21
皇金華は夢を見ていた。銀髪の少女が金華の頭を撫でている夢。新緑のような瞳。細い手足。鈴の鳴るような声。銀鈴……?
……金華さま、金華さま。
呼び声に、金華はふ、と目を開いた。やたらと固い地面に、藁が敷かれている。目の前には格子。ここは牢屋だと理解する。日が差していないから、恐らく地下牢だろう。
どうやら、壁に背をつけて眠っていたようだ。無理な体勢で寝ていたからなのか、動こうとすると節々が痛む。
呻きながら身を起こすと、柵越しに誰かの顔があるのに気づいた。ニコニコ笑う、食えない男の顔……。
「おはようございます、金華さま」
「……おまえか、英俊」
英俊はふふっ、と笑った。
「申し訳ありません、銀鈴さまじゃなくて」
図星を突かれた金華は、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「べつに、銀鈴だとは思ってない」
「十二年ほどあなたにお仕えしてきましが、そんな顔は初めて見ますよ」
微笑ましげな表情の英俊に、金華は不機嫌に眉をひそめた。そうして彼は、ふ、と下を見る。やけにすうすうする、と思いきや、着物を一枚羽織っているだけた。
「……なぜ俺は服を着ていないんだ?」
「覚えていらっしゃらないのですか」
「湯呑みを手にして、毒茶を飲み干したところまでは覚えてるんだが」
一体何をしでかしたのやら、手足がやたらと傷だらけだ。
「あなたは、金華猫に成られたんです」
金華はハッとした。
「俺は……誰か殺したのか」
「いいえ。雪合戦でもそうでしたが、金華さまは攻撃力皆無ですからねえ」
「そうか」
ほ、と息を吐き、
「だが、こんなところにいるということは、何かやらかしたんだろう」
「王妃さまのお部屋に乱入したんですよ」
「それは大ごとだな」
「まあ、金華さまはなんといっても彼女の息子ですから、母に甘えたい息子心を強調したらイケるんじゃないですかね」
「……そんな微笑ましい言い訳が通用するか?」
「させますとも。あなたに死なれたら困る」
英俊は穏やかに言った。いい場面のはずだが、金華には寒さが堪えていた。金華はくしゃみをし、身体を震わせる。
「とりあえず、何か着るものをくれ」
「はい、ただいま」
英俊はうやうやしく礼をして、牢を出て行った。もう少し眠るか。そう思い、目を閉じかけたとき。
「ごはんを持ってきただけです!」
鈴の鳴るような声がした。
「銀鈴……?」
兵士を押しのけるようにして、銀鈴が入ってくる。彼女は金華を目にして、ぱっと顔を明るくした。
美しい銀髪が短くなっているのに気づき、金華はハッとする。彼女は牢内に入ってきて、受け取り口からお盆を差し入れる。
「おはようございます。これ、朝ごはんです」
「おまえ、その髪は」
「ああ、すっきりしたでしょう? もうすぐ春だから、切ってみたんです」
銀鈴はそう言って笑う。金華は、彼女の手の甲に包帯が巻かれているのに気づいた。
「その手は……」
「こら、忌み子。出て行かぬと痛い目を見るぞ!」
兵士が銀鈴の背中に怒鳴る。金華は、銀鈴が暴行されないかと不安を抱く。
「はいはい、わかりました! また来るから!」
そのままずかずか歩いていく。嵐のように現れ、また去って行った銀鈴を、金華は呆然と見送った。お盆には、ほかほかの上湯とご飯が乗っている。付け合わせは、金華の嫌いな春菊のおひたしだ。
「よりによって……」
金華は苦笑した。最後の晩餐になるかもしれないというのに。そんなことを思ってもみないのが、銀鈴らしいというか、なんというか。
上湯を飲んでいたら、着物を手に英俊が戻ってきた。
「お待たせしました。先ほど銀鈴殿とすれ違いましたが……」
「ああ」
金華は春菊を口に入れた。やはり、好きな味ではない。苦くても食べなさい! 銀鈴ならそう言うだろう。
暑苦しくて、元気で、色気がなくて、だが彼女といると、普通の人間になれた気がした。金華猫のことを一瞬でも忘れられた。金華は春菊を飲み込み、箸を置く。
「英俊」
「はい」
「銀鈴のために、何かしてやりたい。あいつの夢を、叶えてやりたい」
英俊は微笑んだ。
「ええ」
彼はちらりと牢の外へ目をやり、声をひそめた。
「ひとつ、いい方法がありますよ」
「なんだ」
「ある国に、とても美しい踊り子がいました。彼女はとある王国の君主と結ばれ、実際の国政にも手を及ぼした」
英俊は唐突にそんな話をし出す。金華は面食らったのち、記憶をたどった。それはたしか、一華国が「真」と呼ばれていた時代の話だった気がする。傾国の美女と名高い女。
「……その女は確か、『大陸の三大悪女』と呼ばれてるんじゃなかったか」
「まあどんなに可憐でいい子でも、地位と権力を手に入れたらコロッと変わることは多々ありますからねえ」
「なんだ、その実感のこもった言い方は。何かあったのか」
「いえいえ、たとえですよ」
つまりは金華に対し、王になれと言っているのか、この男は。思わず笑ってしまった。
「妖憑きが王? 笑えるな」
「人生楽しい方がいいですよ、金華さま」
英俊はにこりと笑った。
「とりあえず一見打ちのめされているように見える、一番しょぼい着物を持ってきましたから」
英俊が差し出したのは、銀鈴がぞうきんにすると言っていた着物だ。
「……必要か、それ」
「必要ですよ。能ある鷹は爪を隠す」
「こちとら猫だがな」
「いいですね、軽口を叩く余裕がでてきました」
いつでも余裕なのは英俊だ。金華は肩をすくめ、「質素な」着物を羽織った。それから、銀鈴が刺繍を施した羽織りに目をやる。
「これを着ていってもいいか」
「まあ、それくらいならいいでしょう」
金華は羽織りを着て、牢屋を出た。
着物に着替えた金華は、兵士に取り囲まれ、大宮殿へと向かう。大宮殿の中に入ると、官吏たちがずらりと並んでいた。その先に座っているのは、王と王妃である。
二人とも、金華を見る目はひどく冷たい。金華は兵士に脇を固められたまま、礼をした。英俊は背後に控えている。
「──そなた、王妃の寝室に押し入ったというのは誠か」
「はい、そう聞いています」
王の問いに、金華は答えた。
「もう恐ろしくて恐ろしくて……」
王妃が声を震わせる。金華はこう返した。
「しかし、記憶が曖昧なのです」
「白々しい。愚かにも暦を忘れ月光を浴びて、化け猫に変身したのよ」
「いえいえ、金華さまは満月の晩、ちょっとどうかと思うくらいに厳重警戒をしてやり過ごすんですよ。その日は女性も一切部屋に入れませんしね。もう、本当に借りてきた猫のようで」
口を挟んだのは英俊だ。王妃がきっ、と英俊を睨みつけた。
「おまえは黙っていなさい」
英俊は肩をすくめ、
「それに、普通の変身では、金華さまは理性を失わない。それにたとえ変幻しても、女性を傷つけるような方ではない」
王妃は、そんなこと知らないし興味もない、と告げた。その言葉は真実なのだろうと金華は思う。
「では、私以外の方に聞いてみましょうか。あなたの最愛の息子、夾月さまとか」
官吏たちがざわついて、一番前にいる夾月へ目をやった。彼は素知らぬふりをしている。
「そもそも、金華さまが蟄居になったのは、朝貢に添えられた手紙ゆえでした。手紙の内容は──ああ、なんでしたか?」
夾月は興味がなさそうな口調で、
「兄上が自分を王に指名してくれ、って奏上したんでしょ」
「そうそう。それでですね、その手紙がこちらなんですが」
英俊は懐から手紙を取り出した。官吏たちのざわめきが大きくなる。
「これはとある方の字でして。ご自分でおわかりになると思いますが」
英俊は、縫糸部三人衆に目をやった。
「ね、琢磨殿」
「!」
他二人が、驚愕の眼差しで琢磨を見た。琢磨は、口罩をしている。息をするたびに、眼鏡が曇っていた。
「風邪をひかれたようですね。大丈夫かな?」
琢磨は答えず青ざめている。
「話せないくらい重症みたいですねえ。彼は、これを銀鈴殿の肩にくっつけるくらい、忌み子がお嫌いなようで」
英俊はそう言って、ヒトガタを差し出した。琢磨の顔色は、いまや青ざめた顔が通常の迫眞よりも悪い。
「琢磨殿の裏にはとある方がいらっしゃいます。ね? 夾月さま」
「なんでその手紙を持ってるの?」
「はは、まあ色々なツテがありますので。そんなわけで、奏上文を書いたのは金華さまではない」
「だからなに。兄上が母上を襲ったことに変わりはないよ」
「ええ、そうですね。二つ目。なぜ金華さまが化け猫になったか」
英俊は指を二本立てた。
「これはですね、証人がいらっしゃいますので話を聞きましょう。どうぞ、桃李さん」
靴音が響いて、黒づくめの男が入ってきた。腕を包帯で吊っているので、白が際立つ。彼は国王と王妃にうやうやしく礼をした。
「お初にお目にかかります。李桃李でございます」
「なんなの、この男は」
王妃がイライラした声をあげる。状況を把握できないことに苛立っているのだろう。
「彼は『明月亭』の主人を補助する方でして。有能なのに報われない二番手という、ちょっと私に似ているお方ですが」
桃李が眉をひそめて英俊を見た。
「私はそのようなことを思っていませんが」
「おっと、失礼しました。ともあれ、ほとんどの商談は桃李さんが管理している。ですね?」
「ええ」
「では、あちらのお方に見覚えがありますね」
英俊は夾月を手のひらで示した。桃李がうなずく。
「もちろん。曜変天目をご購入いただきました」
「彼はそれをどうすると言いましたか?」
「兄上に差し上げると……兄上は蟄居されてしまったので、慰めも兼ねて誕生日に差し上げるとおっしゃいました」
「なるほど」
王妃が英俊を睨みつけた。
「おまえはいったい、何が言いたいの」
英俊は目を細め、
「王妃さま、夾月さまの気質について、かなり問題があると私は思っています」
「なんですって?」
「夾月さまはおそらく、金華さまを――そして王妃さま、あなたを殺そうとしたのでしょう」
王妃は目を見開いた。
「なん……」
「曜変天目は蠱惑の器。金華さまは化け猫となり、深層心理で憎む相手を襲う。夾月さまはそれを狙ったのでは?」
「そんなの憶測だよ」
夾月が冷めた声で言った。
「僕は茶碗を兄上にあげただけ。曜変天目の効果なんか知らないよ」
「さあ、どうでしょうね?」
英俊の意味深な返答に、夾月は舌打ちする。
「僕、君が嫌いだな」
まるで気にした様子もなく、英俊は笑顔で返す。
「そうですか、残念ですねえ」
王妃が動揺した声を出す。
「夾月……おまえがそんなことをするわけないわよね?」
夾月はじっと王妃を見た。それから笑みを浮かべる。
「もちろん。母上の息子だもの」
その言葉に、王妃が身体を震わせる。
金華はぽつりと呟いた。
「……昔、お針子が自死をした」
王妃を見据えて言う。
「俺を殺すよう、あなたが彼女に指示をしたのでは?」
「今更なんの話をしているの」
「針から出た毒には、紫陽花が使われていたそうですよ」
英俊が口を挟む。
「たしか後宮の近くに、紫陽花が咲いていましたねえ」
「おい、何の話だ、王妃」
王が王妃に視線を向ける。王妃はぎゅっと唇を噛んだ。
「……くだらない。早くその化け猫を殺してしまいなさい! 後ろにいる生意気な男もよ!」
兵士たちは顔を見合わせている。
「生意気な男って私ですかね?」
英俊はそんなことを言ってとぼけていた。
「何をしているの、早く……」
「あーあ」
夾月が口を開いた。官吏たちの視線がそちらに向く。
「つまらないなあ。どうでもいいじゃない。誰が死のうがさ」
「夾、月?」
王妃が声を震わせた。夾月は後ろ手を組んで、ぶらぶら歩き出した。
「待ちなさい、夾月……っ!」
夾月は舌打ちし、振り向きざまに剣を引き抜いた。それを王妃に突きつける。
「あの化け物を生んだのはあんただろ? 気持ち悪いから、僕にべたべたしないでよ」
王妃は息を飲む。大きな目が、見開かれている。そんな中、夾月の剣を押さえ込んだ人物がいた。夾月は、冷めた目でその相手を見返した。
「……なに?」
金華は夾月を見下ろし、低い声で言う。
「母上に謝れ」
「兄気取り? 化け猫のくせに。笑えるんだけど」
「夾月」
金華は夾月を見つめた。その瞳に一瞬、夾月が怯む。彼はそれを恥じたように顔をしかめ、
「……はいはい、すいませんでした」
そう言って剣をおさめた。そのまま大宮殿を出て行く。王妃は金華を押しのけて、夾月のあとを追いかけた。
「待って……夾月、夾月!」
二人が去ると、場が騒然とした。
「なんという……夾月さまがあのようなお方とは」
「いや、私は前々から奇妙だと思っていた」
「陛下、まだ世継ぎを変えることは可能です」
「そうです。二嬪さまのお子である、民青さまなどはいかがでしょう」
王は黙り込んでいる。彼は額に手を当てた。
「……少し気分が悪い。世継ぎのことはまた後日考えよう」
玉座から離れた王は、足早に部屋から去っていく。そのあとに臣下たちが続いた。
「陛下! お待ちください、陛下……」
喧騒を聴きながら、金華は佇んでいた。母に振り払われた手を、じっと見ていた。かすかに赤くなっている。英俊は、ため息まじりに言う。
「夾月さまと金華さま。本当に化けものなのはどちらなのでしょうね」
「以前は……」
金華はぽつりと呟いた。
「え?」
「母上に嫌われていることが、この世の終わりのように思えた」
だが今は、心は凪のように静かだ。
「金華さまには私がいますよ」
英俊が片目をつむる。……なんだろう。あまり嬉しくない。
「おまえ、いつの間に手紙を手に入れたんだ」
「元調査官のよしみで、現調査官の青年とちょっと話をしただけですよ」
英俊は片目を瞑る。ちょっと話をしただけで、こんなものが手に入るわけがない。
「脅したのか……闇夜に気をつけろよ」
「いやだなあ、誰かを脅したことなんかありませんよ」
「よく言う」
「あの」
声をかけられ、英俊と金華は振り向いた。桃李がぽつんと立っている。
「私はもう帰っても?」
「ええ、ありがとうございました」
桃李は踵を返しかけ、ピタリと立ち止まる。
「陽銀鈴は……お針子になれそうなのですか?」
英俊がちらりとこちらをみた。金華は強く頷く。
「ああ、必ず」
桃李はふ、と表情を緩めたが、咳払いして、また歩いて行った。英俊が呑気な声で、
「銀鈴殿は結構おモテになりますねえ」
「は?」
「頑張らないとねえ、金華さま」
「……」
桃李の後ろすがたを見送り、金華は自分の着ている羽織を見下ろした。銀の鈴と金の華が刺繍されている。英俊に目をやって言う。
「英俊、一華国に手紙を書きたいのだが」
英俊は一瞬目を瞬き、うやうやしく礼をした。
「遵命(はい、我が君)」
呂宋がこちらにやってくる。
「おや、呂宋くん」
「ちょっと英俊さん~無茶ぶりやめてくださいよ~」
「まあまあ、筆あげますから。ね?」
「いらないですよそんなの~」
「字が上達するかもしれませんよ」
「さりげなく下手って言ってますう?」
金華は、目を瞬いて二人のやり取りを見た。
「呂宋、まさか……おまえが調査官なのか」
「内緒ですよ~?」
呂宋はそう言って、片目をつむった。