8
「うーん、困った」
銀鈴は、宮廷の真ん中で途方にくれていた。威勢良く駆け出したはいいが、英俊の居場所がわからない。
(そういえば、琢磨が何か言いかけていたような)
とりあえず、官吏が集まる青楓殿の方へ向かおうと、銀鈴は足を進めた。向こうからやってきた官吏に声をかける。
「あの、すいません……」
官吏は銀鈴を見るなりさっと目をそらし、足早に歩いて行った。ちょうど女官が通りかかったので、声をかけようとする。が、完全に無視された。銀鈴はため息をつき、見当をつけた方へと向かう。
宮廷の奥へ進むと、ひらけた場所にたどりついた。東屋がぽつんと建っていた。東屋の周りには夾竹桃が茂っていて、花咲く頃を待っている。
銀鈴が東屋のそばを通りかかると、誰かが腰掛けていた。一人の少年が、椅子に腰掛け、書物を読んでいる。いかにも思慮深そうな、端正な顔立ちをしていて、彼の背後に夾竹桃の花が咲いたら、さぞ映えるだろうと銀鈴は思う。
(綺麗な人だな。それになんだか、誰かに似てるような気がする……)
ふと、少年が書物から顔を上げた。彼は銀鈴に目を向け、一瞬目を細める。が、すぐに笑顔になった。
「こんにちは」
感じのよさそうな人だ。銀鈴はホッと息を吐き、彼に近づいていく。
「こんにちは。あの、お聞きしたいことがあるのですが」
「なにかな」
「柳英俊さまをご存知ないかと」
「英俊? この時間なら、きっと青楓殿にいるよ。案内しようか?」
(呼び捨て……?)
書物を閉じた少年は、ひらりと欄干を超えて、こちらへ降り立った。銀鈴は彼と一緒に歩きながら、礼を言う。
「ありがとうございます、わざわざ」
「見慣れない顔だけど、どこの部署の子?」
「金華さまのお世話係をしています」
「へえ。大変じゃない?」
ワガママで根暗……確かに、皇金華は大変なひとかもしれない。だが、悪く言うのははばかられた。一応主人なのだし。そう思って、無難に返しておく。
「そんなことはないですが」
「優しいんだね」
「金華さまのこと、お詳しいんですか?」
「まあね」
しばらく行くと、青楓殿の門が見えてきた。少年は門をくぐり、建物を指差す。
「英俊は多分、あの房にいるよ」
「ありがとうございます」
「じゃあね」
夾月は踵を返す。銀鈴は、あっ、と声を上げ、懐から手巾を取り出した。
「これ、お礼です。よかったら」
差し出された手巾を受け取り、少年はへえ、と声を上げる。
「綺麗な刺繍ものだね。君が作ったの?」
「はい。あの、名前をお聞きしてもいいですか」
「当ててみて」
「はい?」
キョトンとした銀鈴の肩に、少年が手を置いた。
「当てたらいいものをあげる」
「えーと、清真とか?」
「はずれ。残念」
少年は今度までに考えておいて、肩から手を外して去っていった。不思議な少年だ。銀鈴は、彼を見送りながらそう思う。
青楓殿には、いくつも房があり、それぞれの部屋で官吏が仕事をしているようだった。
銀鈴は教えられた房の前に立ち、英俊さん、と呼びかけた。がしゃん、ばきっ、どさっ、という音が聞こえて、びくりとする。
「!?」
しばらくして、中から英俊が出てきた。彼はにこやかに笑って、
「おや、銀鈴殿。どうかしましたか?」
「あ、あなたがどうかしました!?」
英俊の服は、埃まみれだった。いやあ、本を片付けていたら足をひっかけまして。彼は呑気な声で言う。銀鈴は顔を引きつらせ、
「金華さまがやるはずだったお仕事をもらいたくて。英俊さんが負担してるんですよね?」
「ほほう。あ、どうぞどうぞ、汚いところですが」
そんな謙遜をしなくてもいいのではないか……銀鈴がそう思いながら部屋に入ると、
「ほんとに汚いッ!?」
室内は、まるで泥棒に入られたかのように荒れていた。引き出しは開けっ放し、書類はあちこちに散らばり、机の上にはものが散乱している。
(泥棒でも入ったのかしら……)
銀鈴が呆然としていたら、英俊が照れたように頭の後ろへ手をやった。
「いやあ、整理整頓が苦手でして。すぐ物を失くしますし」
「は、はあ」
「実はこの筆、今年に入って一五七本目なんです」
「百五十七本……」
整理整頓とかいう問題だろうか。
筆屋もさぞ儲かってウハウハしているに違いない。逆に英俊の懐は大丈夫なのだろうか、と銀鈴は思う。彼が持っているのは、なかなか値の張る筆に見えた。この散らかしようでは、なくしたものも見つかるまい。
大体、こんな部屋では仕事にならないのではないか。銀鈴は箱を二つ用意した。それぞれに、「不要」「必要」という紙を貼る。
「いいですか? いるもの、いらないもの。それぞれ分けて入れてください」
「使うかもしれないものは?」
「そんなものはありません。物には使うか使わないか、どちらかしかないんです」
「片付けって厳しいんだなあ」
英俊はのんびり感心している。
(食えない人だと思っていたけど、割と抜けているのかもしれない……)
「私も手伝いますから」
「頼もしいなあ」
銀鈴は英俊に背を向け、本の整理を始めた。肩に手が触れたので振り返る。彼はにこりと笑う。
「埃がついてました」
「どうも……」
どうみたって、英俊の服の方が汚れていたのだが。
片付けを終えると、部屋はようやく日常生活を営めるくらいには回復した。英俊は片付いた卓に手を置いて、目を輝かせる。
「おお、卓の表面が見えている! 素晴らしい」
「感動するとこですか、そこ」
「いやあ、ありがとうございます。銀鈴殿は裁縫だけでなく、片付けも得意なんですねえ」
「英俊さんが常軌を逸してど下手くそなんですよ」
思わずキツイ突っ込みをしたが、英俊は特に気にした様子もなくニコニコしている。色ボケ猫、金華のお付きだけあって、器は大きい……のか。
「それで、あの」
「ああ、そうだ。金華さまの仕事、でしたね」
英俊は積まれている書類の山から、すぐさま目的のものを探し出した。満面の笑みで差し出してくる。
「はい、どうぞ」
「そういうのはちゃんとしてるんですね……」
「ははは。よろしくお願いしますね」
その時、かたん、と戸が開いた。
「どうも~……あれ、お客さんですか~?」
のそり、と青年が現れる。彼は銀鈴を目にし、瞳を見開いた。
「あれっ、忌み子じゃん! なんで~?」
「忌み子、ではなくて陽銀鈴、です。よろしくお願いします」
銀鈴は、一言ずつ区切りながら言った。
「彼は縫糸部主典の、明呂宋くんです」
「よろしく~」
英俊に紹介された呂宋は軽く手を挙げ、ひそひそと囁く。
「ちょっと、英俊さん。忌み子入れんのやばくないですか~? 現王派に睨まれますよお」
「私は派閥なんて関係ありませんから。みんな仲良く、世界が一つになればいいと祈っています」
「いや~今忌み子と仲良くするって超愚行っしょ~空気読めてますう?」
「あの、全部聞こえてますよ?」
青楓殿を出た銀鈴は、書類を抱えて月籠庵へ向かった。障子を開けたら、金華が猫姿でごろごろと寝転んでいた。前脚で顔をこしこししている様子は完全にただの猫だ。猫に憑かれると、性格まで猫っぽくなるのか……。
まあ、猫は金華と違って、いやらしいことなんか考えていないだろうけど。
丸まった姿は可愛いと言えなくもないが、実際には猫ではなく、それなりに成長しきった男なのだ。人間の姿で想像すると、情けなくて涙が出る。銀鈴は、ずかずか彼に近づいて行った。
「金華さまっ!」
そう叫んだら、金華の耳がぴくっ、と動いた。彼はジト目でこちらを振り向く。
「びっくりするだろう……大きな声を出すなよ」
「仕事、もらってきました! はい」
「はい、って……なんだこの量」
「だから、仕事ですよ。英俊さんはこれをひとりでこなしてたんですから」
金華はものすごくいやそうな顔をした。猫って意外と表情豊かなんだな、と銀鈴は思う。
「私、お裁縫道具とってきますから。やっててくださいね!」
銀鈴はそう言って、部屋から出た。しばらく間を置いたあと、障子の隙間からそっと覗いたら、人の姿に戻った金華が、卓に向かっているのが見えた。
(やっぱり、意外と素直よね……)
そう思いつつ、銀鈴は自室へ戻った。
ろうそくの明かりが、ゆらゆらと揺れている。あれから数刻後、外はすっかり暗く、静かになっていた。ちくちくと針を動かす銀鈴と、筆を走らせる金華。二人は同じ室内で、黙々と作業をしていた。金華がぽつりと呟く。
「なあ」
「はい?」
「銀鈴は、なんでそんなにお針子になりたいんだ?」
「単純ですよ。縫い物をするのが好きなんです」
針を動かしながら、銀鈴は言う。
「一針一針想いを込めて縫えば、その作品には魂が宿るんです」
「作品?」
「ええ。巾着も、金華さまが今着てる着物も、みんなちゃんとした作品です。お針子が想いを込めて、一針一針縫ったんですよ」
金華はこちらに背を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「……子供のころ、あるお針子が、俺に着物を仕立てた」
滅多にないことだから、嬉しかった、と彼は続ける。彼が口説き文句以外を言うのは珍しい。銀鈴は、続きを促そうと尋ねた。
「それで?」
「着物には針が残ってて、太ももに刺さった」
針には毒が塗ってあった。金華は淡々と続けた。銀鈴は息を飲んで、針を動かす手を止めた。
「全身が腫れて、俺は三日間苦しんだ。お針子は……」
金華はそこで、言葉を途切らせた。
「自殺してた。おそらく、誰かの指図だったんだろう」
「誰が、そんな」
「わからない。父か、母か。弟はまだ小さかったからあり得ないな」
針のことは誰にも言わなかった、と金華はつぶやいた。着物の上から、太ももを撫でるように手を動かす。
「だからかもしれない。今でも、小さな針がこの辺に刺さってる気がする」
銀鈴は何も言えずにいた。ぽつりとつぶやく。
「ごめん、なさい」
「なんで謝る?」
「針、嫌いなのに……」
なんて無神経なことをしていたんだろう。金華がどんな想いをしたかも知らずに、ずけずけと知ったようなことを言って、目の前で縫い物をしたりして。
彼の痛みがわかるだなんて、とんだ勘違いだ。金華が味わった痛みは、金華にしかわからない。銀鈴の痛みが、銀鈴だけのものであるのと同じように。
金華がくすりと笑った。
「らしくないな。暑苦しいお針子娘がおまえの持ち味だろ?」
「暑苦しいってなんですか、失礼な」
彼は振り向いて、じっと銀鈴を見つめた。
「おまえは、俺を刺したりしないだろ」
銀鈴は、金華を見つめ返した。切れ長の瞳が、ろうそくの明かりを映して揺らめいて見えた。金華猫。妖憑き。そんな肩書きは、この人の本質ではないのかもしれない。傷ついて怯えた猫のように、今は少し丸まっているだけなのかもしれない。
銀鈴は、確固たる口調で言う。
「当たり前です。どんな理由があっても、針で人を傷つけるなんて、私は絶対にしません」
「だから、いい。おまえが針を持ってても気にしない」
金華は微笑んで、また卓に向かった。
ころころと、糸巻きが転がってくる。金華は、自分の足に当たって止まったそれを見下ろした。糸巻きを拾い上げた金華は、くるりと振り向く。
銀鈴が針を持ったまま、うとうとと頭を揺らしていた。色素の薄い長いまつ毛が、白い頰に影を落としている。
「……変な女」
金華にとって女というのは、艶めいて、華やかな存在だった。銀鈴ときたら、その美しい容姿とは裏腹に、仕草や眼差しにかけらも色気がないのだ。まだ十七かそこらだからなのか。単に男を知らないからなのか。
彼女の細い指から針を取り上げようとしたら、銀鈴がくたりと身を傾けてきた。柔らかい身体。香ではない、自然な甘い匂いが漂ってくる。反射的に肩を抱こうとしたら、
「金華さま」
聞き馴染みのある声が、障子の向こう側から聞こえる。返事をしたら、障子がからりと開いた。顔をのぞかせたのは、やはり英俊だ。
「どうかしたか」
「なにかお困りのことはないかな、と思いまして」
英俊は寝息を立てる銀鈴へ目をやり、おや、とつぶやいた。
「さっき寝たんだ。眠たいなら自分の部屋に行けばいいのに」
金華と英俊は、声を潜めて会話をする。
「金華さまが頑張っているから、そばにいようと思ったのでは?」
「扱いに困る。女だけど女じゃないみたいだ」
「金華さまが女性を部屋に入れてなにもしないなんてねえ」
側近は愉快そうな顔でこちらを見る。
「割と驚いています」
「俺がその気を見せても、不可思議な力で跳ね返すんだ」
「はは、きっと妖魔退治の能力でもあるんでしょうね」
愉快そうに笑った英俊は、意味深に目を細める。
「今晩女性がいらっしゃるのなら、銀鈴殿を運びましましょうか?」
「いや、いい。今日は疲れた」
金華はそう言って筆を置き、伸びをした。色事以外で疲れたのは久しぶりかもしれない。
「金華さま、これを」
英俊は、懐から出したものを、金華に差し出す。
「これは……」
「ヒトガタです」
ヒトガタとは、相手を呪う際などに使われる、人を模した板切れのことである。板の表面には、名前が彫られていた。陽銀鈴――。
「これをどこで?」
「銀鈴殿の肩にくっついてました」
「おまえ、他人の手跡に詳しいだろう。誰が書いたかわかるか」
「これは、手書きではなく彫刻ですので……特定は難しいかと」
金華は鼻を鳴らした。
「くだらないことをするやつもいるもんだな。今時ヒトガタとは」
「こういうものに、はやりすたりってあるんでしょうかねえ」
いつの時代も、他人を貶めようとする人間は存在する。
「にしたって、なんで銀鈴に?」
「金華さまが仲良くしている女性たちの一人では?」
「そんな面倒な付き合いはしてない」
「わかりませんよ。さっぱりして見えても、女性は思わぬことを気にするものですから」
「やけに実感がこもってるな。実体験か?」
「いえいえ、金華さまと違って奥手なもので」
「嫌味か、それは」
英俊はははは、と笑い、障子に手をかけた。
「ああ、そうそう。料理人が喜んでいましたよ。金華さまが春菊を全部食べてくださった、と」
「……」
面食らっている金華に微笑みかけて、英俊は部屋を出て行った。
「嫌がらせじゃ、なかったのか……」
その呟きが、部屋にポツリと落ちた。