03.謎の青年
一人暮らしの賃貸マンション。誰も居るはずがないのに、人の居る気配。もしかしてとドアノブを回すが、玄関の鍵は閉まっている。ちゃんと用心してくれているようだ。一呼吸おいて、私は何故か自宅に緊張感を抱きながら扉を開けた。
「雪子さん!おかえりなさい。お腹空いたよね?」
玄関を開けて最初に目に飛び込んできたのは、問題である例の青年。その奥からふわっと美味しそうな臭いがして、今朝と同じようにお腹が鳴りそうになる。思わず口の中に溢れた唾を飲むと、青年は嬉しそうにはにかみ、夕飯の準備を進めた。……今の音、聞こえたのだろうか?
何でもないふりをして家に上がると、一人用の小さなローテーブルには、そこから溢れんばかりの料理が並んでる。しかも、私の好きなものばかり。
え……何でこの人、私の好みをここまで理解してるの?と、普通の人の思考はそうなるべきだった。
「お、美味しそう……!」
だが、私の口から出たのは称賛の言葉で、そんな事を言う時点で、私は既にこの青年に胃袋を捕まれているのだろう。それが異常事態だとも気付かないのは、仕事終わりで空腹だった私の食欲が、限界を向かえていたから……と言う事にしておこう。
「雪子さんが好きだって言った物を作ってみたんだ。口に合うといいんだけど。」
背後から青年がやって来る。その優しい声に振り返ると、喉元まで『ありがとう』と言う言葉が出てきたが、そこで漸く私は事の重大さに気付く。
27歳独身女の家に、正体不明の若い男が朝から入り浸っている。料理で女の胃袋を鷲掴みし、更には動揺して朝はしっかり顔を見ていなかったが、こうして見ると、かなりのイケメン……と言うより、私の好みそのものだった。そして何より、あの着信……。『代理サービスセンター』って……。
私の第六感が叫んでる。……これは、罠だ!!
「ちょ、ちょっと待って!」
咄嗟に青年との距離をとろうと後退りをしたその瞬間、私の腕が青年の腕を弾いた。その手には、取り分け用の小皿やお箸があったのだが、弾かれ、それらはバラバラとフローリングの上に散らばった。
また第六感が叫ぶ。やってしまったと。
「あっ……ご、ごめんなさぃっ……!!」
反射的に自分の頭を庇おうと、体が勝手に動いた。殴られる……!相手は男だ。ただで済む訳がない。次に来る衝撃に備えるが、一向に体に痛みはなく……思わず反射的に閉じた目を開ける。
「ごめんなさい、雪子さん。いきなり後ろに立たれたら驚くよね。今度から気を付けるから。」
目を開けると、そこには優しい顔のまま――でも申し訳なさそうに眉を下げた青年が、こちらを見ていた。その顔に、胸が苦しくなる……。ああもう、若いっていいなぁ。顔が好みなのもあるかもしれないけど、もう私は胃袋だけじゃなく、心も捕まれてる。現金な自分が嫌になる。この正体不明の謎の青年に……訊かなきゃいけない事が、話さなきゃいけない事が沢山あるのに。
なのに……何でこんなに心地良いのだろう。
この子は一体、何者なんだろう。
「あなたは……誰なの?」
「え……?」
「ごめんなさい……私、覚えてなくて……。」
私の言葉に、青年は困ったように笑かけてきた。また、ズキリと胸が痛む。
「……うん、わかった。雪子さん、昨日も疲れてたもんね。ご飯食べたら、もう一回ちゃんとお話ししよう?」
青年の言葉に、沈黙したままの私は頷く。それを確認した青年は、私から目を背け、フローリングに落ちた食器類を拾い始めた。そこには、割れたお皿もあるのに……。
「……手、怪我しちゃうよ。」
それだけ言って、私は箒と掃除機を準備する為に立ち上がる。一度その場から立ち去る私の背中を、青年が寂しそうに見ていた事は、知るはずもなかった。