9
銀鈴は、夢と現実の、目覚める境目でうとうとしていた。何か暖かいものが耳介に触れて、身じろぎをする。
「……ん」
銀鈴は、手をさ迷わせ、目の前にあるものに触れた。なんか、すごい、さらさらしてる。それは引っかかることなく、指の間を滑っていく。その感触に、銀鈴は夢中になった。
こんな絹糸がほしいなあ……。そうしているうちに、だんだん意識が浮かび上がって、はっきりしてくる。銀鈴はうっすらと目を開いた。目の前に、美しい顔がある。
「おはよう、熱血お針子娘」
「っ色猫金華!」
「その呼び方はどうなんだ」
金華は指先で銀鈴の前髪をつまんで、何度か梳いた。銀鈴が乱した漆黒の前髪が瞳にかかり、まつげに触れている。はだけた着物から覗く肩や鎖骨が、妙に艶めいて見えた。直視できずに、銀鈴はぎぎぎ、と目をそらす。
「は、離してくれますか、金華さま」
「なんで?」
「暑苦しいんでしょう、私」
「ちょうどいい、俺は冷え性だから」
耳に吐息が触れて、銀鈴はびくりと身体を揺らした。
「!」
「おまえ、あったかいな……最近寒いから、すごくいい」
ぎゅっと抱きしめられて、銀鈴は混乱した。
「ちょ、離っ……」
「なあ、触るか? 俺の傷跡」
「はあ!?」
気だるい口調や、こちらを見つめる切れ長の瞳に、身体が固まる。普通に話している時は、こんな風にならないのに。やはり金華猫の魔力ゆえ、なのだろうか。恐ろしや、魔性の猫。
金華は銀鈴の手を掴み、ゆっくり引いた。傷跡って、確か太もも……。銀鈴は真っ赤になって、彼の肩をぐいぐい押した。
「触りませんっ!」
「おまえがめちゃくちゃにするから、すごいことになった。責任を取れよ」
「それ髪の毛の話ですよね!?」
銀鈴は金華と自分の間に枕を挟み込んで隙間を作る。攻防していたら、障子がからりと開いた。
「おはようございます、金華さま。お食事をお持ちしま……」
布団の上で絡み合っている金華と銀鈴を見て、侍女が真っ赤になった。
「し、失礼しました!」
彼女はそそくさとお盆を置き、部屋を出て行く。銀鈴はわなわな震え、金華の頭に枕を食らわせた。
「離してッ!」
銀鈴はぱかっとお櫃を開けて、ご飯をよそった。それを金華に差し出す。
「はい、どうぞ」
金華は不機嫌そうな顔で茶碗を受け取る。
「まったく、乱暴な女だな。もので殴るのはやめろって言っただろ」
「金華さまが朝から色ボケしてるからでしょう」
「誰が色ボケだ」
あんたよ、と心の中で告げる。乱れた髪のまま食事をする金華の仕草を見ていると、さきほどのことを思い出してしまう。銀鈴は咳払いして、金華に声をかけた。
「あの、金華さま。今日ちょっと家に帰ってもいいですか」
「家? なんで」
「みんなの様子をみたいので……」
「行かなくとも、ここに呼べばいい」
銀鈴は目を瞬いた。
「でも金華さま、子供嫌いって……」
「気にするな。俺は部屋から出ないから。その代わり、そっちも俺の部屋には子供を入れるな」
どうしてそんなに子供が嫌いなんだろう? 銀鈴は疑問を抱きつつ、ありがとうございます、と言った。
翌日、銀鈴は、宮城の門前で弟たちを待っていた。道の向こうからやってきた馬車を見て、ぱっと顔を明るくする。馬車はガタゴト音を立てながら、門の前にとまった。
「ねーちゃーん!」
馬車から降りて、駆け寄ってきた弟と妹が、銀鈴に抱きついた。銀鈴も彼らを抱きしめ返す。
遅れて、祖母も馬車から降りてきた。
英俊が手を貸そうとしたら、彼女は杖で彼の手を叩き、
「年寄り扱いするんじゃないよ」
「ば、ばばさま!」
銀鈴は、慌てて祖母に駆け寄った。そうして、頭を下げる。
「すいません、英俊さん」
「いいえ。お若いお祖母様ですね」
英俊は気を悪くした様子もなく、弟たちに声をかける。
「お菓子を食べたい人はお兄さんについておいでー」
「わーい!」
弟たちは疑う様子もなく、英俊について行った。食べ物につられやすいのは、普段切り詰めた食事をしているから仕方ないだろう。しかし、大丈夫なのだろうか。ああも簡単に手なづけられるとは……。
祖母はじろじろ英俊の後ろ姿を見て、
「なんだい、あの男は。うさんくさい」
「うん、それは同意」
銀鈴は真顔で頷いた。悪い人ではないと思うのだが、どうにもきな臭いのだ。笑顔の裏で、何かを企んでいるような気がする。銀鈴は、祖母を支えてゆっくり歩き出した。祖母がぽつりと口を開く。
「元気でやってるのかい」
「うん」
「化け物に無体な真似をされてないだろうね」
「金華さまはそんなに悪人じゃないよ。みんなが宮廷に来るのを許可してくれたし」
「人間じゃないさ、妖憑きは」
吐き捨てるような口調に、銀鈴は思わず祖母を見た。祖母はその視線を受け流し、
「にしても、ここは一体どこなんだい」
竹林を見渡す。
「一応宮廷らしいよ。金華さまが住んでるのはこの先なの」
「へえ。似合いの場所だね」
「そこ、竹が隆起してるから気をつけて」
銀鈴は祖母と共に、金華の住まう月籠庵へと向かった。祖母は、月籠庵を覆う竹を見上げて目を細める。大人の目には鄙びた月籠庵だが、子供たちの琴線に触れるものがあったらしい。悠鈴と晶馬が、だっ、と駆け出した。
「わー! 秘密基地だ!」
「私が先ー!」
我先にと月籠庵へ入っていく。英俊は元気ですねえ、と言いながら笑っている。
「では、私は青楓殿に戻りますので。何かあれば呼んでください」
「大変ですよね、青楓殿とここを行き来するのは」
「ええ、まあ」
「金華さまをもっと中央に近い場所に住まわせたらいいのに」
英俊が曖昧に笑った。何かおかしなことを言っただろうか? 銀鈴はそう思って首をかしげる。上り口に腰を下ろしていた祖母が口を開いた。
「銀鈴、早く案内しておくれ」
「あ、うん」
英俊と別れ、二人して月籠庵の中へ入る。廊下にも、そこから見える庭にも、弟たちの姿は見えない。かくれんぼでもしているのだろうか? たどり着いた部屋を見回し、祖母が呟いた。
「悪くない部屋だね、化けものの住処にしては」
「うん。三食おやつ付きだよ。信じられないよね」
祖母はふん、と鼻を鳴らす。お茶を淹れてくるから待ってて。銀鈴はそう言って部屋を出た。金華の部屋の前を通りかかると、なぜか弟たちの声がした。
「?」
銀鈴は不思議に思い、障子に手をかける。からりと開けたら、弟たちが何かにのしかかっているのが見えた。潰されている黒い物体には見覚えが……。
「金華さま!?」
慌てて駆け寄り、黒い物体を抱き上げた。
「こら、何してるの!」
弟たちが不服げな顔でこちらを見上げる。
「ずるいよおねーちゃん、にゃんこを独り占めするなんて」
「いやコレはにゃんこじゃな……まあ見た目は猫だけど」
銀鈴がぶつぶつ言っていたら、
「ねー、このねこちゃん、にゃーって鳴かないのー?」
悠鈴があどけない顔で尋ねてくる。金華は潰れた巾着袋みたいな顔をしていたが、ものすごく仕方なさそうに鳴いた。
「にゃー」
「わー! かわいい! 私も抱っこしたい」
「僕もー!」
弟たちは、ぬいぐるみに対するがごとく、金華をもみくちゃにする。金華は石のように固まっていた。銀鈴はハラハラしながら言う。
「こらこら、ひげを引っ張ったらだめよ」
「この猫ちゃんはなんて名前なの?」
「わかった! ごんすけだよ」
「もっとかわいい名前だよ。すずとか」
弟たちは猫の名前を当てる遊びを始める。金華はなんとかしろ、と言う目でこちらを見た。銀鈴は顔を引きつらせ、
「みんな、おやつがあるから私の部屋に行こう」
「じゃあ猫ちゃんも連れてく!」
「だめよ、婆様は猫が嫌いでしょ」
弟たちはえーっ、と不満の声を漏らした。銀鈴はあることを思いつき、あ、と声をあげる。そうか、弟たちが金華と遊んでいるうちに、この部屋を掃除するという手があった。
「いいわよ。ただしお庭で遊びなさい」
銀鈴がそう言うと、金華がギョッとした目でこちらを見た。
晶馬と悠鈴は、金華を取り合いながら、障子を開けて出て行った。銀鈴は腕まくりをし、
「ふっふっふ、やるぞ」
換気をし、床に落ちているものをすべて廊下に出した。汚れ物はひとまとめにし、裏にある井戸で洗う。ついでに、咲いていた椿の花を一輪切った。ハタキで棚の埃を払い、ほつれていた座布団を繕う。床は乾拭きと水拭き。
すべての作業が終わったのは、一刻が過ぎたあたりだった。
「ふう、こんなものかな?」
銀鈴は、ピカピカになった部屋を見渡した。こうして見ると、落ち着いていていい部屋だ。銀鈴は一つだけ残った行李に目をやった。開けてみると、小さな着物が入っている。
「随分小さい着物……」
合わせの部分にシミがついて、なんだか胸がざわりとした。これは──血? 見てはいけないものを見てしまった気がして、急いで元に戻す。
その直後、障子が開き、英俊が顔を出した。
「おや、銀鈴さん。こちらにいらっしゃったんですか」
「あ、英俊さん」
英俊は部屋に入ってきて、感心したように辺りを見回す。
「綺麗になりましたねえ」
「はい。部屋がすっきりすると、気分も変わるかな、と思って」
「いいですね。ところで金華さまは……」
英俊の言葉を継ぐがごとく、とたたた、という足音が聞こえた。そののち、カリカリと障子を引っ掻く音がする。にゃーにゃーと声も聞こえた。英俊が障子を開けたら、黒い物体が飛び込んできた。それは素早く銀鈴の背中に隠れる。
「金華さま!?」
「おや」
銀鈴は面食らい、英俊はキョトンとしている。
「猫ちゃーん!」
二つの足音が聞こえたかと思いきや、弟と妹が部屋に飛び込んできた。彼らは英俊を見て、ぱっ、と顔を明るくした。
「あ、おにーちゃんだ」
「おにーちゃーん」
弟たちは英俊に近づき、腕に抱きついた。二人とも、何故か異様なほど英俊になついている。先ほど出会ったばかりのはずなのに、いったいどんな技を使ったのだ……。銀鈴は目の前の光景を不審に思った。晶馬は英俊の袖を引き、
「ねーねー、猫ちゃんしらない?」
悠鈴は英俊を見上げながら言う。
「いなくなっちゃったの」
「それは不思議ですねえ。一緒に探しましょうか」
英俊はにこにこ笑いながら答える。
「飴がほしいひとー」
「「はーい!」」
英俊は飴を片手に弟たちを連れて行く。その際、ちらっとこちらをみて片目をつむった。
彼らを見送った金華が、ぽつりとつぶやく。
「子供は俺をめちゃくちゃにするから嫌いだ」
金華の毛並みは、確かにもわもわになっている。銀鈴は思わず笑う。子供嫌いがそんな理由だったとは。
「ふふ、すごい、おかしい……っ」
「笑い事か?」
銀鈴は肩を震わせながらうなずいた。金華は不服げにこちらを見て、人型に変幻した。
「わっ! ちょっと!」
銀鈴は慌てて目をそらし、着物を投げつける。金華はそれを羽織って、銀鈴に身を寄せた。
「なんならおまえも、俺をめちゃくちゃにしていいぞ」
「しませんよ!」
「今朝しただろ?」
「あれは、髪だし……猫とは違いますし!」
むきになる銀鈴を、金華が笑う。彼は卓の前に座り、しげしげと部屋を見渡した。
「随分と綺麗になったな」
「でしょ?」
外から、悠鈴たちの笑い声が聞こえてくる。金華は目を細め、
「あれがおまえの家族か。元気でいいな」
ちょっと元気すぎるかもしれないが。金華はそう漏らす。
「……金華さまも、弟さんいるでしょう? 国王と、王妃様も」
「血が繋がってるだけじゃ、家族とは言えない」
銀鈴は、その言葉に胸を衝かれた。金華はずっとひとりなんだ。たとえ家族が生きていても……。筆をとった彼のそばに、銀鈴はぺたん、と座った。袖をそっと引く。
「あの……なんなら、うちの家族に入れてあげますよ」
金華は不思議そうな顔でこちらを見た。なんだかバツが悪くなり、銀鈴は目を彷徨わせる。
「ほら、猫としてとか」
彼はふっと表情を緩めた。
「やめとく。あいつらにもみくちゃにされるのはごめんだ。それに、家族になったらおまえを口説けない」
「またそういうこと言って……」
銀鈴はため息をついて、立ち上がろうとした。金華がくい、と手を引く。
「どこ行くんだ?」
「部屋に戻るんです。ばばさまをずっと一人にはできないし」
彼はじっとこちらを見て、
「帰りたいか、家に」
「はい。お針子になって帰りたいです」
「銀鈴……」
彼はなにか言いかけて、首を振った。
「なんですか?」
「なんでもない。行け」
銀鈴は金華の手を解いて、部屋を出た。
「なんだったんだろ……」
銀鈴は、握られた手をじっと見下ろした。金華の手は冷たかった。その冷たさを反芻していたら、背後から声がした。
「銀鈴」
「うわあ!」
びくりとして振り向くと、祖母が立っていた。
「ば、ばばさま」
「何してたんだい。この部屋は?」
「な、なんでもないよ」
銀鈴は、慌てて祖母の背を押した。障子の隙間から、金華と祖母が一瞬だけ視線を交わしたが、祖母はすぐに目をそらす。
「ばばさま……?」
「あれが金華猫か。人間の振りがうまいね」
祖母は、金華猫のことを口に出す時、苦い口調になる。なぜだろう。
「金華は人間だよ」
「騙されちゃならないよ、銀鈴。どんなに美しく装ったところで、あれは化けものだからね」
その口調は、ひどく冷たかった。