う者を嫌い、レトリックを尽くして綺麗事や美辞麗句や巧言令色を並べ立てる偽善者に好感を持ち、言葉に浮かれてしまうものなのだ。何故、そうなるか?上辺を重視し内容を軽視するからだ。奴らは紙切れ同然のペラペラの生き物なのだ。実際、一見、心から和んでいそうなヒーローインタビューの壇上に立つ選手と選手との遣り取りにしてもスタンドのファンと壇上の選手との声の掛け合いにしても歓心を買おうと飾り立てた言葉の遣り取りに終始する。慮ってみれば大人の遣り取りなんて悉皆、そんなもので心の中は全くさもしく浅ましく勘定づくのことばかりなのだ。

 憚りながら誠実を以て任じている僕なぞから見れば、一度ヒーローインタビューを受けたのなら何の打算も偽善も無く朴訥と正直に答えてくれる方が真心を感じて好感を持てるのだが、俗人は上滑りだから綺麗事を事も無げに言って退ける偽善者に好感を持ってしまうし、今時は正直者の真心を愚直と見做す程、精神が腐敗した者が幅を利かしているからプロ野球界に限らず現世では正直者は馬鹿を見勝ちになる。況して今時は娯楽が多岐に亘りファンに球場へ足を運ばせる為には様々なファンサービスが必須となりヒーローインタビューでもファンを楽しませられる選手が求められる様になって来て僕が中学生の頃に戯けていた位なレベルのふざけた事や恍けた事や調子の良い事や好い加減な事を言う選手が持て囃され、中には澄まして綺麗事を言う自分に飽き飽きするのか、自分の言う事にリアリティが無いもんだから強引にリアリティを出そうと突然叫ぶという素っ頓狂な言動をする選手なんかもいたりして、そんなのが時好に投じる様な内容なんかどうでも良くて兎に角、嘘でも何でも良いから明るい雰囲気になれば、それで良しとする軽薄な御時世だから仮に僕の好む様に重厚に朴訥と正直に答えれば、馬鹿を見るのは必至だ。

『だから綺麗事を言ってりゃあ良いんだよ。それで好感を持たれる訳だし何が悪いんだよ!』と俗人はこう来るだろうが、そんな風に一々利害得失を優先して損得勘定して即物的に思っていては口先だけで巧い事を言う上辺ばかり装った内容の無い偽善者が持て囃され罷り通り、内容の有る正直者が馬鹿を見る世の中の儘になるからいかんのだと僕は言いたいのだ。僕はこんな世の中に対し虚無感を抱いたのなら上辺を重視する見方を全面否定して皮相な見方に束縛された世の中からの解放を求め、正直の頭に神が宿る誠実な世の中の実現目指して常に理想を忘れず敢為邁往の精神で勇往邁進しなければいかんのだと偉そうに言いたいのだ。だから選手は今までの綺麗事を澄まして言って上滑りな俗輩に好感を持たれようとしていた偽善者たる自分を、今までの綺麗事を澄まして言って上滑りな俗輩に気に入られ安心していた偽善者たる自分を、今までの綺麗事を澄まして言って成功している自分に陶酔していた偽善者たる自分を恥じ自ら葬り去らなければいかんのだと僕は言いたいのだ。

 元来、選手はファンに綺麗事を言って媚びを売る必要はないのだ。選手は野球を見せさえすれば、それで良く、ベストのプレーを見せさえすれば、それで良く、それがファンサービスの神髄なのだ。が、悲しい哉、それで満足出来る程、喜べない節穴の似非ファンばかりだからNPBは余計なファンサービスを案出しないと立ち行かなくなり、選手は節穴の似非ファンどもに綺麗事を言って媚びを売る必要が出て来る訳だ。

 その節穴の似非ファンである俗人どもの間にはどうも綺麗事が仮令、見え透いていても綺麗事で以てその場が和めば、それで良しとする不文律が有る様で世の俗人どもは実質の伴わない口先だけのお体裁だけの儀礼的な薄っぺらな付き合いを恰も約束したかの様に繰り返し、斯かる予定調和な付き合いにすっかり慣らされ馴染んでしまっているのだ。これでは互いに腹を割って真心をぶつけ合う機会が無くなり、物を深く考える付き合いや誠実な付き合いが廃れ、精神が腐敗してしまう。中には偽善を良心の呵責無くやる偽善者、取りも直さず、自己欺瞞をせずに偽善が出来てしまう、これぞ正しく偽善者と太鼓判を押せる偽善者まで居て、こいつらが正直者の真心を愚直と見做す程、精神が腐敗しているのだ。

 実際、今時のプロ野球選手にしても同調化、集団組織化、情報化に因る画一化が推進される社会で育っているから集団から除け者にされるのを酷く嫌い、中には綺麗事を言い合うのを始め偽善を遣り合いながら仲良し仲良して同調する事が自然と出来てしまう選手、取りも直さず自己欺瞞をせずに偽善が出来る偽善者がいるのだ。こういう者はいざという時は裏切る癖に自分を善人だと勘違いしているから質が悪い。それに今時の選手は少子化社会で何不自由なく育っている者が多いから他人を押し退けて這い上がろうとするハングリー精神が欠けている所為で尚更、仲良し仲良しする事が自然と出来てしまう訳だ。

 今時のヒーローインタビューを受ける選手と僕の記憶の中にある昔のそれとを比較してみても今の選手が如何に綺麗事が多くなっているかが分かる。全く隔世の感がして昔の選手は口下手で無口で軽々しく綺麗事が言える者は少なくて訥々と喋る者が大半で特に僕も大好きだったミスタードラゴンズの称号を与えられた高木守道選手なんか無口も無口で今なら暗いの一言で駄目出しされる様な選手だったが、当時は無口な男が良いとされていたので寧ろ無口が売りになり、『むっつり右門』と呼ばれ、渋い選手の代名詞的存在となり、それは勿論、実力が伴っていたからで、打てる内野手として脚光を浴び、守備でも燻し銀のプレーで注目を浴び、バックトスを自家薬籠中の物として行き、名プレーヤーの仲間入りを果たし、ヒーローインタビューでも口数が少ないのがそれはそれで味わいが有って男臭くて良いとされていた。が、今時はへらへらしている者は素より油紙に火のついた様に喋る者がざらにいて中には端から受けを狙っている様なお調子者もいて僕から見れば歯が浮く様な綺麗事を平気で言える者が沢山いて、そういう者が持て囃され罷り通る様になってしまったのだ。

 全く今の選手は僕が少年の頃、憧れていた選手とはイメージが全然、違って軽薄な感じがして、とても馴染めなくて、あんな者に好感を持つ方も軽薄だと思うが、軽薄と言えばNPBはWBCを盛り上げようと自らを偉そうに侍ジャパンなぞと銘打って久しいが、軽薄だけに軽々しく名乗っているだけの話で全くのはったりで、あのメンバーの中に侍と呼べる気骨の有るような一匹狼のような豪傑のような武士道を弁えたような者は一人だっていやしない。昔は監督を男にしてやると言って張り切る忠誠心を持った選手がいたが、そんな選手も見当たらない。但、スポーツを通して心身を鍛え上げているからサラリーマンと違って単に同調して集団に納まっているのではなくてフォアザチームという美しい精神によってチームに属していると言える選手が薬にしたくもないと、そこまでは言わないが、まあ、しかし、そりゃあ僕だって叩き上げの選ばれし国の代表にケチを付けたら大いに反感を買う事位は分かってはいるんだけれど、実際、サラリーマン化している事は否めないのであってケチを付けざるを得ないし、プロ野球観戦していてうんざりするようになったのだ。

 更にうんざりさせられるのが応援団の連中だ。あの連中の気に入らない事と言えば、そもそもあの連中は結果だけ見て一喜一憂して唄ったり踊ったりする為に球場に来ていて野球を見に来ているとはとても言い難い。一見、楽しそうで良い様だが、実はあの連中は根暗で、あの連中の明かるさは周囲に釣られたり合わせたりした外発的な自分を持っていない明るさなのであり謂わば集団依存型、換言すれば同調型の明るさなのであって中身が空っぽの野球を全然、楽しんでいない明るさなのだ。この明るさは余り野球が分かっていない癖に皆と一緒だから何となく楽しくて結果だけ見て、きゃあきゃあはしゃいでいる女子供と然して変わらず、楽しみ方もそれと同様、稚拙なのだ。ああいう俗人どもは皆で、はしゃぐしか球場での楽しみ方を知らないのだ。ああいう連中は独りになると非常に暗くなる。だから集団に依存する。皆と一緒じゃないと寂しくてしょうがないのだ。いつまで経っても自我に目覚めず独り立ち出来ない餓鬼も同然なのだ。精神が幼稚な儘なのだ。あの連中のやっている事は児戯に類するのだ。救いようがないことに想像力が乏しい所為で自分を客観視出来ず自分の阿呆さ加減に気づかないのだ。自分達が子供騙しの絆で結ばれ阿呆な決め事で結ばれた阿呆な団体の一員である事に気づかないのだ。阿呆な連中と阿呆な決め事を照れも無く同じ様に出来るざまを見ていると、会社の連中を見ている様で笑えてしょうがない。

 イニングが変わる合い間の余韻を楽しまずチアガールの踊りやマスコットのパフォーマンスといったあんな余計なファンサービスに心を奪われたり応援団でもないのに応援団と一緒にほとんど機械的に手拍子を始めたりする客を見てもうんざりさせられる。只もう漫然と惰性で周囲に流される許りで何でも抵抗なく合わせてしまうあの我の無さは一体何なんだ。同じ人間とは思えない。これも村意識の現れだ。矢張り日本人は集団主義が根強く根付いていて正しく近代化していないのだ。少しは思索に耽って考える習慣を身に付けて独立心を養って主体性を養って知性を養って健全な批判精神を養って俗人から気難しい奴だとか嫌な奴だとか高踏的だとか言われる骨の有る外連味の無い人間になれ!と僕は言いたい。骨無しの海鼠人間に成り下がっていてはいけないのだ!無論、応援団の連中もそうだ。出来れば、そう忠告して応援団の解体を命じたいくらいだ。何しろ応援団は煩いだけでなく本当に目障りなのだから。応援団は自分を持たない根暗な同調者を生む温床なのだから。応援団は玄人はだしのファンの邪魔なのだから。応援団は玄人はだしのファンの敵なのだから。応援団は節穴の似非ファンの集団なのだから。

 僕は応援団や鳴り物やチアガールやマスコットといったチャラチャラしたものが一切ないストイックに集中して野球を観られた頃の環境に全球場が戻って欲しい!そうなるだけで選手も客も野球に集中出来るから選手はより良いプレイを披露する事が出来て客は野球を見る眼を養う事が出来て互いに野球について深く考えるようになれて自然と大人になれると思う。

 だけど、嗚呼、また、風船飛ばしが一斉に始まった。あの連中を見ていると、いつまでも餓鬼の儘だと絶望的になる。あの連中は馴染めない中でも最も馴染めない輩だ。もうこんな所に来たくない。何もかも変わってしまった。もうプロ野球なんか観たくない!もうプロ野球なんか嫌いだ!

 僕はそう思って人込みを避けようと、黄昏時にナゴヤドームを後にした。

 すると秋風がそよぐ上空から小鳥のさえずりが聞こえて来て、その時だけ昔に帰ったような気がして幾らか救われた。


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