20
「さむうっ」
銀鈴はガタガタ震えながら、足踏みをしていた。動いていればとりあえず凍死はしないだろうと踏んだのだ。ずっと足踏みしていたせいで、もうクタクタだ。ああでも、立ち止まったら凍死一直線だし……。
「なにかいいことを考えよう……」
震えながら、銀鈴はつぶやく。
お針子になったら、初給金でお肉を買おう。みんなにお腹いっぱい食べさせてあげよう……。
その時、がこん、と音がした。銀鈴はハッとして立ち上がる。氷室の入り口から、わずかに光が差している。入口から這い出て外を覗くと、大きな岩が転がっていた。たたた、と足音が聞こえてきて、誰かが駆けていく後ろすがたが見える。
「ちょっ、待ちなさいよ!」
銀鈴は氷室から出て、その後ろ姿を追った。手足がかじかんで、うまく動かない。駆けていたら、悲鳴が聞こえてきたので足を止める。
「何……?」
銀鈴は、声が聞こえてきた方へと歩いていく。逃げ惑う人々が見えた。巨大な猫が暴れまわっている。兵士たちが追いかけまわし、矢を射ていたが、猫の毛皮は鎧のように固く、まるで効いていない。
「っ、金華……!?」
銀鈴は目を見開いた。一体どうしたというのだ。明らかに昨日と様子が違う。金色の瞳が、真っ赤に染まっていた。
「どうしてあんなことに……」
「本当ですねえ」
銀鈴はその声にはっと振り向く。柳英俊が立っていた。
「英俊さん! 釈放されたんですか」
「ええ、皆さん忙しそうだったので、勝手に出てきてしまいました」
英俊はそう言ってほほ笑む。その頬に赤く腫れた跡があった。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大したことじゃありませんよ。殴った相手の顔と名前はちゃんと覚えていますから、ぜひお友達になるつもりです」
英俊は笑顔でそう言った。バタバタ駆けてきた兵士たちが叫ぶ。
「普通の矢では敵わぬ、毒矢を放て!」
「だめ!」
叫んだ銀鈴を、英俊が阻む。
「危険です」
「でも金華が……」
「金華さまは毒に強い。おそらく、金華猫の体質ゆえに、耐性があるのでしょう」
金華は兵士たちからの攻撃をよけ、屋根を飛び越えて消えた。
「どこへ行く気なのかしら」
「あちらには、後宮があります」
その言葉に、銀鈴ははっとする。めったなことでは金華さまは死なない。英俊は、見たことがないほど真剣な顔で言った。
「むしろ、誰かを殺してしまう可能性の方が高い」
銀鈴は顔をこわばらせた。
「あなたは十分やってくれました。あとは私がなんとかします」
「な、なんとか、って」
「あまり計画はない。強いて言えば──当たってくだけろ、ですかね」
英俊はそう言って、金華が消えた方に走り出した。
「〜っ」
銀鈴はぎゅっとこぶしを握り締め、月籠庵へ向かった。
「婆様!」
月籠庵にたどり着いた銀鈴は、祖母の名前を呼びながら中へ入った。障子を押し開けると、糸車を回していた祖母が手を止めた。
「銀鈴、あんたどこへ行ってたんだい」
銀鈴は部屋に駆けこんで、息をついた。
「そんなことより、金華が大変なの」
「あの化け猫、何かやらかしたのかい」
「いきなり暴れて……金華じゃないみたいで」
祖母は鼻を鳴らした。
「それが本性さ。今まで猫を被ってたんだ」
「婆様……金華猫について何か知ってるの?」
「だったら、どうだって言うんだい」
銀鈴は、しわくちゃの祖母の手を掴む。からからと、糸車の回る音がやんだ。
「お願い、話して。金華を助けたいの」
「……金華猫は、人間の子供に寄生することがある。無理に引き剥がすと、その子も死ぬ」
銀鈴は頷いた。
「それで?」
「なるべく月の光から隠すこと。金華猫憑きはそうやって育つ」
祖母はかすかに震える声で言った。
「私の兄はそれだった」
赤ん坊のうちならいい。だが、大きくなれば月の光を防ぐ手立てなどない。封じておくための銀など買えない。もてあました両親は、兄を山奥に捨てた。
「満月の夜になると、兄は里に降りてきて人を殺した。謗られた両親や私は村八分の目にあい、里から逃げた」
逃げた先に、寺があった。兄は寺までついてきた。
「坊主はこう言った。銀の糸を使って刺繍をし、その着物で兄をくるめと」
だが銀の糸などなかった。祖母はつぶやいた。
「だから、代わりに異人の髪を使ったんだ。寺にはご遺体が集まってくるからね……」
銀鈴はぞっとした。
「……それで」
「兄は静かになった。それで、普通の子供に戻ったのさ。七十まで生きて、大往生だったそうだ。私は、あの人が死ぬまで兄さんとは呼べなかった。兄を見ると、化けものの顔がちらついた」
あんたの母親を見たときは背筋が凍った。美しい銀の髪、新緑のような澄んだ瞳。
「銀の髪は、あのときに見たご遺体の髪によく似ていた……見るたびに思い出してしまって、ずいぶんきつく当たったよ」
「婆様……」
銀鈴はうつむいて、ぎゅっと拳を握りしめた。
「私を見ても、そう思うの?」
「いいや……なんて可愛い子だと思ったさ。だが哀れにも思った。だからまた、あんたの母親を責めたよ」
あんたは可愛い孫だ。悠鈴も、晶馬も、可愛い孫だよ。逝ってしまった父母のぶんまで、私があんたたちを守らなきゃならない。
彼女はそう言って、目を潤ませた。シワのある指が、銀鈴のほおを撫でる。
「だからあんたには……金華猫なんかとは関わって欲しくなかった」
銀鈴の瞳から、涙がこぼれ落ちた。祖母の手をぎゅっと握り締める。
「でも、金華はひとりぼっちなの」
金華には、泣いてくれる人も、心配してくれる人もいなかった。かわいそうだなんて思うのは、傲慢なのかもしれない。でも、彼に何かしてあげたい。
「今日は、金華の誕生日なの。せめて私は、あの人におめでとう、って言ってあげたい」
「どうする気だい」
銀鈴は涙をぬぐい、祖母を見据えた。
「力を貸して、婆様」
先ほどから、何やら騒がしい。王妃は眉をひそめた。
「一体何の騒ぎ?」
駆け込んできた兵士が、緊迫した声で言った。
「王妃様、お逃げください! 金華さまが乱心されました」
その言葉に、王妃はぴくりと肩を揺らした。
「金華?」
問い返した直後、兵士の身体が吹っ飛んだ。女官たちが悲鳴を上げる。獣の息づかいが聞こえてきた。姿を現した巨大な猫に、王妃はのどを引きつらせる。
「ひっ、なんなの……」
猫は、ゆっくりとこちらに近づいてきた。裂けたように大きな口から、鋭い歯が覗いている。そばにいた女官が、ふっと意識を失って倒れた。
「誰か! 誰かいないのですか!」
王妃は悲鳴交じりに叫んだ。鼻先近くまで来た猫に、近くにあった手鏡をぶつける。猫が吠えて、口を大きく開けた。口の中で、白い光が膨らんでいく。
「──!」
光が放たれようとした、その時。
「金華さま」
その声に、化け猫が振り向いた。青年が一人立っていた。王妃が声を震わせる。
「え、英俊」
英俊は、金華ににこりと笑いかける。
「帰りましょう。銀鈴殿が心配してますよ」
金華はがあっと吠えた。だめですかねえ。そう言って、英俊は何かを懐から取り出した。
「これ、お誕生日のお祝いです。最近使うことが増えたでしょう?」
金華は筆を前脚で払いのけた。ころころ転がっていく筆。英俊はあっ、ひどい、と声を漏らした。
「金華さま」
その声に、英俊は視線を向ける。
部屋の入り口に、少女が一人立っていた。瞳は新緑のような緑。乱雑に切りそろえられた銀髪が、ほっそりした肩の上で揺れている。
「銀鈴殿?」
金華は低い鳴き声をあげながら、銀鈴のほうへ近づいて行く。そうして、前足を振り上げた。銀鈴がじっと見つめると、その手が止まる。金華は銀鈴ではなく、傍にあった壺に爪を伸ばした。
がしゃん、と音がして、砕け散った破片が舞う。近づくなと言わんばかりに、金華は卓をなぎ倒し、打ち掛けを引き裂いた。そうして、裂けた口で吠える。怖がらせようとしているのではない。彼自身が怖がっているのだ。
「怖くないわよ」
銀鈴は、金華を見据えて言った。
「ぐうたらで、女たらしの金華さま。情けなくて、でも優しいってこと、ちゃんと知ってる。あなたなんか、全然怖くないわ」
銀鈴が一歩近づくと、金華はびくりと身を引く。後退りながら、しゃーっ、と歯を剥いた。もう一歩近づくと、彼が伸ばした爪が、銀鈴の袖を切り裂く。腕に傷が走って、鮮血が流れ落ちた。
「ひ、ひいっ」
部屋の隅で、女官たちが震えながら抱き合っていた。傷口がかすかに痛む。これが、金華が感じてきた痛みなのだろうか。
銀鈴は、また金華に近づく。彼の口の中で、白い光が膨らんでいるのがわかった。
(月亭の精……)
あれを身に浴びたら、きっと死ぬのだ。それでも逃げようとは思わなかった。
銀鈴は金華の方へ腕を伸ばした。そうして、手に持っていたもので、ふわりとその体を包み込む。銀髪と金の糸で、刺繍を施した羽織り。時間がなくて、わずかな刺繍しかできなかった。でも、一針一針に、心を込めた。
「お誕生日おめでとうございます、金華さま」
銀鈴は、柔らかい声でそう言った。
「……」
金華の身体が、ぱあっ、と光り輝いた。みるみるうちに、獣の姿が人へ戻っていく。銀鈴は、人の姿になった彼を抱き留める。金華は目を閉じていた。
「金華さま?」
声をかけたら、寝息が聞こえてきてホッとする。
「誰か……誰かいないの!」
王妃が甲高い声をあげた。バタバタと足音が聞こえて、兵士たちが部屋に走りこんできた。王妃は、金華を指差して言う。
「この化けものが、私に襲いかかったのよ! 早く殺してしまいなさい!」
兵士たちは、気を失っている金華を、戸惑い気味に見ている。どう見ても人である金華に、刃を向けるのをためらっているようだ。
「しかし……」
「何をしているの! もういいわ、私が……」
王妃が兵士から剣を奪い取った瞬間。
英俊がひょいっと金華を肩に担いだ。銀鈴は、慌てて金華に着物をかぶせる。
「お沙汰は後々。ね?」
王妃は冷たい目で英俊を見て、剣を放り投げた。
「……檻につなぎなさい」
「大丈夫ですよ。金華さまは……」
「早くおし!」
英俊は肩をすくめ、金華を連れて部屋を出た。銀鈴は、慌てて二人を追いかける。
「英俊さん」
「銀鈴殿、今日はお疲れでしょう。お部屋に戻ってください」
「金華はどうなるんですか」
不安げな銀鈴を見て、英俊はふ、と瞳を緩めた。
「大丈夫ですよ。金華さまは、銀の匙を手に入れた」
「銀の、匙……?」
彼は笑みを浮かべ、金華を連れ、梅の香る中を歩いて行った。