1話 世界の始まり
【 】は死を望んだ。
きっとこの世に産まれてきたこと自体が何かの間違いだったのだ。
だから、死にたかった。
死を以て、この不幸を終わらせたかった。
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くぐもった声と水気の混ざった衝突音が木の葉のざわめきの中に消えていった。
見渡す限りに緑が広がり、日は傾き地平線までを覆い尽くした樹海の中でひっそりとレンガ造りの塔が佇んでいた。装飾等は施されておらず内部は屋上へと繋がる螺旋階段のみで、用途不明の塔の屋上からの眺めは果てなく続く樹海を一望することが出来た。
三百六十度どこを向いても景色の変化は乏しい。青く生い茂る木々を視界から追いやるには空を仰ぐ他無い。
空は夕暮れに染まりつつあり塔は影を鋭く伸ばす。日と塔の延長線上にある木々は影に覆われ、そしてそこに――塔のもとに――血溜まりの中心で俯せで倒れている誰かが居た。
あちこちの関節や骨が異様に折れ曲がり、所々皮膚から折れて鋭く尖った骨が飛び出ていた。顔は原型がどの様なのか判別出来ず、真っ赤に染まった歯が数本顔の近くに散らばっていた。
運が悪ければ即死を逃れ苦しみながらまもなく息絶える、そんな有り様だった。
しかし、溢れる血液の広がりがようやく収まった頃、絹糸のように細く艶やかな漆黒の髪で覆われていた瞼がゆっくりと開いた。
俯せの姿勢から錆び付いた歯車のように首を動かし、喉から迫り上がる血を口から垂れ流す。何度も吐血と咳をしたあと、ひゅうひゅうと弱々しい呼吸を繰り返した。
ひび割れた肋骨が上下する度に、肺は地面と自重で押し潰され表情は険しくなっていく。両手は地面を抉り取って土を握りしめた。
不運にも即死ではなかった。影の様に黒い空洞のような瞳が怒りの籠った睨む目付きに変わった。口許は歯軋りをして強ばっていた。
両腕を地面に突き立てて上体を起こし、よろめきつつ膝を震えさせながら立ち上がった。徐に背後にある扉のない出入口の方へ向きをかえ、一歩一歩地面に足を引き摺りながら塔の中へ姿を消した。
目許がちょうど隠れる髪を軟風に優しく撫でられながら、青年は塔の屋上に居た。壁を支えにしても立つことは疎か、地面に倒れ伏したまま全身血だらけのまま動けなかった――というようなことはなかった。
塔の縁の上にきちんと二本足で立っていた。満身創痍とはかけ離れた傷一つない身体で、骨折の形跡などなかった。
顔立ちはやや中性的、男性にしてはやや長めの透き通った髪、痩せぎみのほっそりとした体つき、そして生気が抜け落ちた真っ黒の瞳は地面の奥をじっと見詰めていた。
彼は目を閉じて前に倒れ込んだ。両手を広げたまま重力に従って加速し空気の抵抗を一身に受けるのも束の間、ほんの数秒後には鈍い音を立てて土の地面に叩き付けられた。
臓器が破裂しあらゆる箇所が骨折。折れた肋骨が肺や心臓に突き刺さり、鼓動が鳴る度に血液が体外へ排出された。
青年はまた塔の外へ足を運ぶ。そこには何もなく、あるのは遥か下に固い地面だけ。また倒れ込むように落ちていき、また傷ひとつ無い身体が地面との衝突で破壊される。
また落ちて、呻き声を上げながら塔の階段に足を掛けた。
落下直後の見るに耐えない姿は、塔を登った時には何もかもが元通りになっていた。何一つ欠損のない五体満足の体。彼が立ち上がる頃には血溜まりはどこにも見当たらない。
どれだけ怪我をしても治っていた。折れた骨や潰れた臓器が正常な形に治っていく、その様は異常としか言えない。異常が正常に働いているのだ。
彼はそんな不運を繰り返した。苦しみを幾度と体験した。何故彼は自ら不幸へと近付くのか、その意味など知る由も無かった。
幾度と訪れる死の拒絶。運良く即死することは一度もなかった。次第に彼は螺旋階段を全速力で駆け上がるようになった。頭から落ちるように飛び込み、落下の速度も速くなり再度飛び降りるまでの周期が短くなる。
落ちて、落ちて、落ちて――。何度やっても身体は元通り。空は夕暮れのままで夜の闇は何時までもやってこない。彼は不変の中で無意味なことをし続けた。
――そして青年はとうとう飛び降りるのをやめた。直前で踏み留まりその場に膝を落とした。手持ち無沙汰になり掌を見詰める。両手は震えが止まらず痙攣した手で顔を覆うと青年の掌に涙が伝う。
嗚咽は過呼吸となり、左胸を抑えながら身体を縮こませた。呼吸音は次第に大きくなるがそれでも過呼吸は治らない。そもそも吐くことが出来ていないのだ。許容量を超えて酸素を取り込み続けてしまうから、彼は口許を左手で抑えた。
心臓がバクバクと高鳴る度に肩を震わせ泣き続けた。どうして泣いているのかなど誰にも分からない。そこには彼以外誰もいない。
一人孤独の中で彼の感情は爆発した――。
「――――あぁぁあああっ……!」
とても弱々しくて非力な叫び。その叫びと共に彼はもう一度塔から飛び降りた。
重力に身を委ね視線が下を向いたその時、彼は目の色を変える。彼が見付けた違和感の正体、それは水だった。変わらなかった土の地面に眩い光を放つ水面が現れた。半径1メートル程の白く光る小さな水溜まり。
直下にある水に引き寄せられるように青年の身体は落ちていく。徐々に加速しながら水面へと。
5メートル。
4メートル。
3メートル。
2メートル。
1メートル。
0。
大きな水飛沫を上げながら身体は水中に深く沈んだ。天変地異さながらの変化に目を丸くする。底の見えない暗い水中で、青年の正面に小さな光が現れる。先程と同様の光る円があった。
まるで誰かに呼ばれるかの如く身体は落ちるようにその円に引き寄せられた。
黒髪の青年はその円へ沈んでいく。
変わらない世界から、青年は抜け出した。
これは、死を望む物語。